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特集!あの人の本棚
280.

平田静子   (ヒラタワークス株式会社 代表取締役社長/出版プロデューサー)


お茶くみOLから、400万部のベストセラーを生んだプロデューサーへ!女性のキャリアの作り方【インタビュー】

平田静子
累計400万部のベストセラー『チーズはどこへ消えた?』をはじめ、数々のヒット作を世に送り出してきた、出版プロデューサーの平田静子さん。現在は2つの会社の代表で、プライベートでは2児の母でもあります。

そんな輝かしいご経歴の平田さんですが、短大を卒業した1969年頃は「女性は結婚して家庭に入るもの」と思われていた時代。入社した会社では、なんと女性の定年は25歳と決められており、最初はいわゆるお茶くみOLでした。

そんな中、どのようにキャリアを築いていったのかーー。『女性のキャリアの作り方』というテーマでお話を伺いました。
お茶くみOLから、400万部のベストセラーを生んだプロデューサーへ!女性のキャリアの作り方【インタビュー】

女子25歳定年制だった時代、フジテレビに入社。野心も何もない普通のOLとしてキャリアをスタート

短大を卒業し、1969年にフジテレビに入社しました。今では信じられない話ですが、その頃のフジテレビは『女子25歳定年制』。これは、なんとなく25歳ぐらいになったら辞めてくださいねという雰囲気だったのではなく、女性は25歳、男性は55歳が定年だと規定されていたんです。ですから、就職活動の面接で聞かれたことは「25歳になったらどうしますか?」でした。そこで「結婚して辞めます」と答え見事合格した次第でした。

当時は『女性は結婚して家庭に入るもの』と思われていたので、企業側も女性を育てようとはしませんでしたし、私も含めて入社した多くの女性達は、仕事を続けていこうとか、出世したいなどの野心はありませんでした。私のキャリアは、そんな雰囲気の中でスタートしたのです。

成功哲学のゴールデンルールは、相手の立場に立って考えること

入社後の仕事は、お茶くみやコピーとりなどの事務作業。そんな中、気づいたことがありました。私は「人に喜んでもらうことが、自分自身の喜びになっている」ということに気づいたのです。

例えば毎日お茶を入れていると、Aさんは濃いお茶が好き、Bさんは薄いお茶が好き、Cさんはぬるめがいいなど、それぞれの好みが分かってくる。相手に合わせてお茶を入れていると、「お静ちゃんのいれたお茶って美味しいね」と喜んでくれた。この時、私はとても嬉しかったんです。

コピーとりも同じ。ホチキスの位置なんて細かいことですが、「この人は右止めの方が見やすいかな?左止めの方が見やすいかな?」と考えながら用意すると、「お静ちゃんが作ってくれた資料は見やすいね」と言ってくれた。

こうやって相手に喜んでもらえること、役に立つことがとても嬉しかった。逆に私の方が、彼らからパワーをもらったような気がしました。

そんな風に働いていると、上司から「じゃあ今度はこれをやってみる?」と新しい仕事を提案されました。「はい、やります!」「じゃあ今度これは?」「やらせてください!」とやっていくうちに、仕事の質がどんどん変わっていき、よりやりがいのある仕事を任せていただけるようになりました。

これは私の感覚なんですが、階段を登るようにトントン拍子に上がっていったというより、スパイラルを描くように少しずつ信頼を積み上げながら登っていった感じでしたね。

相手の喜びが自分の喜びにもなるということは、相手の立場になって物事を考えられるということだと思います。後になって、これこそが成功哲学のゴールデンルールなのではないかと気づきました。

結婚・出産後も仕事を続け、フジテレビ初『働く女性の事例』を作っていった

プライベートでは、23歳の時に学生時代からお付き合いしていた男性と結婚。24歳には長女を出産しました。

この頃の女性は、結婚や出産を機に退職する人がほとんどでした。そんな中、当時の上司に妊娠の報告をしに行った時のこと。「君は子供が生まれるのに、辞めないのか?」と聞かれました。私は「25歳になるまで1年あるので、それまで辞めません」と答えたところ、「君はホトトギスかね」と言われました。

ホトトギスは卵を産んでも自分で温めずに、ウグイスに温めさせる習性があるんですね。つまり上司は「君は自分が産んだ子供を産みっぱなしにするのか。人に育てさせるのか」という比喩で言ったんです。今だったらパワハラですね(笑)

そして、私が25歳になる直前に女子25歳定年制が全面撤廃になりました。なんと、女性も男性と同じように働くことができるようになったのです!この時私は、これまでビクともしなかった重い鉄の扉が開いて、目の前に真っ白な道が続いているような、そんな気持ちになりました。

世の中には、法に反するなど禁じられていることは色々ありますが、この記事を読んでいる皆さんは、「仕事をしてはいけません」と制限されたご経験はないでしょう。そのことを考えると、今、私たちが普通に働けるということ自体、実はとても幸せなことなんですよね。

その後、27歳の時に次女を出産。1年間休職し、復帰しました。結婚しても辞めない、子供を産んでも辞めない、2人目を産んだら1年間休職し、復帰。私は特に野心があったわけではなかったのですが、その時の流れに身を任せて働いていたら、図らずもフジテレビ初の『働く女性の事例』を作ることになってしまったのです。

自分らしく生きるために、31歳で離婚を決断

そして、31歳の時に離婚をしました。実は私が結婚・出産後もフジテレビで働き続けていたのは、お金が必要だったからなんです。主人がいたにもかかわらず、生活そのものはすべて私の収入でまかなっていました。

私は10年間結婚生活をしていたのですが、「娘たちが幸せになるためには、何が大切だろう?」と考えました。その時思ったのが、「母である私が幸せでなければ、彼女たちも幸せになれないのでは」ということ。であれば、私が一人の女性として自分らしく生きるためにも、離婚をしようと決意しました。

この時は母にも相談をしました。すると母は事情をすべて理解してくれて、「そうね、離婚しなさい。そして静子ちゃん、あなたは仕事をしなさい。子供は私に任せなさい」と言ってくれました。うちの母はなかなか厳しい人だったのですが、その厳しい母がくれたその一言が、私を仕事に向かわせてくれました。

それから、子供2人と私の生活が始まってしばらく経った頃のことです。仕事を終えて帰ってくると娘達はすでに寝ており、テーブルに手紙が置いてありました。その手紙には、保育園に通う次女の覚えたてのたどたどしい字で、「おかあさん、はたらいてありがとう」と書いてありました。

それを見た時に、「この子たちは絶対大丈夫だ!」と思いました。自分たちの置かれている立場だけでなく、私の立場もちゃんと理解している。さらに幼いながらに感謝の気持ちを持っているのだから。「この子たちは、決して間違った方向にはいかない」と確信を持ちました。同時に、「よし!娘たちのためにも頑張ろう。この子たちに恥ずかしくない働き方をしよう」と心に誓いました。

厳しかった上司から学んだこと

もう一つ、私を本気で仕事に向かわせた出来事があります。それが、厳しい上司の存在でした。

ある日、次女の小学校の入学式のため、お休みをいただけるよう上司にお願いに行ったことがありました。すると机を叩いて怒ったんです。「どこの会社に、子供の入学式で休む奴がいるんだ!」と。上司は私しか親がいないという家庭の状況を知っているのにも関わらず、1時間説教をしたのです。

当然ながら初めてランドセルを背負って小学校に行く娘を、一人で行かせるわけにはいかない。最終的には説教の後、「分かった。明日は休んでよろしい!」と許してくれました。

私はその時、悔しいやら悲しいやら情けないやらで帰り道、涙が止まりませんでした。小学校の入学式に行くだけで、なぜこんな思いをしなければならないのだろう。「こんなお母さんでごめんね」と、子供たちに申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

でもその厳しい上司が、のちに私が扶桑社というフジテレビグループの出版社に出向することが決まった時、こう言いました。

「お静、お前は本当に頑張ったな。よくここまで食らいついてきた、よく辞めなかったな。俺は偉いと思う。どんなに悔しかっただろうし、辛かっただろうと思う。それをよく耐えたな。よく頑張ったな」という激励の言葉をかけてくれたのです。

私はそれを聞いて、気づきました。上司は、これから男性社会の中で一人で戦っていかなければならない私に対して、男性社会は厳しい所だと教えてくれたのだ。それは彼の愛情だったのだと。

今はイクメンという言葉もあるぐらい、男性も会社をお休みすることが当たり前ですが、当時は子供の学校の行事で休む男性なんて、一人もいませんでした。「そんな男社会にお前は飛び込んでいくんだぞ」、ということを教えてくれたのだと、最後の最後で気づいたのです。

私はこの後、扶桑社で書籍や雑誌の編集長を経て、執行役員や取締役になり、62歳で退職するまで40年以上勤め上げることができました。そして今は、2つの会社の代表をしています。色々大変なこともありましたが、私がここまで仕事を続けてこれたのは、あの時支えてくれた母や厳しかった上司の存在、周りの方々の援助がとても大きいですね。

経験ゼロにもかかわらず、編集長に大抜擢!

扶桑社に出向してからしばらくは、宣伝部で働いていましたが、42歳の時に驚きの人事がありました。ある日、いきなり社長が私のところにやってきて「書籍の編集長をやれ」と言ったのです。

私は耳を疑いました。なぜなら編集長といえば、編集者として経験を重ね、知識も実績も積み上げた末に就くポジション。そこにまったく未経験の私が就くのだから。

「ちょっと待ってください。私は本を作ったこともありませんし、スキルも人脈もありません。私にできるわけがありません!」と断りました。

すると社長は「そうかなぁ。プロデューサーをやるつもりでやってみない?もしダメだったら、すぐ替えるから」と答えました。

この社長の言葉を聞いた時、もしかして私は固定概念に縛られていたのかもしれないと思いました。私の中で編集長は、編集者として経験を積んだ人の中から選ばれて就く、編集のプロ中のプロの仕事だと思っていた。でも必ずしも、自分のイメージする編集長でなくてもいいのかもしれない。ゼロから1つのものを作っていくプロデューサーと考えればいいんだ。そう考え直し、引き受けることにしました。

私は基本的に仕事を楽しんでやっていました。たとえそれがどんな仕事でも。この人事は驚きでしたが、それまで一つ一つの仕事を誠実にやってきたことで信頼され、「この子だったら、何かやってくれるかもしれない」と思ってもらえたから、このようなチャンスをいただけたのかもしれません

そうやって42歳の時に編集長になったわけですが、ここから私のキャリアは大きく動き出しました。


『そういえば、いつも目の前のことだけやってきた』平田 静子
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プロフィール

平田静子
平田静子
ヒラタワークス株式会社 代表取締役社長/出版プロデューサー

株式会社サニーサイドアップキャリア 代表取締役社長。
明治大学短期大学を卒業後、1969年に株式会社フジテレビジョンに入社。84年に株式会社扶桑社に出向し、宣伝部を経て書籍の編集長となり、累計400万部の大ヒットとなった『チーズはどこへ消えた?』など、数々のベストセラーを生み出す。その後、執行役員、取締役などを歴任。2010年に退職後は、自らの会社ヒラタワークス株式会社を設立し、出版・映像・イベント・マーケティングなどのプロデュースに携わっている。並行して2016年より、株式会社サニーサイドアップキャリアの代表取締役を務める。

ライターについて

Writer 13
鮫川佳那子(さめこ)

NY在住ライター/ニューヨーク女子部♡主催。青山学院大学フランス文学科卒業後、サイバーエージェントに入社し広告制作・メディア編集・イベント企画運営に携わる。2015年より夫の海外転勤で渡米し、現在はニューヨークの新聞をはじめ様々な媒体でコラムや、海外で活躍する日本人のインタビュー記事を執筆。またNY在住の20~30代女性が約600名所属するコミュニティ「ニューヨーク女子部♡」を主催し、イベント企画運営も行っている。

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平田静子
ヒラタワークス株式会社 代表取締役社長/出版プロデューサー

株式会社サニーサイドアップキャリア 代表取締役社長。
明治大学短期大学を卒業後、1969年に株式会社フジテレビジョンに入社。84年に株式会社扶桑社に出向し、宣伝部を経て書籍の編集長となり、累計400万部の大ヒットとなった『チーズはどこへ消えた?』など、数々のベストセラーを生み出す。その後、執行役員、取締役などを歴任。2010年に退職後は、自らの会社ヒラタワークス株式会社を設立し、出版・映像・イベント・マーケティングなどのプロデュースに携わっている。並行して2016年より、株式会社サニーサイドアップキャリアの代表取締役を務める。

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