織田信長を「城」「合戦」「宣教師」などの視点から探る本

更新:2021.12.15

100年以上続いた乱世の世を終結に導いた革命児、織田信長。既成概念を壊していくその独創的な手腕は実にドラマティックです。信長を扱った書籍は数えきれないほどありますが、少し視点を変えて読み取ることで新たな信長像が浮かんできます。

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神か悪魔か?天才的軍略の最強武将

織田信長とは尾張(現在の愛知県)の一部を治める守護代から、天下統一をほぼ手中にするまでに登り詰めた革命的な戦国武将です。100年以上続いた戦国時代を終焉に導いた存在と言えます。

その手法は実に革新的で「兵農分離」「楽市楽座」「南蛮貿易」などはあまりにも有名です。また身分よりも実力を重視する人材登用や、領地を転々と国替えする機動力などは、これまでの常識を覆して新しい時代を作ることになります。その手法、考え方は後の豊臣秀吉、徳川家康にも影響を与えることとなるのです。

比叡山焼き討ちや謀反を起こした家臣荒木村重の親族皆殺しなど、悪魔的な所業も語られる反面、キリスト教宣教師の保護、農民や貧困層への施しなど慈悲深い一面も見せます。家臣の木下藤吉郎(後の秀吉)と妻ねねとが喧嘩をしていると聞けば、藤吉郎に説教をして妻ねねにはねぎらいの手紙を出すなど、人間臭い顔も見せる多面的な人物と言えます。

天下統一へあと一歩のところで家臣明智光秀により謀反を起こされ、その生涯を閉じることとなりますが、間違いなく戦国最強の武将と言えるでしょう。

織田信長についてあなたが知らない7の事実

1:舞を好んでいた
 

「人間五十年〜」から始まる「敦盛」の一節を好んでいた信長は度々この一節を舞ったと伝えられており、桶狭間の戦いの直前にも「敦盛」を舞ってから出陣しました。信長が好んだこの一節の意味は「人の一生の五十年は下天ではわずか一日しかあたらず、夢と幻のようなものだ」という意味で人の世の儚さを歌っています。

2:滅ぼした大名の頭蓋骨を酒宴の余興にする

信長は自らが滅ぼした朝倉義景・浅井久政・長政の頭蓋骨を金塗りにして酒宴の余興にしています。信長の、自らを苦しめた敵に対する憎しみをよく表しているエピソードです。酒宴は盛り上がり、信長も満足した様子だったと伝えられています。一説には、頭蓋骨を杯にしたとも言われています。

3:相撲が好きだった

相撲の大会を度々開いたという記述が「信長公記」に書かれています。初めて相撲大会の記録がみられるのは1570年のことで、国中から力士を呼び寄せて常楽寺で相撲大会を開いたという記録が残っています。これ以降、信長は度々相撲大会を開いては活躍した力士を召抱えたり、恩賞を与えたりしていたのです。

4:裏切った武将を度々許していた

父・信秀が亡くなった後の家督争いで弟の信勝へと裏切った柴田勝家と林秀貞を信長は戦いに勝利したのちに許して帰参させています。信長が京に上洛してきた頃、いち早く降伏した松永久秀も後に信長を裏切っていますが、一度許されているばかりでなく、二度目に裏切った時も久秀が自害する前に信長は名器である「平蜘蛛茶釜」を差し出せば許すと寛大な態度をとっています。

5:息子・信忠の能狂いを叱る

信長に家督を譲られ総大将として、数々の戦いを勝利に導く有能な武将に成長した息子の信忠は大の能好きで、信長はそんな息子の能狂いに目を止めて、「武将である者が能にうつつを抜かしているとは何事か」と、能に使う道具を取り上げてしまいます。その後しばらく信忠は謹慎していましたが、謹慎が解けてすぐ弟たちと能を舞って遊興したと伝えられています。

6:黒人をボディーガードとして雇う

キリスト教の宣教師が信長の下を訪れた時、その一行の中に黒人の奴隷がいましたが、信長はその黒人に興味を抱き、頑強で、日本語を操ることもできたこの黒人を大層気に入って、「弥助」と名付けて自らの側近に取り立てます。

7:息子たちの名付け方が適当

戦国時代の武士の子には小さい時だけにつける幼名がありましたが、長男秀忠には顔が奇妙だったことから「奇妙丸」次男の信雄には茶を混ぜる道具からつけた「茶筅丸」三男の信孝には3月7日に生まれたからという理由で「三七」とどれも適当に名付けています。

天下布武に込められた思いとは。新説『織田信長』

神田千里が描いた『織田信長』は、これまでの革新的、革命児とされる信長像に疑問を投げかけた1冊。信長が書いたとされる書状や様々な資料から読み解き、これまで通説とされていた信長像を否定していきます。信長の朝廷、足利幕府への考え方やキリスト教と仏教に対する宗教的な見解など、これまでの通説を丁寧な検証で論破していく本作は、信長研究の第一線的書籍と言えます。

特にこれまで信長が天下統一を目的として使っていたとされていた朱印「天下布武」については、驚かされることでしょう。本書では、ここでいう天下とは全国の統一ではなく、将軍の傘下で機内(現在の近畿)を平定することだと説くのです。

著者
神田 千里
出版日
2014-10-06

「旧秩序の破壊すなわち進歩という観念もまた、わりあい限られた時代の思考であり、いつの時代にもあてはまるとは限らないといえよう。特に近代科学以前の織田信長の時代に、こうした思考が至るところにみられたとは、必ずしもいえない(『織田信長』より引用)」。

こう言い切る本書で、新たな信長像に想いを馳せてみませんか?

一番近くにいた男が見た信長とは『現代語訳 信長公記』

織田信長の近習として近くにいた太田牛一が日記風に書いた覚書をまとめた「信長公記」の現代訳版『現代語訳 信長公記』。もともとの「信長公記」は、信長の死後、秀吉に仕えた太田牛一が豊臣の時代にまとめたもので、信長研究の第一級資料とされています。信長の幼少から本能寺の変までの記録が刻銘に記されています。

現代語で訳されていますので読みやすく、信長の数々の伝説はここから生まれたのだろうと推測できることでしょう。また、近くにいたからこそ知りえる当時の生活風習や登場人物の詳細さ、発言した言葉の数々などは、興味深いものばかり。

特に桶狭間の戦い、美濃攻め、長篠の戦いや本能寺の変などの戦の描写は、各武将の配置や陣ぶれなど事細かく記録されており、その臨場感に引き込まれてしまいます。近習だからこそ、信長の言動をここまで細かく記せたと言えます。

著者
太田 牛一
出版日
2013-10-10

「見苦しいことを信長公がされた。町を通行中、人目をはばからず、栗や柿は言うまでもなく、瓜までもかぶりつき、町中で餅を立ち食いし、人に寄りかかったり、人の肩にぶら下がるような歩き方しかなされなかった。その頃の世間は地味だがしっかりした風潮であったので、信長公を「大うつけ」と言わない人は無かった(『現代語訳 信長公記』より引用)」

信長の幼少を語るときに称される有名な「大うつけ」は、ここから生まれたのですね。

城づくりから読み解く信長の天下取りとは『信長の城』

『信長の城』では、織田信長が生まれたとされる勝幡城から、安土城まで、信長が築城、支配した城の謎が解き明かされます。数々の文献や証言、発掘調査や古地図などから、説得力ある新説を説いています。そこから見える信長の思惑は新鮮で、通説を覆す理論は痛快でもあります。

本書では、謎とされていた信長出生の城を「勝幡城」と断定。最初の信長の居城「那古野城」、織田家代々の象徴的な城となった「清須城」は、尾張統一の足掛かり。美濃進出を睨んで築城された「小牧山城」、美濃攻略後に改築を加えて築城された「岐阜城」は天下布武へと向かう指針。それぞれの時代で、信長の思惑が反映された城づくりには感動さえ覚えることでしょう。

そして、信長の築城の集大成ともいえる「安土城」については、最近の発掘調査からこれまでの安土城のイメージが一新されます。天守の構造や石垣など、これまでの常識と思われていたことが覆るのです。
 

著者
千田 嘉博
出版日
2013-01-23

幅約6m、長さ180mも続く直線道路「大手道」は、天皇行幸を目的として作られたとするのが通説ですが、本書では「大手道は信長の権威を人々に印象づける極めて強い象徴性を発揮したのです。直線を選択した理由には、それが周辺の城内機能にとって合理的であったことに加え、ビスタ(見通し)を意識した政治的演出があったと評価できます(『信長の城』より引用)」として、信長の権威の象徴説を訴えます。歴史的スペクタルを感じる解釈ですね。

織田信長の天才的軍略を考察する『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで』

『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで』は、約30年間に及ぶ信長が行った合戦を網羅した本です。戦略、戦術についても考察されており、信長式合戦の参考書ともいえます。ここまで全合戦をまとめた作品は珍しく、天才とされる信長の軍神ぶりを堪能できることでしょう。

「桶狭間の戦い」「長篠の戦い」「姉川の戦い」など、信長が行った有名な合戦は完勝しているイメージが強いのですが、一向一揆軍との「長島の戦い」や信長包囲網などの際は、負け戦さが続き、実は相当苦労していることがこの本から見受けられます。

著者
谷口 克広
出版日

「朝倉義景というのは、いちかばちかの決戦などとうていできない大将である。~中略~ 信長は、敵将義景の性格までを読み取ってこうした作戦を立てたのである。」(『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで』より引用)

こうした信長の思考、軍略を一戦一戦注釈しているところに、天下取りの道筋を作った天才信長の戦巧者ぶりがわかります。

歴史に「もしも~」は禁物かもしれませんが、たくさんの合戦の中には綱渡り状態の危うい時期もあり、この時もしかしたら…と思わざるを得ない衝動に駆られます。

キリスト教宣教師から見た信長像『完訳フロイス日本史〈2〉信長とフロイス―織田信長篇(2)』

『完訳フロイス日本史〈2〉信長とフロイス―織田信長篇(2)』は、キリスト教宣教師ルイス・フロストが書き残した戦国末期の歴史書「フロイス日本史」の第2巻です。主に織田信長に謁見した時を記述しており、外国人から見た信長の振る舞いや発言が興味深い資料となっています。

著者
ルイス フロイス
出版日

「彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。」(『完訳フロイス日本史〈2〉信長とフロイス―織田信長篇(2)』より引用)

「彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。」(『完訳フロイス日本史〈2〉信長とフロイス―織田信長篇(2)』より引用)

「貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。」(『完訳フロイス日本史〈2〉信長とフロイス―織田信長篇(2)』より引用)

こうした記述からもわかるように、信長の風貌や性格などが記されている重要な資料になっています。イエスズ会宣教師から見た側面ということもあり、全てがその通りだとは思いませんし、フロイスに会った信長も全てをさらけ出したとは思えませんが、それを差し引いても興味深い文献です。

織田信長は、様々な資料や作品でそれぞれ違った魅力を見せてくれます。やはりそれだけ類い稀な人物なのだということでしょう。戦国時代の終焉を導いた絶対的存在の織田信長。色々な本を通して信長像を探るのも歴史の面白さではないでしょうか。

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