追想、セーラームーン的表紙の本【小塚舞子】

追想、セーラームーン的表紙の本【小塚舞子】

更新:2021.12.3

このコラムを書くとき、真っ先に思い出したのが本を愛する祖父のこと。買ってもらった本はほとんど思い出せないけれど、「セーラームーン的表紙の本」を心躍らせながら祖父に見せると「?」という顔をしていた。

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セピア色でもモノクロでもなく、不鮮明な記憶

幼少期の思い出はいつも色が薄い。セピア色でもモノクロでもなく、ブラウン管のテレビ画面のようにざらざらとしていて不鮮明だ。私の最も古い記憶を辿れば、昔住んでいた町の公園へとつながる。わりと大きな道路に面した公園で、道路沿いには広めの歩道もあった。その歩道に、おじいさんが倒れていたのだ。私は母に抱かれながら、そのおじいさんを見ようとしていた。しかし母は私にその光景を見せまいと、私の顔がおじいさんと逆方向に向くように抱き「見たらあかんよ」と声をかけた。そこへ救急車が近づいてきて、母がここですよ、と合図をするように手を振った瞬間、おじいさんの顔が見えた。たぶんケガをしていたのだと思う。何だかとても怖かった……記憶はここまで。

今母親に聞けば、これは私が2歳になるかならないかぐらいの出来事で、母にとっても初めて救急車を呼んだ経験なのではっきりと覚えているそうだ。おじいさんは酔っぱらって倒れてケガをしていたそうで、顔に「いろんなことが起きていた」のだという。31歳の私にも、恐らくグロテスクだったであろう当時の痛々しさをオブラートに包みながら語る母はさすがだ。
そんな母に連れられて、私はよく祖母の家に遊びに行った。祖母と祖父、そして叔父が暮らす家。私は従妹たちとは年が離れていて、しかも一人っ子だったのでみんなに随分かわいがってもらった。祖母の家では、主に叔父に遊んでもらっていた。何とかごっこをしたり、「保存料は入れてないけど日持ちするように」と砂糖が大量に入った、やたらと固くて甘いクッキーを一緒に作ったり。

2年前に亡くなった祖母はお年寄りには珍しいタイプで、夜遅くまでテレビを見ていて、朝はゆっくりと起きてくる人だった。芸能人やちょっとした流行なんかにも詳しくて(私よりよほど敏感だった)、朗らかによく話し、コロコロと楽しそうに笑い、とても丁寧で美しい字を書き、天ぷらをカラッと揚げるのが上手かった。
中学生のときに亡くなってしまった祖父との思い出はそれほど多くない。思い出すことといえば、ダイニングのお誕生日席に座り、祖母の作った料理を黙々と食べて「美味しかったわぁ。ごちそうさん」と何度も何度も祖母に伝える微笑ましすぎる儀式くらいだった。

しかし、このコラムを書いてみませんかというお話を頂いたとき、真っ先に思い浮かんだのは祖父だ。それこそ色彩がほとんどないくらいの記憶で、果たして自分のそれが正しいものなのかも怪しいくらいだが、何かを思い出すきっかけなんて日々の生活の中にそれほど多く転がっているものでもないので、細くて切れそうな記憶の糸を辿ってみた。

祖父は本を愛する人だった。例のお誕生日席に座り、老眼鏡の奥の目をまんまるにしながら、静かにいつも本を読んでいた。歴史小説を好んで読んでいたそうだが、記憶の中の祖父は辞書とか時刻表みたいな、とにかく分厚くて紙が薄い本のページを折るようにめくっている。子供心に一体何を読んでいるのかいつも不思議だった。

自宅近くの本屋さんと祖父

祖父はいつも自宅からすぐそばにある小さな本屋さんで本を買っていた。コンビニの半分よりまだ小さいくらいで、おそらく本の種類もそれほど多くない店だったが、祖父は散歩がてら足繁く通っていた。そして私が家に遊びに行ったときは、決まってその本屋さんに連れて行ってくれた。足が悪かった祖父は私の手を引き、ちょこちょことゆっくり歩きながら、その本屋さんに向かう。

少しだけちょこちょこ歩いては立ち止まって休憩して、またちょこちょこ……ハイ休憩。本屋さんまでのんびり歩いても2~3分の距離を10分以上かけて祖父と私はその距離を楽しんだ。母や祖母は「舞子がおじいちゃんの手を引いてあげているみたい」と笑ったが、私たちの本屋デートについてくることはなかった。それは祖父と私の特別な時間だったのだ。
そこで私は祖父にたくさんの絵本や本を買ってもらい、読む楽しさを教わった。これは後から母に聞いた話なのだが、祖父と私がしょっちゅう買い物に来るので、本屋さんのおじさんに「おじいちゃんもお孫さんも本がとても好きなんですねぇ」と声をかけてもらったこともあるのだという。祖父からしてみれば、小さな女の子と唯一コミュニケーションを取れるものが本だったのだろう。私が本を好きになっていくことを喜んでいたそうだ。

しかし、祖父に買ってもらった本がどんなものだったのかほとんど思い出せない。本屋デートの時間より、その本を読んでいる時間のほうが遥かに長いはずなのに。たくさんの本を読んだことが身になっていないと言ってしまえばそれまでだが、それよりもやはり、「本を読む」という日常的な行動の中に祖父が寄り添っていてくれているようで、祖父と過ごした本屋デートのほうが嬉しい。
ただひとつ、その中でわりとはっきりと覚えている出来事がある。私はその頃『セーラームーン』に夢中で、物語を読むよりもあのキラキラした瞳の、漫画の女の子を見ることが楽しかった。そんなときに本屋さんで、セーラームーン的な表紙の本を発見して心躍った。すぐさま祖父にこれが欲しいと伝え、祖父も一瞬「?」という顔をしたものの、孫娘が言う通りその本を手にレジへと向かった。

するとレジにいたおじさんが明らかに困惑し始めた。「これはねぇ……えーっとねぇ……そういう本じゃなくて……」と何やらもごもごしているおじさん。どんな一言で決着がついたのかは覚えていないが、とうとうそのセーラームーン的表紙の本は売ってもらえなかった。

セーラームーン的表紙の本の正体

さて、どれくらいの方がお気づきだろうか。そう。おそらくそれは“そういう本”だったのだ。子供向けの無邪気なそれではなくて、大人が楽しむもの。なぜ、あんな小さな書店に置いてあったのか。なぜ、私はわざわざそんな本を見つけてしまったのか。なぜ、私がどこかの段階であの本がそういう本だったことに気が付いたのか。疑問点はいろいろあるが、なぜあれほどたくさんの本を買ってもらったのに覚えているのがたったこれだけなのか……ということに尽きる。祖父が聞いたらどう思うだろう……。

冒頭でお話した「公園おじいさん事件」にしても、この「セーラームーン的そういう本事件」にしても、不鮮明ながらも私が思い出せる記憶は全然素敵じゃない。今、試しに幼少期のことを考えてみたが、思い出したのは酔っぱらった父が、抱いていた私を危うく落としかけて母が激怒したことくらいだった。
もうこの辺りで昔を思い出すのは止そう。色が薄くて、不鮮明な記憶でよかったのだ。しかし、もし祖父が生きていたら、このコラムを読んで欲しいと思う。祖父とのあの時間がなければ、私はきっと今パソコンの前で腰を痛めながら文字を打っていることはないだろうから。

ぼんやりと、そして不鮮明な記憶をめぐる本

著者
小川洋子
出版日
2016-01-07
幼稚園の鳥小屋やバラ園、青空薬局。小説を読むときには誰しもが物語の中の景色を思い浮かべるのではないでしょうか。この本の中に出てくる場所は何となくぼんやりとしていて、不鮮明な印象があります。しかしそれが全然関係ないのに自分の思い出と重なるようで素敵。浮世離れしているわけではないけれど、なんか現実味がなくて、なのにノスタルジックな気持ちにさせてくれる一冊。
著者
村上 春樹
出版日
村上春樹氏の小説に登場する人物もまた、不鮮明だと感じることが多いです。その人の生活や服装、心情などはとてもわかりやすいのに顔がはっきりしない。『ノルウェイの森』の直子や緑なんかは別だけど。中でも『鼠三部作』はどの作品を読んでも鼠の顔が『鼠』っていう文字のまんま。これはその第一作目。読んだわ!って思われそうですが、夢の中にいるみたいで好きな作品。
著者
西 加奈子
出版日
2011-08-04
他人の目を気にしてびくびく生きていた主人公が会社をやめ、離島のホテルで過ごす時間を描いた作品。この何ともブルジョワな雰囲気の漂う離島のホテルが、絶対行ったことないのにどうにも記憶のどこかにあるような気がして、モデルとなった場所はないかと検索しまくってしまいました。働く女性なら憧れと共感でため息が出るはずです。

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