【第3回】どうして恋人は必要なのか問題

恋人って、どうして必要なんですか?

恋人って、どうして必要なんですか?
恋人はいなくても大丈夫だ。いなくても健やかに生きていける。ただ、恋愛がない人生はつまらないと、みな口を揃えていう。こんなにめんどくさいことばかりで、生きるだけで大変な世の中において、私たちはまだ退屈しているらしい。刺激が欲しいらしいのだ。

退屈な人生の中で、恋愛は「わたパチ」みたいなものなんじゃないかと思う。文字通り、駄菓子のようにチープな例えで申し訳ないのだけれど、誰かの言葉ひとつでバカみたいに喜んだり悲しんだり、世界が終わるかのように思える。恋愛はわたパチ。下品で、子供っぽくて、舌が痺れるけれど、甘い。

友人と真剣に、「なぜ恋人が必要か」というディスカッションをすることが幾度もある。例えば、友人が『ドラゴンボール』でいうところのセルレベルの強さのクズ男に、空中ブランコかよってくらいにぶんぶん振り回されていたりする時に、その会は開かれる。

「なんでその人と別れないの? 」。しびれを切らして聞くと、友人たちは大抵気恥ずかしそうに、「話す相手が欲しいから」「美味しいものを一緒に食べに行きたいから」「寂しいから」と、そんな理由ばかりを挙げる。私はいつも「じゃあ私で良いじゃん」と返してしまう。私で良いじゃないか。親しい友人とだって、話せるし、美味しいものを食べに行けるし、遊んで寂しさを紛らわせられるじゃないか、と。でも、それではいけないのだ。友人を愛し、時間を割きたいと願う私では叶わない何かが恋人というものには備わっているらしい。忌々しいものだ。
人と付き合ったり別れたりをまがりなりにも経験した24歳の女性としては、恋人である特別さが理解できないわけではない。何と言っても一番である。恋人というのは、「あなたは私のナンバーワン&オンリーワンです」というのを公言するシステムだもの。誰だって一番になりたい。「生きているだけで素晴らしい」と、いくら道徳の授業で連呼されたって、栄養の吸収と排出だけじゃ、私たちは生きている価値を感じられないのだ。誰かの一番なら、誰かにそれほどまで必要とされていたら、生きていける気がする。価値を認められる。

だけど、まだ納得できないんです。その段階までならば、「(友達の)私で良いじゃん」がまかり通る。必要とするよ? 親友として一番だと明言するよ? だからそんな男と付き合わないでくれ、と言いたくなってしまう。「一番」だけではまだ、友人が恋人を補えないとは思えない。でも、例えば親友が恋人と別れてしまった時、どんな励ましの言葉も行動も、恋人の穴を埋めることはなかなかできないのはなぜ? 逆に、恋でも何でも無い、別の男との一晩の方が傷を和らげられたりするのはなぜだろう? そこには決して優劣ではない、何か根本的な違いがある。

もう一度、恋人がいて欲しい理由を考えてみる。そうすると、自分の奥底の部分をさらけ出して、認めて欲しいからじゃないかと思えてきた。

恋人に、とんでもなく恥ずかしいことを言ってしまう時がある。自分から出たとは思えない怪物のような野太い声で怒鳴りつけてしまったことがある。「恋人はそういうものだから仕方ない」という話では決してない。親しき仲にも礼儀は必要です。ただ、自分でも驚いてしまうのだ。なぜこんなに酷いことを愛する人に言っているのだろう、と。信頼できる恋人がいなかった頃は、こんな幼稚な自分を客観的に見ることがなかった。私はただの私で、それを誰かと見比べられる場所などなかったのだ。だから気が付かなかったけれど、私はずっと幼稚だったらしい。

子供は素直だ。不機嫌なら泣き、上機嫌なら笑う。しかし少しずつ、年を経るにつれて、私たちは自分をさまざまなものでコーティングする。建前や理想、周りからのプレッシャー。いつの間にか、原初的な感情は捨てなければならなくなる。子供の頃、母にあんなに抱っこをとせがんだ気持ちも消滅したものとして振る舞うわけだ。だけど、消えたはずのこの感情は、本当に消えているのだろうか? だって、私たちはひとたび誰かと付き合うと、びっくりするほど甘えん坊だったり、わがままだったりする。
結局みんな、捨てられていないんじゃないか。王蟲を隠していたナウシカのように、時折顔を出すたび「出てきちゃ駄目! 」といさめながら、こっそり隠しているのだ。殺すことも見せることもできずに、幼稚な怪物を飼い続けている。

大人になってからでも怪物を見せることを許されている相手が、恋人なのだと思う。だから、恋人には安心感や肯定感があるんじゃないだろうか。人によってはそれが家族ということもあるし、近しい友人ということもあるだろう。でも私は恋人にしか見せられないものがたくさんある。自意識や見栄という衣服を全て剥ぎ取り、脚の奥の、さらにその奥まで見られてはじめて許される心の一部分がある。そこまで晒せる人にしか、みっともない怪物を見せられはしないんだ。

結局、私たちは誰かに自分の中の怪物を見つけて欲しい。そりゃあ、自分で撫でて生きていくこともできるけれど、できれば誰かに受け入れて欲しい。「良いよ」と言ってくれる人が欲しい。そうして今日もまた、恋人が欲しいと思う夜が訪れる。

自分がとんでもない怪物を抱えているから、手強い人ばかり好きになる。この人を愛してあげられるのはきっと私だけだから、私のことを愛さなきゃいけなくなるはずだと思っている。手強い人の中にもきっと、うまく捨てることのできなかった怪物がいる。家族や友人と近しければ、怪物は色々なところで顔を出し、撫でてもらい、小さくなる。しかしそれが無ければずっと、心の奥底で自問自答を繰り返し、巨大化してしまうのだと思う。だから、手強い人は孤独な人が多い。

一人きりでムクムクと育った怪物は、愛されることを待ちわびて時々泣いたりしているだろうから、そっと抱きしめて「大丈夫だよ」と言ってあげたい。「私がいるよ」と、撫でられたことのない背中を撫でて、自分だけが救いだと思わせたい。そのくらいじゃなきゃ、愛してなんか貰えないような気がする。そんな不純な動機で恋をしてばかりだから、私の恋愛はいつも黒星ばかりだ。

自分の心と向き合うための本

著者
はらだ
出版日
2015-02-23
BL界の巨匠、はらださんの短編集。一癖も二癖もある色々な男の子達の恋? 模様を描いた作品。バカにしていたセフレを愛してしまう男。不自由な足を楯にして、大好きな幼なじみを束縛しつづける男。好きな相手を酷い目にあわせることで、心のすき間に入り込んでいく男。モンスターに次ぐモンスターの登場で、自分の中の野蛮な気持ちが目覚めそうになる危ない一冊。
著者
売野 機子
出版日
2013-07-31
大人と子供の境目の無さが美しく描かれている、最先端の少女漫画短編集。恋しているとき、人は子供にもなり大人にもなる。全てがお花畑ではない恋愛事情の中にも、美しい恋の感情がしっかりとある。本の中で出てくる「いつだって人は物語に癒されてきた」という言葉が本当にしっくりくる……。この物語たちは、自分に全く関係のない話のはずなのに、読んでいるうちにいつの間にか、私たちの傷を癒してくれます。同じシリーズで、他に『薔薇だって書けるよ』と『同窓生代行』(いずれも白泉社)があるのでぜひそちらも。装丁も綺麗なので紙で買ってみて。

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  • チョーヒカル

    ボディペイントアーティスト「チョーヒカル」によるコラム。および本の紹介。体や物にリアルなペイントをする作品で注目され、日本国内だけでなく海外でも話題になったチョーヒカルの綴る文章をお楽しみください。

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