落語家の書いた本【和嶋慎治】

落語家の書いた本【和嶋慎治】

更新:2021.12.19

人間椅子・和嶋慎治さんによる連載書評コラム。今回は古今亭志ん生『なめくじ艦隊』、三遊亭圓生『浮世に言い忘れたこと』、柳家小三治『バ・イ・ク』を取り上げます。

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上京して以来、時々落語を見に行っている。落語の面白さはとても一口には語れないが、まず言葉だけでありありと情景が浮かんでくるのがいい。耳で聴く小説みたいなものだ。情緒の綾からあり得ない話まで、バリエーションも幅広い。登場するのは類型化された人間たちで、皆どこかしら身近にいる人々の面影を持っている。ここがまたいい。落語を聴けば、現実に腹の立つことがあっても、ああこういうことなのかと溜飲の下がる思いがするのである。

といって僕はそれほどマニアというのでもなく、たまにフラッと寄席に立ち寄る程度の落語好きなのだが、それでも折々の思い出らしきものはある。東京に来てすぐ、鈴木研一くんと池袋の深夜寄席に入った。若手の勉強会みたいなやつで、客は僕らと仕事帰りのサラリーマンの3人だけ。客は少ないし向こうも若手だしで、何だか居心地の悪い時間が続く中、一人やたらと元気のいい噺家が出た。客の数などものともせず、落語をやるのが心底嬉しくて仕方がないといった風である。僕と鈴木くんは腹を抱えて笑ったものだが、それが春風亭昇太さんだった。

寄席では、落語と講談の合間にイロモノというのをやる。これがまた味があっていい。イロモノで僕が好きなタイプは、愚痴っぽかったり、ふて腐れていたりする芸人。国立演芸場で見たボンボンブラザースの曲芸は痛快だった。天下の国立演芸場なのに、権威もへったくれもあるかといったやる気のなさ。皿は落とすわボールは受け取らないわ、あえてだろうがどんどん間違える。ああこんな見せ方もあるのかと、むしろ感心した。後日、新宿末廣亭で見たボンボンブラザースは、なぜだか普通に曲芸をしていて、これじゃあ魅力半減だよと思ったものである。

上手な噺家というのは、高座に出てきただけで空気が変わる。表情ひとつでグッと聴衆を惹きつける。それを感じてもらうには実際に体験するしかないわけだが……ここでは落語家の書いた本など述べようかと思う。

なめくじ艦隊

著者
古今亭 志ん生
出版日
名人志ん生の半世紀。なめくじ艦隊のなめくじとは、志ん生の住んでいた貧乏長屋に、大量のなめくじが出没したことに由来する。志ん生にはほかに『びんぼう自慢』という自伝もあるが、そちらは70代の作で、落ち着いた回想録といった趣き。対し『なめくじ艦隊』はまだ現役の60代の口述なので、全体に生き生きとした勢いがある。

息子の志ん朝がまくらで、名人の逸話というのは怪談話に近いものがある、普通考えられないことが起こる、と語っていたが、まさに『なめくじ艦隊』はそのような逸話のオンパレード。実際の話なのに、まるで人生が落語のようである。

戦争時分の話は壮絶。終戦間際、志ん生は三遊亭圓生らとともに満州に渡る。圓生は満州から帰って来てから突然面白くなったとは巷間よく言われることだが、ああ、この瞬間に芸が変わったんだなというその消息が、わずか三行ばかりで描かれている。説明過多にならずにさらっと描写して、あとは聴き手の想像力に委ねるというあたり、さすが名人の本だなと唸らされる。

浮世に言い忘れたこと

著者
三遊亭 圓生
出版日
2017-01-06
本当は『寄席育ち』を読みたかったのだが、どうやら絶版。『浮世に言い忘れたこと』はそのタイトル通りに、何やらお年寄りに小言を延々言われている気分になってくる本。

しかし、その一つ一つがもっともなのである。こと芸に関しては自分にも他人にも厳しく、ゆえに芸の高みに達し得た圓生だからこそ、言葉に重みと含蓄がある。我々の人生にもそのまま適用できそうな助言の宝庫。

当然ながら、志ん生の話もたくさん出てくる。本当に2人は仲のいい相棒であり、よきライバルだったのだろう。終戦後の満州で、志ん生が自殺を図った件りがある(この一件は『なめくじ艦隊』では触れられていない)。『びんぼう自慢』によれば、圓生に迷惑をかけてばかりはいられないというので、死ぬつもりでウォッカを6本空けたということになっているが、圓生いわく、あれはすることがないから、ただウォッカをチビチビ飲んでいるうちにひっくり返っただけだ、とのこと。どちらが本当だろうか。志ん生は飯も炊けなかったようで、身辺の世話はすべて圓生が行なっていたらしいから、迷惑をかけていたのには違いなかろう。志ん生自身心苦しくも思っていたはずだ。自殺未遂なのかただの泥酔なのか──どちらも本当だろうし、またどちらでもいい。それは我々が想像をたくましくして、ああでもないこうでもないと考えればいいことだ。なにせ名人の逸話なのだから。

バ・イ・ク

著者
柳家 小三治
出版日
2005-05-13
造幣局に勤めるNさんと飲み友達になった。Nさんは落語マニアで、わけても立川志らくの大ファンである。Nさんに連れられて、志らくの独演会に時々出かけるようになった。帰りには、余韻を楽しむかのように必ず酒を酌み交わす。あまりに話が合うし先祖の出身も同じ地方というし、何かNさんとは前世の時からの友だちではないかといった気になりながら、落語話は尽きないのだった。

先日も独演会にご一緒した。会場の国立演芸場は、物販が充実している。古今の落語家の本がうず高く積まれる中、一冊の文庫本が目に留まった。『バ・イ・ク』柳家小三治、とある。最近バイクを買った僕は、もうその文字を見るだけで体が勝手に反応してしまうのだった(志らくさんの本でなくて申し訳ありません)。

40を過ぎてから初めて二輪に乗り出した小三治の、面白おかしいバイク談義。250では猛練習、そのまま650、750へと怒涛の勢いでステップアップ、噺家バイク仲間とは珍道中を繰り広げる。やはり落語家とは、研究熱心であり凝り性な人種に違いないのだ。さすがと思うのは、ただマシンがカッコいいとか機械が好きといった話に流れたりせずに、バイクを通じて人間や世の中を語る、その視点。一例を挙げれば、オートバイは無理にねじ伏せようとはせずに、行きたいように行かせてやれば上手く走る、子供の教育も同じようなものだ、など。精神論の味わいもあるので、落語版『湾岸ミッドナイト』としても読める。

リターンライダーには絶好の一冊。

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