生と死のさまざまなからみあい ―― ムカサリ絵馬、ウーマンリブ、ロレンス

生と死のさまざまなからみあい ―― ムカサリ絵馬、ウーマンリブ、ロレンス

更新:2021.12.2

医療現場の研究をするなかで、さまざまな仕方で生と死とが行き来し混じり合うことを知った。生と死の関係はきわめて複雑で一筋縄ではいかないし、さまざまな形がありうる。

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ムカサリ絵馬 ―― 死者の結婚

そして生きていることと死ぬこととのあいまいな境界線は、何も看取りの場面や脳死といった場面だけで露出するだけではなさそうだ。

たとえば東北地方などに残っていたムカサリ絵馬では不遇の死を遂げた未婚の若者を弔うため、結婚の場面を描いた絵や人形を寺に奉納する習慣である。このテーマを櫻井義秀の『死者の結婚 祖先崇拝とシャーマニズム』は豊富な図例とともにこの習俗について広範な議論を提示している。

交通事故で亡くなった四男のムカサリ人形について母親はこう語る。

「〔Hは〕信用組合に務め、明るく誰にでも好かれる子どもであった。恋人は居なかったようだが、花嫁に名前がなくては困るので、信子と名づけた。信用組合の信をとった。……息子が死んでから八年間「人にしないうちに(家庭を持たせないうちに)死なせてしまったなぁ。」と心に懸かっていた。三番目の息子が結婚し孫ができたんで、順序だと思い(結婚式を)やることにした」(櫻井2010, 22-23)
著者
櫻井 義秀
出版日
2010-04-13

冥婚という習慣は東アジアに広く見られるようで、私も友人の文化人類学者から、雲南省の少数民族の葬儀が死者をかたどった人形の結婚という仕方で執り行われると聞いたことがある。

それにしても死者の結婚というのは、どういう意味があるのであろうか?

故人が経験することができなかった結婚に託されている意味は重層的であろう。果たされなかった未来への痛恨というだけでなく、死が誕生へと回帰し世代が連続していくという死生観もあるであろう。

ともあれ、ここでは死者は何か生きている人として扱われ、性愛と家族性と世代性と結び付けられることではじめて本当の「死者」となるのだ。

ウーマンリブと死者

生命倫理学という学問は生と死とのはざまについて広範な議論をしてきた。しかし脳死臓器移植や生殖補助医療、人工妊娠中絶といった事象だけが問題であるわけではない。

安藤泰至編の『「いのちの思想」を掘り起こす 生命倫理の再生に向けて』では、上原專祿、田中美津、中川米造、岡村昭彦という四人の人物を取り上げて、別の生命倫理学の可能性を開いている。

上原の医療批判や日本に医療倫理を導入した中川の『医学概論』はたしかに現在の生命倫理学のパイオニアとして位置づけられるであろう。

しかしウーマンリブの代表的な論客であった田中とベトナム戦争の従軍記で知られる岡村が取り上げられていることは、少なくとも私にとってはとても意外であった(本書を読んで自分の無知を恥じることになったのだが)。
著者
出版日
2011-10-14

田中は性的虐待のサバイバーであり梅毒に罹患した経験を持つ。さまざまな偶然の他者との出会いのなかで自分自身と向き合うときの「とり乱す、そのみっともないさまこそ、〈ここにいる女〉のまぎれもないその生の証しに他ならない」と語る(安藤2011 , 95より田中の文章を孫引き)。

田中は、連合赤軍事件で身重の同士を殺した永田洋子について「永田洋子はあたし」と語り、「ベトナム戦災孤児はあたし」と語る。偶然のなかでの運命の選びゆえに、田中はさまざまな運命を持つそれぞれ単独の他者とつながっていく。

そしてこの運命には死の影が不可避的にさしているのだ。田中の単独の生、そして彼女と偶然交差した単独者たちとの連帯は、死に裏打ちされた仕方で成り立っている。

D.H.ロレンス

最後に生と死の複雑な関係を描いた人物としてイギリスの小説家D.H.ロレンス(1885-1930)の小説を取り上げたい。ロレンスは初期から最晩年の『チャタレイ夫人の恋人』にいたるまで、匿名的で集合的な「生」の圧倒的な力に突き動かされる人間を描いてきた。

目に見えない生命の力に貫かれることで、登場人物たちはときには狂気に触れ(「盲目の男」、「最後の笑い」)あるいは苦境から回復する(「馬商の娘」「太陽」「死んだ男」)。

ときには生命に貫かれたがゆえに笑い死にする(「最後の笑い」)。あるいは死んだ妻の遺体がほほえむこともある(「微笑」)。どちらも生命と死との不可思議なからみあいを示すであろう。

初期の短編「菊の香」(1909-11)では炭鉱事故で死んだ夫の遺体が家に運び込まれてくる。石炭で汚れた体を拭いていると、実はこの男とはそもそも何の関係もなかったのだ、死ぬまえから彼と私とのあいだには関係がなかった、ということに妻は気づく。彼のことを心身ともによく知っているつもりだったが、実はお互い何も知らなかったのだということに女は気がつくのである。
著者
["D.H.ロレンス", "David Herbert Richards Lawrence", "上田 和夫"]
出版日

燻り続けていた男の生命は燃え尽きて、男は遠く離れてしまい彼女には全く無縁のものになってしまった。そして今となって、この男が他人でしかなかったことに気付かされた。彼女は子宮の中に氷のような恐怖を感じた〔…〕。二人のあいだに何も存在しなかったのに、二人はくりかえし裸で抱き合いながら、いっしょに暮らしてきたのだ。彼に抱かれるときはいつも、二人は今と同じように遠く離れた、ばらばらの孤立した存在だったのである。(新潮文庫版121頁)

生の只中においても人は孤独であり、実は生と死との区別はさだかではない。それを知った女は「子宮の中に氷のような恐怖」を感じる。子宮は生命の源であるがそこで氷のように死を感じるのだ。

ロレンスにおいても生と死のからみあいは対人関係の問題である。それゆえしばしば触れることというテーマが登場する(「盲目の男」、『チャタレイ夫人の恋人』、「死んだ男」)。そして「菊の香」での女は、石炭で汚れた夫の遺体を拭く。

彼のからだに手を触れることが何かしら恥ずかしかった。彼女にしろ誰にしろ、一体彼に手を触れる権利があるのだろうか?が、彼女はつつましく彼のからだに触れた」(同124頁)。

関係が無かったことが明らかになった今となっては、夫に「触れる」ということは許されないだけでなくそもそも不可能なのである。
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