【第4回】お願いサーモン

トラウマだった昔の恋人との再会

トラウマだった昔の恋人との再会
昔の恋人のことが、多分ずっと好きだ。今日、好きな作家さんの個展に行った。10日間やっていた展示のことをつゆ知らず、Twitterで偶然最終日の宣伝をしていたのを見て、飛び込みで向かった。そして、日にちも時間もランダムに飛び込んだその展示会場で、ずっと好きで仕方なかった昔の恋人に会った。

彼は佐々木君と言って、私が18の時に散々なお付き合いをした相手だ。端的に言えば、LINEのスクリーンショットをTwitterに貼られたり、陰口を叩かれたり、浮気をされたり、というかそもそも本命が別にいて私の方が浮気相手だったり、なんかそういう感じだ。

でもそれらが別れた原因ではなく、昔の私は、嫌われることが怖くて相手の趣味をまるで自分のものかのように振る舞うジャイアン的な女だったし、好かれるものを変に演じてしまうことがよくあって、そういうところが気持ち悪いと振られたのだった。 別れたくなくて、好かれたくて、浮気されてもネットに晒されても罵られても全部「でも大丈夫」と言い聞かせていたら、いつの間にか自尊心が全てなくなった。好きなのかトラウマなのか分からないような気持ちでずっと、ずっと引きずっていた。

名前を見ただけで心臓が痛くなったりしていた。そんな相手だったから、かなり頑張って嫌いになったのだ。嫌いにならないと、こちらの身が持たなかったから。誰かから名前を聞けば嫌な顔をして「あの人が嫌いだ」と言葉にする。明言すれば、ちゃんと嫌いになれる気がしていた。

それから2年、彼の情報に触れずにいたら、いつのまにか思い出さなくなっていた。惹かれていた心が動かない。嬉しかった。口に出すこともほとんどなくなって、4年が経った。そして今日会ったのだ。まるで運命みたいに。

私たちの過去を少し知っている作家さんが、「なんつータイミングだ」とつぶやく。私もそう思う。いつかまた会うことがあれば、軽やかに、何事もなかったように挨拶をしようと思っていた。それが一番悔しくないと思ったからだ。けれど実際はどうだ、体の芯が変に熱くて、手先が痺れるような感覚がある。それを隠すだけで精一杯、挨拶どころか目を合わせることすらできないじゃないか。

視界の端で彼の位置をずっと確認しながら個展の作品を見た。新作ばかりの展示はとても美しくて、でも全然頭が追いつかない。恥ずかしくて情けなくて自分を殴り飛ばしたくなる。

しばらくして、彼が話しかけてきた。久しぶりに会う佐々木君は少し太っていて、顔が大きくなっているように見えた。昔はやたらと丈の長い服を着ていたが、今日は黒いジーパンに普通の丈のジャケットを着ている。おじさんになったな。必死に粗探しをする。
佐々木君は、和やかに、ただの旧友のように「お久しぶりですね」と言った。私はぶるっと震えた。同じだ。知っている人だ。好きだった人だ。好きでたまらなかった人の片鱗が話し方から見え隠れする。目が見られない。

今日、買ったばかりの可愛い服を着てきてよかった。駅のトイレで化粧を直しておいてよかった。そんなことをぐるぐる考えながら、緊張がみえみえの挨拶をした。そうすると彼はすぐに、「すいませんでした」と言った。「あの時は、若くて色々おかしい時期でした」。

そんなことを言われるとは思っていなかったので、驚いて言葉に詰まってしまう。少し怒りが湧く。謝るな、謝らないでくれ。うやむやのまま、謝ってなくしてしまえるものにしないで。どうにか君を悪者だと思い込んで、やっと、やっと嫌いになったんだ。君の小さな自己満足のために、謝ったりしないで。

恋愛がリセットできればいいのに


「いえいえ、別に」
「いや、最近、昔の知り合いに会ったらとりあえず謝るようにしているんです」
「そんなに」
「えっ?」
「そんなにたくさん謝らなきゃいけない相手がいるんですね」
「ははは」

他にもたくさんいた、というニュアンスにダメージを受けて、また黙ってしまう。「俺のこと恨んでますか? 」今度は少しふざけて、笑いながら彼が言った。はい。恨んでいました、多分過剰なくらい。

私のことを好きと言いながら、嫌いだとも言いつづけた君のせいで、好きを信じられなくなったんだと、恨みました。きっと、君のせいじゃないところまで全部君のせいにしていました。

「そんな、恨むようなことないですよ」今度は彼の目を見て言ってみる。精一杯の見栄。そこからは他愛もない話をぽつぽつとした。向こうが大学院に進学すること、確定申告のこと、昔の知り合いの話。あんなに嫌いだと騒ぎ立てた人と、静かに話している状況がうまく受け入れられなくて、すぐに話を止める。

「もう、話、大丈夫ですよ」できるだけ穏やかに伝えると、「大丈夫ですか、刺したりしないですか」と、また彼がふざける。

「刺されることしたと思うんですか」
「いや、正直あまり思い出せないところが多くて」
「そうですか」
忘れているという言葉にまた少し胸が痛んだ。彼と私はどうしても噛み合ないところがある。私ばかりが彼を好きだったから。私はまだ、忘れられていないよ。じゃあ、と言って、彼にされた一番衝撃的な出来事を話した。

彼は驚いた顔をして「そんなこと……ありましたね、悪いことをしました」と、真面目なトーンで謝った。私は少しの沈黙の後に、「いや、すごく面白かったです」と返した。そう、すごく面白かった。そんな残酷で、面白いあなたが好きだったんです。

彼はその返答に吹き出して笑った。つられて笑ってしまう。二人を取り巻く空気が柔らかくほどけていくのを感じた。これからも頑張ってくださいねと言って彼は帰っていった。またどこかで、とは言わないまま。

帰り道はグラグラした。彼のことを本当に嫌いになったつもりだった。あいつは悪魔だと思い込んでいた。なのに会ったら彼は普通で、昔みたいに少し変で、面白くて、私の話に笑ってくれることが本当に本当に嬉しいと思ってしまった。
恋愛がちゃんとリセットされたらいいのに。別れた人のことを、完全になんとも思わなくなれたらいいのに。でも、一度好きになった人のことを嫌いになるなんて無理だ。きっとずっと、どこか好きで、時間や距離で忘れるだけで、好きなまま。タトゥーみたいなものだと思った。一度彫り込んでしまったら、いくら洗ったって落ちない。少しずつ、本当にゆっくり、薄れていくだけ。

昔好きだった人たちを思い出す。ろくな思い出はないのだけれど、きっと嫌いにはなれていない。忘れているだけだ。彼らは今もちゃんと、心の一番柔らかくて、跡がつきやすいところにしまわれている。そしていつでもまた愛せてしまう。

帰り道、ずっといるはずのない彼を探してしまった。今日聞けなかった、たったひとつのこと。君も、少しは私のこと好きだった? そればかり繰り返す脳みそをなだめながら、やっと地元の駅に着き、スーパーに入る。今日は高いお寿司を買って帰ることにしよう。サーモンのピンクが嘘くさい。ああ、サーモンの美味しさで、今日心が揺れたことも、笑ったことも、何もかも忘れたい。お願いだ、サーモン。また彼を、忘れさせてくれ。

恋愛の光と闇を刻印する本

著者
桜井 亜美
出版日
もし昔の恋人が私のことをエッセイに書いて、副読本としてこの本をあげていたら、心底ぞっとするだろうな……。世界に馴染めない女が、同じように世界に馴染めない男に、訳も分からないまま惹かれていく。

愛のためにすべてを捨てる、少女漫画のような純愛ストーリーでありながら、グロテスクかつエロティック。スリリングな展開やまさかのどんでん返しに、読む手を全く止められない。どんなに抗って冷静に読もうとしても、読み終わる頃には中二病をしっかり再発させてくれる。
著者
近藤 聡乃
出版日
2015-06-15
恋人が二人いる? A子さんのお話。二股で連想するような奔放さが全くないA子さん。恋人として登場する二人のA太郎とA君が、とても他人の話とは思えない。私たちの人生の中にも、A太郎やA君が絶対にいる。

ああ、いた、こういう人! あああああああああああああ! と悶えてしまう。恋とは、人と付き合うとは? 少女漫画とは真逆の恋愛物語。

この記事が含まれる特集

  • チョーヒカル

    ボディペイントアーティスト「チョーヒカル」によるコラム。および本の紹介。体や物にリアルなペイントをする作品で注目され、日本国内だけでなく海外でも話題になったチョーヒカルの綴る文章をお楽しみください。

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