どんなことにも怯えない特権が与えられる瞬間【小塚舞子】  

どんなことにも怯えない特権が与えられる瞬間【小塚舞子】  

更新:2021.11.29

ある人が言った。「もう、この年になったら怖いものなんかあらへんわ」。羨ましいと思った。私は今年で32歳。小さな虫から、オバケの類、夜道、人ゴミ、悪意、毎日の仕事、病気やケガetc。怖いものだらけである。何より、そもそも年を取るのが怖い。

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恐怖とは非日常との対峙

思えば、子供の頃のほうが怖いものは少なかった。小学校の帰り道にダンゴ虫を大量にポケットの中に溜め込んだり、ビニール袋にコオロギを集めたりしていた(ごめんなさい)。

トカゲを捕まえようとしたら尻尾だけが手元に残り、本体の部分は逃げてしまったことは残念に思っていたし(これはもっとごめんなさい)、イナゴに至っては地元の秋祭りで佃煮にされていたものを平気で食べていた。

ところが今では、蟻やてんとう虫などの可愛いと評されている虫ですら恐れるようになってしまった。あんなに探し回っていたダンゴ虫も、大量に足がある様子やピカピカとした背中が怖い。

コオロギの予測できない俊敏な動きも恐ろしいし、トカゲは生き物としてのフォルムが完璧すぎて怖い。だから何なんだ、結局のところ何が怖いのだと聞かれても、よくわからない。気持ち悪いから怖いという答えは自分でもイマイチ納得できない。

だって今、イナゴを食べるなんて絶対に嫌だけど、例えばシャコやエビなんかも見た目で言うとなかなかグロテスクなはずなのに、どちらも食卓に並んでいたら嬉々として食べるから。

生き物で言うと、私は鳥類がとんでもなく苦手で、ヒヨコやスズメ、鳩はもちろんのこと、にわとりもフクロウも怖い。

ペンギンもぎりぎり怖い。これはわりと小さい頃からだが、年々その恐怖度は増していて、歩道に鳥がいれば回り道するか、そこを歩いている人の真後ろ、もしくは鳥と反対側の真横をべったりくっついて歩かなくては前に進めない。緊張感のある撮影中でも鳥の気配を察知した瞬間に鳥の動きに全神経を集中させてしまう。

こちらの方が怖い理由は明確かもしれない。まず、羽根。あんなに薄くて繊細な一枚一枚の羽根が密集してつるんとした形を生みだしている。

その、つるんの中身を想像するとそれこそ鳥肌ものだ。翼は信じられないほどのスピードでバタつかせることができ、そのバタバタの先に『飛行』がある。

人間はいくら頑張っても生身の身体で飛ぶことはできないのに、彼らはいとも簡単に宙を舞う。将来、鳥の世界で文明が発達したら、人間は負けてしまいそうだ。

そういえば、これは誰に話しても共感を得られなかったのだが、鳩が飛び立つ瞬間は「バタバタ」ではなく、「プンプン」という音が鳴っているように聞こえる。なぜ、あんな音が鳴るのか。何がこすり合わさっているのか。

……怖い。見た目で言えば、木の枝のようだったり、プラスチックのようだったりする足が、わりとしなやかに動くのも怖い。目は鋭すぎるし、嘴はとんがりすぎている。怖い。

そして、悲しいのか喜んでいるのか、怒っているのか、全く読めない感情も怖い。他にも細かいところを言い出したらキリがないくらいに、鳥は徹底的に怖いのだ。まぁ、焼き鳥もから揚げも好物だけど。

さて、ではいつからこんなことになってしまったのだろうか。鳥は怖い理由も明確だし、元々怖かったので一旦忘れるとして、ゴキブリ以外の大体の虫は、多少の勇気を持てば何でも触れた。

「蜂に刺されて以来、蜂が怖い」というならば大いにうなずけるが、そんな経験もない。しかし、虫が大好きというわけではなかったものの、あんなに躊躇なく触って遊んでいたのに、自分の成長と共に、いつのまにやらほとんど全ての虫が恐怖の対象になっている。

しかし、都会で暮らしていれば、それほど虫と遭遇する機会もないので、困ることは少ない。実際私も、夏場の大量の蝉以外は虫を気にせずに、概ね平和に生活している。

飲み屋街に突如現れるゴキブリには驚かされるが、大抵の場合あちらの方が慌てて移動している最中なので、何とか見て見ぬフリをしてやり過ごすことができる。

しかし、部屋の中に出てくればそうもいかない。同じ空間に虫がいるということに怯えながら生活するなんて、何をするにも落ち着かない。

ここで冷静に考えてみると、恐怖とは非日常との対峙のような気がしてくる。もし、そうであれば話は早い。極端に言えば「慣れればいい」だけなのかもしれない。

子供の頃は日常的に虫にふれあっていたから平気で触れたところもあるだろうし、都会のマンションに虫が現れるのが非日常であるのに対して、田舎の一軒家にいる虫はむしろ当たり前の光景であるので、恐怖度は小さかったりする。

虫嫌いを克服したいならば、日頃から虫がいそうな場所へ出向いて少しずつ距離を縮め、触れるまではいかずとも、虫という存在を心の片隅に住まわせればいいのではなかろうか。日常的に虫と向き合うことがなくなっていくことで、虫に対する抵抗力が弱まり、恐怖心をより掻き立てられるのだろう。

しかし、虫以外の怖いものとなるとそうはいかない。オバケに慣れるために心霊スポットにでも通おうものなら、いつか本気で取り憑かれてしまいそうだ。

夜道に慣れる前に怖い目に遭うかもしれないし、人ゴミに慣れるような体力も気力もない。悪意に慣れるためにわざわざ嫌われていたら、慣れたころには友達もいなくなっていて、せっかく身につけた悪意の耐性を試す場がなくなってしまう。


…思い出してしまった。鳥はどうするのだ。

大人になるに連れて失っていく「楽しさ」への感度

やはり大体のことは慣れようがないから余計に怖い。では、「この年になると怖いものなんかあらへんわ」の「この年」は、果たして万人に訪れるものなのだろうか。今のところ、大人になることと怖いものが増えることは正比例しているように感じる。

そして虫に限らず、怖いものが少なかった子供の頃の方が何をするにしてもワクワクしていた。楽しむために楽しまなくても、楽しかった。

大人になるにつれて、「楽しいこと」を意識しなければ、そう感じることが難しくなっていっているような気がする。いろんな種類の楽しさを知ってしまったことへの対価かもしれないけれど。

年を取ること自体を怖がっていたのでは元も子もないが、それでもやはり、この右肩上がりに上昇を続ける“ありとあらゆる怖いもの”から解放される「この年」が訪れることを期待したい。

どんな感じがするのだろう。子供の頃のようにわけもなくワクワクしたあの感覚を取り戻せるのだろうか。それとももっと別の感情が待っているのだろうか。

怖いものがなくなること。それが「怖いものなくなったああああ!!! 」なんていう走り出したくなるような解放感と供に訪れるものだとしたら、その時がすごく楽しみだ(走れるような年齢だといいが)。

怖いものに慣れるための特訓はできないけれど、何でも堂々と怖がることにしようと思う。そしていつか、ゴキブリを素手でバシッとやっつけられるようなおばあちゃんになりたい。  

さて、早速ではあるが今、堂々と怖いことがある。この支離滅裂なコラムを一から読み返すのが怖い。どう考えても答えがないと分かりきっているテーマで文章を書き始めた自分が怖い。

時計を見たら、たったこれだけを書き上げるのに信じられないくらい時間が経っている。明日……というか日付が変わって今日は締め切りだ。事務所のマネージャーから「次回のコラム楽しみにしています」とのメールがあった。この駄文を多くの人に読んでもらうのだ。あぁ。怖い、怖い、怖い……。

恐怖と向き合い、果たして克服することはできるのか

著者
村上 龍
出版日
1995-04-06

主人公マチコは出会ったばかりの男と供にパリへ向かいます。誰もが憧れる街、誰もが羨む贅沢な旅。しかし羨んでいる暇などない程、あっという間に物語は淫らで悲惨で、非現実的な方向へと進んでいきます。

途中、読んではいけないものを読んでいるような背徳感に襲われつつも、ラストはなぜか、胸につかえたものがスッと流れるような感覚がありました。

本のタイトルと装丁の爽やかさから旅の本だと浮かれて買ってしまったことを差し引いても、今まで読んだ中ではある意味一番怖かった本です。

著者
中島 らも
出版日
2008-10-15

らもさんのエッセイ集。「ぼくはこわがりたい」という項目があるのですが、そこに記されている『ガダラの豚』の取材時のお話に大興奮しました。

クスッと笑えて、でもゾッとする話。一度は疑問に思ったことがある話。愛すべきわるものの話。本を読んでいるのに、久しぶりに会った親友と話しているような気分になりました。心地よいぐったり感と満足感。

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