世阿弥にまつわる6つの逸話!日本伝統芸能である能の大成者の美学を学ぶ

更新:2021.11.9

能の大成者世阿弥とはどのような人物だったのでしょう。彼の著作を通して生涯や思想が理解できる本を、5冊紹介します。

ブックカルテ リンク

世阿弥の生涯

世阿弥は大和国周辺で活動していた猿楽役者の、観阿弥の子として生まれました。生年は1363年と1364年の説があります。

彼が生まれたころは、父の観阿弥が太夫をしていた観世座は、数ある猿楽座の一座に過ぎませんでした。しかし1375年ごろ、京都の今熊野の興行で将軍の足利義満が見物し、観世座は名声を得ることになります。父観阿弥の芸は称賛を得ますが、それ以上に観客を魅了したのが、当時12歳だった世阿弥でした。

彼は義満に愛され、祇園会の桟敷に同席を許されたほどです。そのころの彼には、将軍のご機嫌とりのため、諸家から莫大な金品が贈られたといわれています。天分、稽古、父からの良い指導、そして潤沢な財政にも恵まれ、世阿弥は成長することができました。

彼が22歳のころ、観阿弥が駿河で客死します。これ以降、観世座の棟梁になり、1399年には義満が住んでいた北山殿にほど近い一条竹ヶ鼻で、3日間の勧進猿楽を催しました。これはこの時代を代表する芸能者であったことを物語っています。しかしすでに少年時代ほどの人気はありませんでした。

同じ時代、近江猿楽比叡座の犬王が、人気を博していました。犬王が得意としたのが「天女舞」です。世阿弥は「さらりささと、飛鳥の風にしたがうがごとく」(『申楽談儀』より引用)と、この舞のことを評しています。

影響を受けた世阿弥は「二曲三体人形図」という風体論で、観世座が演じる大和申楽の8つの演技を紹介していますが、最後の「天女舞」だけは犬王の芸を分析吸収し、自らの座の芸として伝えようとしました。

1408年、彼の最大の支援者であった義満が亡くなります。次の将軍の義持は田楽の増阿弥をひいきにし、世阿弥には関心を持ちませんでした。さらにその次の義教は、彼の甥の音阿弥に肩入れします。

世阿弥は60歳ごろ出家しました。この時、醍醐寺清滝宮祭礼の楽頭に就任します。これは祭礼の芸能の責任者という職務です。彼の跡を継いだ息子の元雅も、役者としても作者としても成長し、観世座も安泰にみえました。

ところが、1430年に次男の元能が出家、そして跡取りであった長男の元雅も1432年旅先で客死してしまいます。さらに悲劇は続き、将軍義教は世阿弥の跡を継げなかった音阿弥をひいきにしていたので、さまざまな嫌がらせをしてきました。

上皇から所望された公演を中止させたり、醍醐寺の楽頭職も世阿弥から音阿弥にしてしまいます。さらに1434年には、70歳を越えた彼を佐渡へ配流してしまいました。

佐渡から帰京できたかは不明ですが、奈良県の補巌寺(ふがんじ)の納帳に、世阿弥の法名「至翁」と同じ「至翁禅門」の名があり、忌日が8月8日と記されていることから、彼の命日は明らかになっています。

80余年の生涯に書き残した芸術論は、最初の『風姿花伝』からはじまり20を超えます。

能の大成者世阿弥にまつわる6つの事実

1:美少年だった

関白だった二条良基は世阿弥をかわいがり、自分の藤原姓の一字をとって「藤若」と名付けました。良基が「あまりに美しいので、呆然としてしまいました。」など、容姿や才能を褒めちぎる手紙を残しています。

2:「ぜあみ」という読み方は、足利義満が決めた

「せあ」ではなく「ぜあ」と濁って呼ぶことは、義満が「そう呼んだほうがいい」と言ったからです。義満の権威を背景にして、「ぜあみ」という呼び方が普及しました。

3:台本には濁点も表記した

彼は本文を片仮名で書き、口に出して発音するとおりに記述しています。そのため、特異な仮名遣いをしたり、当時の人がほとんど記していない濁点も用いました。

4:観客のニーズに合わせた

彼は天下に名望を得ることを望んでいたので、身分の高い観客をより大切にしていました。貴人たちが優美な能を好んでいたので、世阿弥も「幽玄」な能に傾倒していきます。自分の理想と世間の批評との間で忸怩たる思いもあったようで、「力なく(しかたなく)」と述べています。

5:スパイだった?

彼がなぜ70過ぎの高齢で佐渡へ配流されたのかという理由のひとつに、後南朝のスパイだったのではないかという説があります。義満時代に南北朝は統一されましたが、南朝の復興を企てる後南朝の者たちが、吉野を中心に活動していました。

観世座は後南朝の活動が活発な大和が本拠地であったこと、佐渡は政治犯が多く流された地であることから、彼がスパイだったのではないかといわれていますが、憶測にすぎません。

6:噂話を能にいかした

彼が50歳を過ぎたころ、『平家物語』に登場する武将、斎藤実盛の霊が、戦死した加賀で人前に現れたという話が京都中に広まりました。世阿弥はその話をほぼそのまま用いて、修羅能「実盛」を作りました。

「実盛」では、老人に見られないように黒髪に染めた実盛が、首実検の時に水に流され白髪があらわになるという『平家物語』で有名な場面を引用し、当時の人々が慣れ親しんだ実盛像を描き出しました。

世阿弥による能の教科書

本書には、世阿弥が著した「風姿花伝」と「三道」という一子相伝の能楽論書が記されています。

著者
世阿弥
出版日
2009-09-25

「風姿花伝」は、父である観阿弥の遺訓に基づいて著述した、最古の能楽論書です。能の演じ方や作り方についての著述なのですが、人生訓としても素晴らしい文言がたくさんあります。折々にページを開いてみて、心に響く言葉を見つけてみてはいかがでしょうか。

「三道」は次男の元能に書き残した秘伝で、こちらは純粋に能の作り方のマニュアルの体をなしています。主人公の選び方から物語の構成までわかりやすく書かれているので、小説を書く方にも参考になるのではないでしょうか。世阿弥が系統だてた考え方で能を作っているということがよくわかる作品です。

世阿弥の言葉に触れてみよう

本書は、彼の初めての能楽論集「風姿花伝」の、現代語訳です。

著者
世阿弥
出版日

猿楽役者でも文盲の人が多かった時代、彼は連歌の才も認められていました。将軍や貴族に愛された少年時代を過ごした世阿弥は、そのなかで深い文化的素養を身につけていったのでしょう。80年の生涯で多くの書を著しました。

彼の最初の能楽論集が「風姿花伝」です。能の演じ方から作り方までこと細かく項目ごとに書かれているので、読みたいところから拾い読みしてもいいでしょう。

文章は簡潔でわかりやすいので、古典ということで敬遠することはなく、ましてやきれいな現代語訳の本書はおすすめです。

能と世阿弥の世界が全開

本書は、世阿弥についてあらゆる方面からまとめた、盛りだくさんな一冊です。

著者
増田 正造
出版日
2015-05-15

「初心を忘るべからず」「秘スレバ花ナリ」……どこかで聞いたこの言葉、じつは彼の著述に記された言葉なのです。このような世阿弥語録から、彼の生涯、能の舞台、衣装、謡など幅広く網羅したのが『世阿弥の世界』になります。

新書ですが資料も豊富で、能のことをこれから勉強したい方にもおすすめです。能についての著作が多い作者がまとめたこの一冊は、世阿弥や能を知るうえで素晴らしい道しるべになってくれることでしょう。

名エッセイで日本の文化を知る

深い教養に根差した確かな美意識で多くの著作を残している、白洲正子による世阿弥についての随筆です。

著者
白洲 正子
出版日
1996-11-08

正子は幼いころから能を学び、女性として初めて能舞台に立ちました。古典の知識のみならず、実際に能を舞うことで体得して身につけた感覚で、世阿弥について語ります。

世阿弥の能楽論集「十六部集」からの引用を丁寧に解釈し、彼の生涯をたどり、その思想を独自の解釈で表現しています。

世阿弥の世界観を正子にひも解いてもらい、能の世界に連れていってもらいましょう。

体験型思想方法で世阿弥を知る

「身心変容技法」とは「身体と心の状態を、当事者にとってよりよいと考える理想的な状態に切り替え変容させる」技法のことをいいます。

著者
鎌田東二
出版日
2016-03-25

著者の鎌田東二は、その技法を提唱している研究者です。人間をよりよく変容し、世界までも変えていこうという考えの持ち主。文献、フィールドワーク、臨床、実験の4手法で総合的な研究をおこなっていますが、本作は、日本の芸能である能の大成者、世阿弥の思想をとおして、日本的な思想の在り方と広がりを追求していこうとしています。

その研究心は世阿弥のみにとどまらず、どんどん広がりをみせます。時には深く思索し、今をどう生きていくのか、考えてみてはいかがでしょうか。

室町時代に花開いた能ですが、時の権力者に浮沈を左右されました。世阿弥も例外ではなく、義満に寵愛され、義持、義教には疎まれ、逆境に追い込まれます。佐渡に流されながらも、その地で謡を書き続けた彼の生涯は、最後まで能にかかわることでした。

  • twitter
  • facebook
  • line
  • hatena
もっと見る もっと見る