5分でわかる戊辰戦争!戦いの流れを簡単に解説!

更新:2021.11.10

250年以上続いた徳川幕府が終わり、最後の将軍慶喜は大政奉還をします。その直後に起きた戊辰戦争とはいったいどのようなものだったのでしょうか。

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戊辰戦争とは

1868年戊辰の年に鳥羽・伏見の戦いで始まり、翌年五稜郭の戦いで終わる、新政府軍と旧幕府軍との内戦のことをいいます。戊辰とは十干・十二支を組み合わせて表した干支で、戊辰の年に起こった戦いという意味です。

戊辰戦争は将軍慶喜が朝廷に政権を返上し、幕府の廃止をしたにも関わらず強大な権力を保持していた旧幕府勢力に反発を抱いた新政府が、武力で旧幕府勢力を倒すために起こした戦争です。

戊辰戦争では旧幕府軍と新政府軍に分かれて戦います。旧幕府軍は旧幕府勢力と奥羽越列藩同盟(東北北陸地方の31藩)で、新政府軍は薩摩、長州、土佐藩などが中心になっています。

戊辰戦争開戦前

【大政奉還】

1867年10月13、14日に薩摩藩と長州藩は将軍慶喜討伐の詔書を手に入れます。これは朝廷が正式に幕府を倒すことを認めたということです。

ところが慶喜はこれに対抗して自分から政権を朝廷にお返しするという大政奉還を行います。これにより討幕の意味はなくなってしまいました。しかし朝廷に政権を返還したというものの、実際は慶喜の政権掌握が続きます。

【王政復古の大号令】

一方武力討幕を目指していた勢力は、この状況を打破するためにクーデターを起こします。

12月9日に薩摩、安芸、尾張、越前、土佐の兵が御所に押し寄せ門を固めました。そして明治天皇は討幕派の公家や薩摩などの諸侯を引見し、新政府成立の宣言「王政復古の大号令」を発します。

これにより幕府は廃止され、総裁、議定、参与の三職が新たに政権を担う官職として設置されます。この日の夕刻、初の三職会議が行われ、徳川慶喜に辞官納地(将軍をやめ、領地を取り上げること)を求めることが決まりました。

【開戦までの流れ】

将軍慶喜は辞官納地と引き換えに議会の主要メンバーである議定に任命されようと、大坂で上洛準備をしていました。

一方あくまで武力討幕を狙っていた西郷隆盛は浪士500人を集め、江戸市中で強盗、放火など挑発行為をさせていました。1867年12月、市中取締担当であった庄内藩の屯所にまで発砲し、ついに旧幕府側は12月25日に薩摩藩邸を襲撃します。これこそが西郷の狙いで、旧幕府から戦端を開いたという既成事実を得ることができたのです。

12月28日にこの知らせが慶喜のいた大坂へ届くと討薩の声が高まりました。こうして慶喜は主戦論を抑えることができなり、戊辰戦争が始まっていきます。

鳥羽・伏見の戦

1868年1月2日に旧幕府軍約一万が京都へ向けて進軍し、伏見奉行所と淀の二手に分かれました。迎え撃つ新政府軍の薩摩、長州勢も同様に伏見方面と鳥羽方面に分かれて待機しました。新政府軍の兵力は5000人ほどで、これは旧幕府軍の半数以下でした。

【開戦】

1月3日、淀の旧幕府軍が鳥羽街道を北上し、鳥羽小枝橋付近に陣を敷く新政府軍と接触します。上洛のために道を開けよという旧幕府軍に対し、新政府軍は拒否。強行突破で進軍を始めた旧幕府軍に、新政府軍の銃が一斉に火をふきます。不意を突かれた旧幕府軍は大混乱。大きな損害を被り、下鳥羽まで後退を余儀なくされました。

鳥羽街道の砲声が伏見奉行所に届くと、奉行所を包囲していた薩摩軍が一斉に砲撃開始。奉行所から打って出た旧幕府軍と戦闘がくり広げられました。旧幕府軍は京都市中の治安を守り続けてきた会津藩や新選組で士気はありましたが、訓練された洋式軍隊である薩摩軍相手ではかなわず、追い込まれていきます。夜になり、ついに奉行所内に踏み込まれ、後退せざるを得なくなります。

【錦旗が掲げられる】

1月4日に新政府軍は、軍事総裁である仁和寺宮嘉彰親王に錦旗と節刀を授け征夷大将軍に任命しました。

錦旗とは、天皇が朝敵討伐の大将に与えるもので、軍事的指揮権を委任するという証になるです。節刀も同様に、天皇から出征する大将に与えられる刀のことです。

この時点で新政府軍は朝廷の軍隊である官軍となり、一方の旧幕府軍は朝敵となり賊軍扱いを受けることになります。

5日に錦旗を掲げた新政府軍は、淀付近まで進軍。これを見た旧幕府軍は意気阻喪となり、ついに大坂城まで撤退します。鳥羽・伏見の戦いは新政府軍の大勝になりました。

1月6日、大坂城に戻った軍勢に対し慶喜はあくまでも戦うことを宣言します。ところが慶喜は、その晩わずかな重臣を引き連れ大坂城を脱出。7日に慶喜不在を知った城中の兵は大混乱し、次々に大坂城を脱出しました。

1月7日に新政府は徳川慶喜に対する追討令を発し、10日には慶喜、松平容保(会津藩)、松平定敬(桑名藩)など、旧幕府の要職にあった大名らの官位をはく奪します。1月23日に慶喜は勝海舟を陸軍総裁に、大久保一翁を会計総裁に任命。要職には旗本をつけました。

【彰義隊結成】

2月12日に慶喜は江戸城を出て上野の東叡山寛永寺大慈院に移り謹慎生活に入り、新政府軍に謝罪書を提出しました。かつて当主をしていた一橋家の家臣は慶喜の朝敵の汚名をそそごうという気運が高まり、2月23日には浅草本願寺を屯所として「彰義隊」が発足します。最盛期には3000人に達したといわれています。

【江戸無血開城】

一方新政府軍は2月15日に江戸へ向けて徳川征討にのり出します。旧幕府側の勝海舟は薩摩藩の西郷隆盛と旧知で3月13日、14日と江戸の薩摩藩邸で会談。15日には2人の話し合いで江戸城総攻撃は回避されました。

会談後西郷は京都に戻り、朝議にかけたうえで江戸城総攻撃を正式に中止、慶喜は水戸で謹慎と決まります。 4月11日早朝に慶喜は水戸へ出発し、同日新政府軍に江戸城は引き渡され、江戸城無血開城がなされました。

東北戦争

新政府軍が次に標的にしたのは会津、庄内両藩です。幕末に会津藩主の松平容保は京都守護職を務め、倒幕勢力を武力鎮圧していました。また庄内藩は江戸市中の取り締まりをおこない、薩摩藩邸焼討ちの中心的役割を果たしました。薩長中心の新政府軍の恨みをかっていたのです。

1868年1月17日に新政府は仙台、秋田、盛岡、米沢各藩に会津追討令を出しました。そのころ東北諸藩は新政府の方針に理不尽なものを感じていました。4月4日に仙台藩と米沢藩の家老たちにより会議招集の提案がなされ、4月11日には仙台藩の白石城で14藩が集まり列藩会議が開催されます。会津、庄内藩赦免のための嘆願書を作りますが、後日奥羽鎮撫総督に提出したのち却下されました。

【奥羽越列藩同盟】

そこで東北諸藩は奥羽鎮撫総督ではなく、直接朝廷に建白をおこなう方針に転換しました。諸藩の結束を高めるために、11藩を新たに加えた25藩により、白石盟約書が調印されます。

そして5月3日に同盟諸藩の相互協力関係が規定され、奥羽列藩同盟盟約書が作成されました。同時に会津、庄内両藩に対する赦免を要望した太政官建白書も作成されます。その内容は、「会津や庄内を討つのは薩長の私怨であり、天皇の御意志ではない」というものです。翌5月4日には新政府軍との会談が決裂した越後長岡藩から、その他に5藩が加わり、31藩が加盟する奥羽越列藩同盟へと発展しました。

【白河城攻防戦】

東北戦争の最初の戦いとなったのが、現在の福島県白河市にあった白河城の攻防戦です。白河城は東北方面の入口でもあり、会津攻略の要地でもあったので、新政府軍が守備していました。一度は東北勢が奪還しましたが、近代的な武器の前に圧倒され、5月1日に新政府軍に取り戻されます。新選組もこの戦いに東北側で参戦していますが、戦果は得られず後退を余儀なくされます。

【二本松城の戦い】

7月29日、板垣退助に率いられた新政府軍による、二本松城総攻撃が開始されました。新政府軍との戦力差ははなはだしく、たちまち二本松城は落とされます。この戦いで東北側の死者は250人を超えましたが、新政府軍の死者はわずか約25人ほどでした。

【東北戦争の終焉】

さえぎられることなく進軍する新政府軍に、降伏する藩が次々と現れます。9月4日に米沢藩が、15日には仙台藩、その後福島、上山、天童などが降伏し、奥羽越列藩同盟は崩壊したも同然になりました。同盟崩壊とみた庄内藩は9月24日に新政府の軍門に降りました。ここに至り、戊辰戦争で最も多くの犠牲者を出した東北戦争は終わりを告げたのです。

会津戦争

新政府軍は当初弱小藩を降伏させたのち、最後に会津藩を攻撃する予定でした。しかし戦いが長引くと降雪期に入ってしまうことを恐れた新政府軍は、主力部隊を差し向けます。そして会津若松城下につながる母成峠での戦いに勝ちます。

【白虎隊の悲劇】

母成峠敗戦の報を受け、藩主の松平容保は急遽白虎隊を招集しました。白虎隊は16歳から17歳の少年たちで編成されています。容保自ら白虎隊を護衛にして滝沢峠で新政府軍を迎え討とうとしますが、時すでに遅し。容保は実弟の松平忠敬を米沢に逃がし、籠城戦(城にこもって戦うこと)を選択しました。

容保に同行していた35名ほどの白虎隊士は戸ノ口原で敗走しました。8月23日に白虎隊は飯盛山にたどり着きます。城下を焼く炎と煙を見て若松城落城と思い込み、16名の隊士たちは集団自決を図るのです。

この時、喉をついた飯沼貞吉のみが一命をとりとめました。その後貞吉は白虎隊の悲劇を語り継ぐ「語り部」として、77歳まで生きながらえます。

【会津戦争の終わり】

8月23日に新政府軍は若松城の外郭門を突破、城下になだれ込みます。会津藩士は急いで城へ向かい、戦えない婦女子などは足手まといになるのを恐れ、自害するものが多数いました。籠城すること1ヶ月、同盟関係の庄内藩も退却し、弾薬や食料も底をつきかけてきました。

9月22日に新政府軍との協議が成立、籠城は終わりを告げます。戊辰戦争で亡くなった会津藩士は約3000人。自害した婦女子は233人にのぼりました。さらに、容保助命の代償として、家老の萱野権兵衛が割腹させられました。

五稜郭の戦い(箱館戦争)

新政府軍との戦闘に敗れ続け、北上していた旧幕府軍の大鳥圭介や、土方歳三ら新選組隊員達は仙台に姿を現します。同時期榎本武揚が率いる艦隊も江戸から仙台港に入港していました。あくまでも新政府軍と戦うことで一致した大鳥、土方、榎本らは蝦夷ヶ島(現在の北海道)に渡り、戦うことを決意します。

【蝦夷地平定】

1868年10月21日に蝦夷地鷲ノ木に約3000人を乗せた7隻の艦隊が上陸します。新政府は箱館府を設置、五稜郭に府庁を置いていました。

22日の深夜に箱館府は榎本軍に攻撃。榎本たちはすぐに撃退し、箱館にむけて進軍を開始します。この戦闘の報告を受けた箱館府知事は25日に青森へ脱出、榎本軍は26日に五稜郭を占領しました。

11月5日には土方歳三が松前城下に侵攻。海上からの艦砲射撃(艦船からの砲撃)と連携して松前城を落とします。このように瞬く間に蝦夷地を平定してしまいました。しかしこの日の夕刻から海が荒れ、榎本軍は貴重な2隻の船を失ってしまいます。

【箱館政権】

榎本が12月10日に出した新政府への嘆願書には、徳川家臣団のために蝦夷地を与えるよう求め、開拓と北方の防衛を担いたい旨が書かれていました。しかしこれは新政府に却下されています。

12月15日、士官による投票で榎本が総裁に選出されました。陸軍奉行に大鳥圭介、陸軍奉行並に土方歳三、海軍奉行に荒井郁之助が選ばれ、箱館政権が誕生しました。

【続く敗戦】

1869年3月、旧幕府がアメリカに発注していたストーンウォール号(のちに甲鉄艦と呼ばれる)が新政府に引き渡され、宮古湾に係留されていました。3月25日に榎本軍はこの船を奪取しようと試みますが失敗します。

4月9日には新政府軍が乙部に上陸、17日に松前を制圧し、榎本軍の本拠地である箱館に迫ります。5月11日には榎本軍の最前線で戦い続けた土方歳三が、五稜郭の外で流れ弾に当たって戦死しました。

【戊辰戦争の終結】

やがて新政府軍の総攻撃がはじまり、5月18日に榎本は敵の本陣に出向き降伏します。この日に五稜郭は開城し、五稜郭の戦いは終結しました。ここにおいて、1年5ヶ月に渡る戊辰戦争がすべて終了します。

戊辰戦争についてよく知るための本

勝てば官軍とはよく言ったもので、勝者が華々しい活躍をする歴史書は数多くあります。しかし今回は敗者から見た戊辰戦争の本を3冊ご紹介します。

敗者側から見た戊辰戦争の草分け的な書

著者
佐々木 克
出版日
1977-01-25

1977年に書かれた本書は、敗者側から見た戊辰戦争の本としては草分け的な作品です。版を重ね読み続けられていることで、興味を持つ方が多いことがわかるでしょう。

本作では大政奉還から戊辰戦争後まで、反政府側であった奥羽越列藩同盟の視点から書き記されています。東北住民がどのようにこの戦いを迎え、そしてどのように考えたのか、初めて知る方も多いでしょう。

官軍とは何なのか、正義とは何なのか。その時の立場の違いで変わる、うつろいやすいものなのだと痛感させられます。

戊辰戦争最初の戦いを知る

著者
野口 武彦
出版日
2010-01-01

本書では戊辰戦争でも初戦の鳥羽伏見の戦いに絞って書き記されています。鳥羽伏見の戦いとはいったいどのような戦闘だったのでしょう。

この戦いに実際に参加した人や、将軍のそば近くにいた人の証言など、多数の資料をふんだんに盛り込んでいます。まるでその現場にいるかのような臨場感あふれる記録は、ドキュメンタリーフィルムを見ているかのようです。

筆者は旧幕府軍、新政府軍に偏ることなく、客観的に資料を読み取っていきます。本書を読めば今まで知らなかったような新事実を発見できるはずです。

引用文が多いので読みにくさもあるかと思いますが、当時生きていた人たちの息遣いを感じることができるのでぜひご一読ください。

会津藩の戊辰戦争

著者
星 亮一
出版日
2008-01-10

本書は戊辰戦争、そしてその前後の史実を会津藩中心に書き記したものです。

話はいきなり会津若松城下での激しい戦いの場面から始まります。城内外の混乱ぶりや武家の女子の後方支援のみならず、武力での活躍など、その場にいるかのようなリアリティで書かれています。

また会津側からだけではなく、新政府軍の長州や薩摩の指揮官ではない一兵士の記録もあり、彼らが会津の人たちをどのように思っていたのか正直な感想を知ることもできるのです。 

会津の人たちが長州の人たちに恨みに近い感情を抱いているのは過去の話ではありません。現在でも各国の戦争被害者たちは、加害者たちのふるまいを決して忘れてはいないのです。戦争当事者ではない子孫たちがどのように贖罪をし、相互理解をしていけばいいのか深く考えさせられる一冊です。

戊辰戦争とは新しい政権が、古い政権を徹底的にたたくこと、この一点に尽きるでしょう。そのためには正当な理由も手段もありません。目的遂行のために、残酷なまでに戦いは続くのです。その流れに巻き込まれた人々がどのように生きていったのか、立場が変わればどのように人間はふるまうのか。戊辰戦争を通して深く考えさせられます。

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