関ヶ原の戦いを徹底解説!もっとよく知るための本も紹介

更新:2021.11.10

天下分け目の関ヶ原の戦いは、どのように行われたのでしょう。発端からその結末に至るまでご紹介いたします。

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天下を分けた大合戦・関ヶ原の戦い

「関ヶ原の戦い」は、日本史においてもっとも有名な合戦のひとつです。この戦いに勝利したことで、かの徳川家康が天下人となったことは周知のこと。

家康率いる「東軍」と、石田三成がいる「西軍」の兵の合計は20万人近くにも登りましたが、決着はたったの1日でついてしまいました。

さて、この「関ヶ原の戦い」はなぜ起こり、なぜこんなにも早く決着したのでしょうか?この記事では戦いの原因・流れ・人物・勝敗を分けた重要な出来事に加え、さらに詳しく知るための本もご紹介いたします。

関ヶ原の戦いの原因・流れ

【家康の台頭】

豊臣秀吉亡き後の政権は、「五大老」と「五奉行」によってまとめられていました。しかし、五大老の中心人物だった徳川家康が、あからさまに勢力拡大に努めはじめます。

家康は秀吉の遺命に背いて、伊達家や福島家などの大名家と婚姻を結びます。他の大老たちや、石田三成たち五奉行にそのことを責められても、逆に彼らが詫びを入れなくてはいけなくなる始末で、もはや家康に逆らえるものはいなくなっていました。

【石田三成の失脚】

五奉行が頼りにしていた大老の前田利家が亡くなると、豊臣恩顧の加藤清正ら武闘派大名たちが、対立関係にあった石田三成を討とうとします。結局家康が仲介して奉行を辞めることとなった三成は、佐和山城で隠居することになりました。

【上杉攻め】

三成の失脚以降、家康はますます権力を強めます。1600年6月、彼は同じ大老であった上杉景勝に謀反の疑いをかけて上杉攻めを決定します。7月8日に家康の子・秀忠軍の約37000人が、7月21日に家康軍の約32000人が、それぞれ会津に向け江戸城を出ました。

【小山評定】

同じころ、隠居をしていたはずの石田三成が「家康は豊臣家をないがしろにして、権力拡大をもくろんでいる」と反発し、全国の諸大名に呼びかけ挙兵します。

この知らせを聞いた家康は7月25日、前線基地の小山に諸将を集めて軍議を開催。世にいう「小山評定」です。家康はこの評定で、上杉攻めに参加した諸将を三成攻めに参加させることに成功します。8月4日、家康軍は上杉攻めを中止し、江戸へ引き返しました。

【両軍、関ヶ原へ】

8月23日、福島正則ら家康方東軍の先発部隊34000人が、岐阜城を攻め落とします。その知らせを聞いた家康は9月1日、軍勢を二手に分けて江戸城を出発します。自らは30000を率いて東海道を、主力軍38000は秀忠に託し、中山道を進ませました。両者は美濃で合流するはずでした。

9月14日、石田三成は大垣城を出発、西軍約84000の軍勢を関ヶ原に向かわせます。一方家康は、秀忠率いる本隊38000がいまだ到着していませんでしたが、74000の軍勢を関ヶ原に進軍させました。

【関ヶ原の戦い開戦】

9月15日午前8時、ついに戦端が開かれます。しかし西軍の毛利勢30000は、家康との密約を守り動こうとしません。戦況は一進一退をくり返していましたが、正午、家康は寝返りを約束させていた小早川秀秋に西軍を攻撃させ、形勢は一気に東軍に傾き、結局戦いは1日で東軍の勝利という決着がつきました。

関ヶ原の戦いがおこなわれた場所

関ヶ原は岐阜県南西部の不破郡にあります。伊吹山地と鈴鹿山脈に囲まれた盆地で、古代三関のひとつ、不破関が置かれたところです。

西軍の三成は、標高165mの笹尾山に4820の陣を構え、標高419mの南宮山に毛利勢16000の陣が、標高293mの松尾山に小早川勢15675が陣を構えていました。

一方東軍の家康は標高104mの桃配山に本陣を置き、最前線に福島正則勢、最後尾に池田輝政勢を布陣しました。

1885年、陸軍大学校の教官として招かれていたドイツ人のクレメンス・メッケル少佐が、関ヶ原の陣形を見て、「西軍が勝つ」と言ったそうです。小高い山を背景に、平地の敵を包囲する西軍の布陣は優れたものでした。

西軍武将一覧

関ヶ原の戦いに参加した大名たちのなかで、特に注目してほしい人物たちを「西軍」「東軍」に分けてピックアップしました。

【毛利輝元(もうりてるもと)】

毛利家は中国地方で120万石以上の領地を持つ有力大名でした。この当主輝元が、西軍の総指揮官にまつりあげられます。しかし輝元の戦意は低く、秀頼を守るという口実のもと、大坂城から動きませんでした。

戦後、輝元は改易(身分を剥奪し、領地を没収すること)となり、徳川方に味方した親族の吉川広家に2ヶ国が与えられることになりましたが、広家はそれらを輝元に与えるよう懇願し、周防、長門の両国が毛利家のものとなります。その後輝元は隠居・剃髪して宗瑞と称しました。

【大谷吉継(おおたによしつぐ)】

吉継は、近江長浜城主時代の秀吉に仕えはじめます。賤ケ岳(しずがたけ)の戦いでは調略により手柄を立て、「七本槍に匹敵する」と称賛されました。

この活躍により従五位下、刑部少輔に叙任し、越前敦賀5万石の大名になります。その後、三成とともに事務方で働き、後方支援で活躍しました。関ヶ原では親しい三成に味方して西軍に参加しますが、戦闘で傷つき自刃します。

【島津義弘(しまづよしひろ)】

関ヶ原の戦いの時、島津勢は1500人ほどしかいませんでした。島津家はどちらに与する理由もなかったのですが、伏見城で家康の家臣ともめたため、三成側についたのです。

島津勢は戦いの時不気味に動かず、戦闘も終わりのころに家康の本陣後方へ脱出口を見出し、本陣をかすめるような敵中突破をします。島津勢のこの攻撃は多大な被害を出しましたが、勇ましさを強力にアピールしました。島津家は西軍側にもかかわらず、旧領の薩摩60万石を渡されます。

【長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)】

盛親は三成に好意を持ってはいましたが、家康の方に天下を治める才があるとみていました。26歳と若い彼は、重臣を集め評議した結果、東軍につくことを決めます。そこで家臣を家康の元へ派遣したのですが、石田方の長束正家(なつかまさいえ)が設けた関所に遮られてしまいます。そのまま戻ってきた家臣を見て、盛親は心ならずも西軍に従うことにしたのです。

関ヶ原では大兵にもかかわらず形勢を見るにとどめましたが、戦後領国をすべて失いました。井伊直政の懇請により身柄の安全だけは保障され、盛親は剃髪します。しかし大坂の陣が起こると、彼は大坂城入りをし、夏の陣で討ち死にをしました。

その他、以下の大名たちが、西軍として関ヶ原の地に布陣しました。

・木下頼継 ・田丸直昌 ・糟屋武則 ・戸田勝成 ・河尻秀長 ・石川貞清

・織田信高 ・小西行長 ・宇喜多秀家

以下は、後に東軍に寝返った大名たちです。

・吉川広家 ・小早川秀秋 ・小川祐忠 ・脇坂安治 ・赤座直保 ・朽木元綱

東軍武将一覧

【福島正則(ふくしままさのり)】

正則の母が秀吉の妻おねと親戚であったこともあり、秀吉が近江長浜城主となった時に、彼に取り立てられました。秀吉のもと武功で大手柄を立て、尾張国清州24万石の大名になります。

秀吉没後は三成たち官吏と対立し、家康の味方になります。関ヶ原では先鋒を務め、戦後広島城主となり、49万8千石を与えられました。しかしその後家康の不興を買い、信濃国川中島4万5千石に遷されました。

【黒田長政(くろだながまさ)】

長政は黒田官兵衛の長男として、播磨国姫路城で生まれました。父の官兵衛は秀吉の軍師として有名です。官兵衛が信長に臣従する証を示すため、長政は人質として秀吉のもとで暮らしはじめました。

その後秀吉に従い戦功を重ね、豊前中津に18万石の所領を得ます。しかし朝鮮出兵で三成と対立し、家康に近づくことに。長政は調略上手で、福島正則や小早川秀秋をも東軍に引き込みました。関ヶ原後、筑前52万3千石を与えられます。

【前田利長(まえだとしなが)】

五大老のひとり、前田利家の長男で、父亡き後は金沢83万5千石の領主になりました。秀吉没後は家康にも、五奉行にも加担しない方針をとりますが、これが家康の不興を買い、謀反の疑いをかけられます。この時、家康に人質として母をとられたことがきっかけで、家康に従うようになります。

関ヶ原では戦いませんでしたが、東軍として活躍した功績により、120万石を治める国内一の大名になりました。

【井伊直政(いいなおまさ)】

直政は1561年今川家の重臣、井伊直親の子として現在の静岡県浜松市に生まれます。今川家はその後没落し、14歳で家康のもとに出仕することになりました。彼の最初の軍功は、北条家との和睦交渉です。その才はいかんなく発揮され、「武田の赤備え」といわれる精鋭を含めた武田軍団を、自分の軍勢に加えました。これが後の「井伊の赤備え」部隊になります。

直政はその後「井伊の赤鬼」と恐れられる武人になります。関ヶ原では福島との先陣争いと、島津勢への追撃が有名です。戦後は近江佐和山城に入り18万石を授けられました。

【織田長益/有楽斎(おだながます/うらくさい)】

織田信長の弟で、「有楽斎」は茶人としての号です。豊臣の直臣で、御伽衆(主君の側で話し相手をする人)であったことや、秀頼の母が姪の淀君ということも関係なく、家康率いる東軍につきました。戦後3万石を与えられ、茶道「有楽流」を創設して茶道の道を究めます。

信長、秀吉、家康という天下人の誰よりも長く生き、1621年に75歳で大往生をしました。現在東京にある「有楽町」という町は、そこが彼の屋敷跡であったことから命名されています。

その他、以下の大名たちが、東軍として関ヶ原の地に布陣しました。

・松平忠吉 ・本多忠勝 ・筒井定次 ・細川忠興 ・蜂須賀至鎮 ・浅野幸長

・池田輝政 ・生駒一正 ・藤堂高虎 ・加藤嘉明 ・田中吉政 ・京極高知

・寺沢広高 ・山内一豊 ・金森長近 ・有馬豊氏 ・滝川一時 ・古田重勝

・結城秀康
 

西軍・小早川秀秋の裏切り

この関ヶ原の戦いは、西軍・小早川秀秋の裏切りが、東軍の勝利のきっかけになったといわれています。彼はどういう人物で、なぜ西軍を裏切ったのでしょうか?

【生い立ち】

秀秋は秀吉の妻・おねの甥で、秀吉に養子に迎えられ羽柴秀俊と名乗り、丹波国亀山で10万石を与えられました。しかし成長して地位が高くなると気性の荒さも目立ちはじめ、秀吉に疎まれるようになります。

そこで秀吉は彼を、子のない毛利輝元の養子にしようと考えますが、それより早く小早川隆景が秀俊を自分の養子にしました。この時から彼は「小早川秀秋」と改名します。

【裏切りの経緯】 

朝鮮出兵に参加した際、秀秋は日本軍の総大将として大勝しましたが、石田三成に持ち場を離れたことを責める報告を秀吉にされて領地を減らされてしまいます。これ以来、秀秋は三成を深く恨むようになったのです。

しかし三成が「反徳川」の挙兵に踏み切った時、秀秋は「秀頼様が成人するまで関白の地位につけるから、味方にならないか」という言葉で三成側へと誘われます。この時家康は上杉討伐で遠方にいたので、秀秋はとりあえず三成の味方になるとの返事をしますが、密かに徳川方と連絡を取っていました。

そして関ヶ原の戦いの前日、家康から秀秋宛に密書が届きます。その内容は「家康に忠節を尽くした暁には、上方に二カ国を与える」というものだったのです。

【関ヶ原の戦い】

関ヶ原の戦いでは、東軍西軍とも拮抗した戦いをしましたが、秀秋の裏切りにより情勢は変わります。この時、西軍の大谷吉継がすぐに小早川の対応に当たれたのは、開戦前から彼の動向を心配して、近くに布陣を敷いていたからでした。

しかし、問題は秀秋だけではありませんでした。秀秋には大谷が対応していましたが、吉川、小川、脇坂、赤座、朽木など他の大名も同時に裏切ってきたのです。これにより関ヶ原の戦いは、東軍の勝利に終わりました。

【秀秋のその後】

関ヶ原の戦い後、秀秋は岡山55万石の領主になります。名前も秀詮と改名しましたが、関ヶ原の戦いから2年後の1602年、21歳で急死します。その後、後継ぎがいないことを理由に小早川家は改易されました。

戦国武将たちの歴史絵巻

司馬遼太郎の作品のなかでも傑作と呼ばれる物語で、石田三成ファンは必読の一冊です。

天下を治めていた豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康はその天下を狙う動きを隠そうとしなくなります。そんななか、家康方につく豊臣恩顧の大名たち、対する豊臣の世を守ろうとする石田三成たちは、どのように戦っていったのでしょう。

お家を守るために、東軍につくのか、西軍につくのか。諸大名たちが選択を迫られます。

著者
司馬 遼太郎
出版日
1974-06-24

人の心を巧みに扱う家康と、豊臣に対する忠義の心は人一倍あるものの損な性格で人望のない石田三成。この2人を軸に物語は進みます。
 

本書を読んで石田三成や、島左近のファンになった人も多いのではないでしょうか?発売以来、長く読み続けられている大ベストセラーです。

コミックで関ヶ原の戦いを読む

本書には、秀吉の死から関ヶ原の戦い後までの歴史について描かれています。

コミックの終わりには解説や年表など基礎知識も書かれていますので、関ヶ原の戦いを把握するにはよい入門書だといえるでしょう。

著者
すぎた とおる
出版日
2008-03-01

関ヶ原の戦い前のエピソードなども書かれているので、興味深く読むことができます。
 

このシリーズは他にも、「大坂冬の陣・夏の陣」、「石田三成」、「加藤清正」など関ヶ原の戦いに関連した内容のものもあるので、合わせて読むことでより一層理解を深めることができます。

関ヶ原の真の歴史を探る

関ヶ原の戦いには、「小早川の裏切り」や「小山評定」などに関するいくつものエピソードがありますが、はたしてそれらは真実だったのでしょうか?

本書を読むことで、この戦いの真相に近づくことができるでしょう。

著者
白峰 旬
出版日
2014-10-10

著者の白峰旬は「関ヶ原でよく知られた話は、江戸の軍記物に描いてある事柄に過ぎない」といいます。その指摘に証拠をつけるように、合戦にまつわる有名な出来事からちょっとした小話についてまで、大胆な切り口から考察して通説を覆していきます。

今までの歴史観が変わるかもしれない一冊です。

関ヶ原の戦いの後、天下は完全に徳川の手中におさまります。その後、大坂の陣で豊臣家が滅びます。豊臣方としては徳川を恩知らずと思うかもしれませんが、豊臣政権も下克上で奪い取った天下だったのです。長い間、臣従を強いられた家康にとって、ここ1番天下を取るチャンスが、関ヶ原だったのでしょう。

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