5分でわかるオスマン帝国!概要や場所、皇帝、美女ヒュッレムなどを解説

更新:2021.11.13

始まりは小アジアの一国だったオスマン帝国。巧みな戦術と君主の判断が冴えわたり、広大な土地を治める帝国へと発展していきます。この記事では、大国になるまでの流れや皇帝について、絶世の美女といわれたヒュッレムなどをわかりやすく解説。あわせておすすめの関連本もご紹介していきます。

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オスマン帝国とは?最盛期を築いたのは皇帝・スレイマン1世

 

トルコ族の一首長であるオスマン1世により、1299年に建国されたオスマン帝国。他民族のイスラム国家です。

勢力を拡大していったのは、3代皇帝のムラト1世。隣接するビザンツ帝国の都市、アドリアノープルを攻略し、バルカン半島南東部のトラキア地方を次々と支配下におさめていきました。

1389年に起きた「コソヴォの戦い」でバルカン諸国連合軍を撃破。オスマン帝国による半島支配の基礎を築きました。続く1396年には「ニコポリスの戦い」でハンガリー連合軍を破ります。

しかし1402年、ムラト1世の息子であるバヤジット1世の時代に、当時力をつけていたモンゴルのティムールが攻めてきました。これを「アンカラの戦い」といいます。バヤジット1世はこれに大敗。帝国は一時崩壊の危機を迎えます。

1444年から1446年、1451年から1481年の2度皇帝に即位したメフメト2世は、バルカン半島の諸国を次々と制圧。1453年にはコンスタンティノープルを滅ぼして、ビザンツ帝国を完全に征服します。このコンスタンティノープルという場所は、各方面との貿易拠点となる場所で、ここを支配したことは帝国のさらなる繁栄の大きなきっかけとなりました。

1517年、セリム1世がアフリカ大陸のマムルーク朝を征服。1520年から即位したスレイマン1世の時代に帝国は最盛期を迎え、アジア、ヨーロッパ、そしてアフリカにまで連なる大帝国が完成しました。

オスマン帝国が建国された場所は、現在の地図でいうとどこ?

 

オスマン帝国がこれほどの大帝国となった理由として、地理的に大変恵まれていたことが挙げられます。まず建国場所は、小アジアの西北、現在の地図でいうところのトルコ共和国アナトリア半島です。

北に黒海、北西にはマルマラ海が存在し、西はエーゲ海、南西は地中海に面しています。島国ではないものの、海に面しているので貿易に有利で、商業国家としても栄えました。

また戦いにおいても、陸続きであるより、海を挟んだ方が防衛には有利です。攻めるときにも戦力を一ヶ所に集中させやすく、事実奇襲的に攻め込まれた「アンカラの戦い」以外、ほとんどの戦いにおいて負け知らずでした。

オスマン帝国の絶世の美女、ヒュッレムとは?

 

オスマン帝国を語るうえで外せないのが、ヒュッレムという女性です。彼女は、血生臭い男たちの戦いの歴史のなかで、華麗な出世を遂げました。

ロシア南部のルテニア地方に生まれ、1520年頃、この地を略奪に来たタタール人によって奴隷となります。イスタンブールへ連れていかれ、裸で競りにかけられました。

ヒュッレムはそのなかでもひときわ目立つ美貌を持っていて、彼女を買ったのが、なんとオスマン帝国の大宰相パルガル・イブラヒム・パシャだったのです。

ほとんどの奴隷が酷い暮らしを強いられるなか、ヒュッレムは宮廷で豪奢な生活を送るようになりました。それまで決して裕福な環境で育ったわけではなかった彼女は、ここで上昇志向を芽生えさせます。

その後ついに皇帝スレイマン1世の目にとまり、寵愛を受け、男児を出産。第2夫人にまで上り詰めました。当時、皇帝は妻を迎えないのが慣習でしたが、スレイマン1世の溺愛っぷりは他に類を見ないもので、ヒュッレムを正式に妻としたのです。

慣習を覆し、皇帝の愛を手に入れた彼女はその後、外交や国政にも関与するようになります。奴隷の立場から皇后にまで登りつめた伝説の美女として、後世に語り継がれることになりました。

オスマン帝国の基礎知識を身につける一冊

著者
林 佳世子
出版日
2016-05-11

 

イスラム教の宗派などをめぐる紛争は現代も続いていますが、オスマン帝国は当時、イスラムの教えを中心としながらも、多民族や他宗教を共存させることに成功していました。

価値観も文化も違う地域を征服し、500年にもおよぶ大帝国を安定して統治していた、帝国のメカニズムを知ることができる一冊です。誕生から終焉までを描いているので、全体的な流れを把握するのに最適でしょう。要所に地図や建築物の写真なども載っているので、イメージがしやすいつくりになっています。

帝国が平和に統治された秘密とは

著者
鈴木 董
出版日
1992-04-16

 

オスマン帝国が他の国と一線を画しているのは、勢力拡大をする際に、戦いだけに重きをおいていたわけではなかったというところでしょう。開放的かつ合理的な社会システムを構築し、イスラム教国家でありながら、キリスト教やユダヤ教も制度のもとに受け入れました。

それらのシステムを本書では「柔らかい専制」とし、上述したヒュッレムのように身分の低い者でも成りあがることのできる仕組みと秘密に迫っていきます。

一見するとドラマチックな物語にも思えますが、本書は史実を忠実に追いかけ、終始冷静にオスマン帝国繁栄の秘密に切り込んでいるので、国家のシステムを理解するのにおすすめの一冊です。

オスマン帝国繁栄の核心をスリリングに描く

著者
塩野 七生
出版日
1991-04-29

 

オスマン帝国の首都、コンスタンティノープル。この地なくして超大国の繁栄はありえませんでした。アジアとヨーロッパ、そしてアフリカとどの方面からでも海の玄関口となるえる場所だったからです。

しかし、それまでコンスタンティノープルを首都としていた東ローマ帝国も、この地を死守しようと必死です。本書は、帝国同士の命運を分けた戦いをスリリングに描いた一冊です。

オスマン帝国は、多文化や他宗教を束ねるその力です。なぜ現地に住む人々は帝国の支配を受け入れたのでしょうか。歴史上には名前も残っていない商人や兵士たちの目線からも、その謎に切り込んでいきます。

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