大人の一歩は歩幅がでかいが数が少ない。【小塚舞子】

大人の一歩は歩幅がでかいが数が少ない。【小塚舞子】

更新:2021.11.29

夜中にふと目が覚めた。「今は何時だろう」「昨日何時に寝たっけ」「しかし、暑いな…」などと考えているうちに何だかのどが渇いてきたので、ヨイショとベッドを出て、キッチンへ向かった。時刻は2時過ぎだった。

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長い夜になりそうだ。

ダイニングテーブルを置こうと模様替えをしたばかりの部屋は、狭いけれどがらんと殺風景で、真っ暗闇でも何にもぶつからずに冷蔵庫までたどり着ける。リビングのメインの照明をつけてしまうと、本格的に目が覚めてしまいそうな気がしたので、キッチンにある小さな明かりだけをつけた。コップに冷たい麦茶を注ぎ、ソファーに座ってゆっくりとそれを飲んだ。蒸し暑く、薄暗い部屋の中、ぼんやりと床を眺めていた。

・・・・・・・・床に何か落ちている。

私はきれい好きという程ではないが、出先から帰って来たときと、朝起きたときに部屋が散らかっているのが嫌で、それなりに片づけるようにはしている。なので、一目でわかるような大きなゴミや、何らかの小物が落ちているはずがない。それなのに、明らかに視界の端っこに、ここにないはずの何かが映っているのだ。メガネをかけておらず、裸眼では0.1未満しかない両目を細めて、じっとその何かを見つめた。ほんの数秒の間に、背中が冷たくなるような嫌な予感がはっきりとあった。しかしどうかこの予感が外れていますようにと強く、強く願い祈った。

日頃の行いが悪かったのだろう。願いごとも祈りごとも何にも叶わず、予感は見事に的中した。床の上で違和感を放ちまくるそれは、あたりを警戒するかのようにゆっくりと動き出した。なぜ、夜中に起きてしまったんだ。なぜ、のどが渇いたと思ってしまったんだ。なぜ、飲み物を枕元に用意しなかったんだ。なぜ、なぜ・・・という後悔の念に駆られている暇はない。次第にスピードをあげながら動くそれをなるべく刺激しないように、抜き足差し足で寝室へと戻った。長い夜になりそうだ。私は、生まれて初めて、たった一人でゴキブリを退治する。

あと一歩が踏み出せない。

寝室へと戻ったのは、この夏せっかく結婚したというのにこの一大事に家にいなかった(東京で仕事してた)旦那さんにゴキブリ出現の旨を電話で報告するためだ。報告したからと言って、東京から大阪までゴキブリを退治しに帰ってきてもらうわけにはいかない。ただ背中を押してもらいたかった。この恐怖を誰かと分かち合いたい。

夜中の突然の電話に何事かと驚く旦那さんに「ゴキブリがでました」と告げる。

「え?どうするの?」
「どうするもこうするもこれから退治しますよ」
「殺虫剤あるの?」
「あるよ」
「ゴキブリ倒せるの?」
「倒せないよ」

こんな不毛な会話を長く続けているわけにはいかない。一刻も早く、奴を退治し、安心して眠れる環境を確保しなければ。心臓がドキドキ鳴って、呼吸も荒くなってくる。こわい。

私の勇姿を見届けてもらおうと、通話中のままリビングに戻り、テレビ台の下にしまっておいた殺虫剤を取り出そうとする。焦って長いノズルがひっかかってしまい、なかなか出てこない。「出ない!出ない!」と騒ぎながら、ゴキブリがいたところに目をやると、いない。そりゃそうだ。少しでも目を離すと、大抵奴らはいなくなる。少し冷静になって殺虫剤を取り、獲物を探す・・・というか探し回るのは怖いので、出てくるのを待つ。「出てこい」と「出てくるな」が入り乱れた複雑な心境。

約10分後・・・また視界の隅っこに違和感を捉える。

いた。ラッキーなことに部屋の角にいる。周りには何もない。これは絶好のチャンスだ。どこにも追いやる必要がなく、自ら逃げ場がなさそうなところで待ち構えてくれている。そっと近づこうとするが、ある考えが頭をよぎる。いくら殺虫剤を持ってはいるというものの、こちらは薄着、裸足の丸腰だ。向こうに逃げ場がないということは、最悪の場合こっちに向かってくることになる。そうなると足の上を通るかもしれないし、それが気持ち悪くてジタバタしてしまい、そのまま踏んづけてしまうという、もっと酷い状況も考えられる。せめてスリッパを履きたいところだが、もう目を離せない。

これはやばい。チャンスでもなんでもない。ピンチだ。映画ならば、互いに銃を向けた二人が、さあどちらが先に打つのかと睨み合っているような緊張のシーン。グッと肩に力を込め、ジリジリと殺虫剤のレバーを引こうとするが、あと一歩が踏み出せない。タラリと冷や汗が垂れる。あぁ!怖い!!あらゆる悪い想像が頭の中を駆け巡る。電話口からは「殺虫剤まいたー?」という呑気な声。

「まだ!ちょっとまって!」

ゴキブリのいない部屋で過ごしている人が羨ましい。この角にいる間に何とかして奴を仕留めてしまわねば。しかしこれ以上近づくのは怖いので、少し離れたところで中腰になり、腕をめいっぱい伸ばして、思いっ切りレバーを引いた。

憎き黒いかたまり。

プシューーーーーッ!!

・・・いかん!届かない!力強いジェット噴射がシャーッと奴めがけて威勢よく飛び出したものの、明らかに獲物の手前で息絶え、ふわわわわ~んと宙を舞っている。だが、頼りなく彷徨った成分のほんの少しだけは敵に届いたようだ。奴の動きが明らかに俊敏になる。逃げ惑う敵。叫ぶ私。(ご近所さんすみません)

ぎゃあああああ!と声をあげながら後ずさりしてしまい、それ以上噴射を続けることもできず、あっという間に敵を逃がしてしまった。奴はキッチンの奥へと入り込み、冷蔵庫の下だかゴミ箱の隙間だかに入りこんだ。本来ならば、ここで奴が潜んでいるのであろう隙間に少量の殺虫剤をまいておびき出すという方法を取るべきなのだろうが、やはり怖いのでまた待つことにした。

にらみ合いから噴射までに相当の迷いがあったようだ。さらに15分ほどが経とうとしている。携帯電話はまだ通話中。ゴキブリを逃がしたことを報告する。早く退治しちゃいなよと急かす旦那さん。絶対時間かかるからもう先に寝てくれという私に「大丈夫だよ」と付き合ってくれるが、「ゴキブリって卵産むんだよ」と謎の脅し文句を浴びせてくる。やめて。こわいから。

奴が再び姿を現すまでにそう時間はかからなかった。冷蔵庫の下からノロノロと這い出てくる、憎き黒いかたまり。さっきの殺虫成分が思いのほか効いているのか動きは鈍くなっている。しかし油断はできない。完全なへっぴり腰で、恐る恐る二度目の噴射を試みる。こっちが攻撃している側なのに「ヒィィィィィィッ」という声が自然と出てくる。敵は多少逃げるような動きを見せたが、そこでようやくおとなしくなった。

勝った。初めてこの手で奴を倒した。褒めて!だれか褒めて!興奮気味に「動かなくなった!」と電話で報告する。

「ほんとに?卵産んでない?」

旦那さんはしきりに卵を気にしている。話が長くなりそうなので割愛したが、これまでの戦いの中で何度も卵の怖さについて説明され、私は一旦キレている。「たまごたまご言わんといて!怖いねん!もう!だまってて!」自分から電話したのに実に自分勝手だ。あまりの恐怖に余裕をなくして、夜中の電話に付き合ってくれている人に八つ当たりしてしまったが、奴を倒した今、笑って「いやあ、ごめんねー」と言えるまでに回復した。こういった些細なことから夫婦げんかになったりするのだろう。気を付けよう。

これは大きな一歩だ。

しかし、まだ大きな問題が残っていた。冷蔵庫の前には、屍となった奴が転がっている。もう数分動いていないので、安心して良いだろうが、さてここからはえっと・・・どうしたらいいんだ?ティッシュでつかむ?それでどこに捨てる?・・・ん?つかめる?いや!ムリムリムリムリ!絶対にムリ!頭の中でどうシュミレーションしてみても、私は奴をつかむということができなかった。

ほうきで掃いてみてはどうか、何かに乗っけるのはどうか、はさめるものはないのか、二人であれこれ相談した。この時点で発見から30分は経っていたと思う。眠いし、先ほどの戦でかなり体力を消耗していた。何か長いものにくっつけて、そのまま捨ててはどうかという旦那さんの意見に「それだ!」と思い、ほとんど回らない頭で家の中にある長いもの、且つ捨てても惜しくないものを探した。

浮かんだのは、針金ハンガーだった。クローゼットから一つ取り出し、ハンガーの片方の肩の部分にガムテープを裏返しにしてくるっと巻いたものを装着する。くっつく面積が大きいほうがよかろうと、いくつか作ってつけた。もう片方の肩を持って、構えてみる。

短い。これだと相当奴に近づかなければいけない。全然だめだ。もっと長いもの・・長いもの・・・。と、手に持った針金ハンガーの首の部分を見てみる。これはもしかすると、ほどけるんじゃないか?首の根元に巻きつけられた針金を手でひねってみると、いとも簡単にほどけて、あっという間に長い一本の針金になった。

これは長い!長いぞ!これならば相当距離を取れるし、くっついたという感触を味わわずに済みそうだ。嬉々として、巻いたガムテープを片方の先にくっつける。もう片方の先を持つ。その場で腕を伸ばしてみる。思ったより針金は柔らかく、しなる。ガムテープをつけた部分がぶらぶら揺れる。糸の無い釣竿のようだった。

・・・いやムリだ!これにくっつけるのもムリ!てゆーか何だ、これは。私は夜中に何をしているんだ。子供が作った紙の剣以下の、ヨロヨロのお粗末な武器を片手に、妙におかしくなって笑ってしまった。

いきなりケラケラ笑い出す私に、旦那さんは「なに?」と気味悪がっている。長いものにくっつける作戦もどうやらできそうにないと説明すると、インターネットでいろいろと調べてくれた。一番現実的だったのは、掃除機の先に不要になったストッキングを被せ、スイッチを入れてくっつけるという方法。そのままトイレまで運んで、スイッチを切り、奴が掃除機から離れたら流してしまうというものだ。早速掃除機を出してきて、ストッキングを被せる。奴が転がる現場からトイレまでの動線を念入りにチェックする。コードの長さは充分であるか、ぶつかってしまいそうな所はないか、トイレの蓋は開いているかを何度も確かめ、スイッチオン・・・するまでにやはり時間がかかった。ストッキングごとゴボッと吸い込んでしまったら目も当てられない。

時刻は3時を回っていた。

「ちょっと精神統一してから処理するから、ほんと寝てて!」そう言う私に「ここまできたら最後気になるよ」と笑う旦那さんをこれ以上付き合わせるわけにもいかず、何とかスイッチを入れ、多分何事か叫びながら無我夢中でそれを掃除機の先にくっつけて、ダッシュでトイレまで運び、スイッチを切って、黒い物体がちょこんと落ちたのを何となく確認してから何度も流した。

ものすごい達成感があった。虫が平気な人には、なんて大げさなと思われるだろうが、自分がとても自立したような気分になった。まぁ、人を頼ってはいるけれど。それでも、虫が出ると母を呼び、自分は退治する現場すら見ずに、違う部屋でガチガチに固まっていたことを考えると、やはりこれは大きな一歩だ。33歳を目前に控えた一歩。大人の一歩は歩幅がでかいが数が少ない。嬉しい。お礼を言って電話を切り、殺虫剤をまき散らしたところを丁寧に拭いた。

さて、長々とゴキブリ退治の話をしたが、実はこのコラムで書きたかったことは、結婚しましたということだった。恥ずかしくて、何から書き出そうと迷っているうちにこうなってしまったが、何となく旦那さんの人柄が伝わっているんじゃないかと甘く考えている。2歳年下の彼は、こんなポンコツな私を苦笑いし、呆れながらも真っ直ぐに見ていてくれる、とても大らかな人だ。自分も両親もほとんど諦めていたが、結婚できた。

結婚や家族を描いた2冊

著者
山崎 ナオコーラ
出版日
2018-05-15

四姉妹の次女であり、間近に結婚を控えた豆子は32歳。真面目にコツコツと働き、しっかりと貯金もしてきた豆子ですが、結婚式の準備をしていく中で、金銭感覚が変わってくることを感じます。家族や友達、社会とどう関わっていくのか。ん?それはどうなの!?と、ハラハラしながら豆子を見守ることになりますが、同世代の彼女には何となく共感してしまうところもあったり…なかったり。

「おめでとうって言うな」

小説の帯にあったこの一言で思わず手に取ってしまった作品です。嬉しいんですよ、「おめでとう」は。でも、ちょっと恥ずかしいんです。

著者
窪 美澄
出版日
2016-09-28

同じ商店街で育ったみひろと圭祐は同棲をしています。長い間身体の関係が持てていないことに、悶々とするみひろ。そして、そんな彼女に惹かれ続けているのは、みひろの同級生であり、圭祐の弟でもある裕太。彼もまた何やら問題を抱えています。

三人それぞれの視点で描かれるこの作品の登場人物たちは、みんな不器用で生々しい。夫婦やカップルの形に正解なんてないのだと気づかされます。誰かから見た悪は、他の誰かから見れば正義だったりするのです。人を、自分を、許したくなる一冊。あとがきにある、尾崎世界観さんの解説もとても好き。最後まで楽しめます。

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