大人になるまで父の風変りなところに気がついていなかった【小塚舞子】

大人になるまで父の風変りなところに気がついていなかった【小塚舞子】

更新:2021.12.2

父親のことを今までほとんど触れずに来たと思う。このコラムでもそうだし、ラジオのフリートークでも、家族については母のことばかり話していた。うちは三人家族で、父と母は今でも仲良しだし、いたって普通の家庭だ。父のことが嫌いなわけでもないし、何の確執もない。好きかと聞かれれば、堂々と好きと答えられる。しかし、父がどんな人なのかと聞かれれば、わからない。だから、触れなかったというよりは、触れようがなかった。父は、今まで私が出会ってきた男性の中で、最も謎多き人だ。

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未知なる父の姿

自営業をしていた父は、平日が休みだったので、土日に遊んでもらった記憶はほとんどない。近所の子供たちが家の前でお父さんと自転車の練習をしたり、縄跳びをしたりして遊んでいるのが羨ましかった。帰宅するのも少し遅くて、夕食を一緒にとることは週に一回ほどだったと思う。だからと言って、愛情を感じなかったわけではない。

カメラ店の一人娘として産まれた私は、たくさんの写真を残してもらっている。そして、その多くは父と一緒だった。カメラ係がもっぱら母だったので、母との写真よりも、父と写っているものが多くなったようだ。

未就学の頃のものがほとんどだが、遊園地や動物園に出かけているものもあれば、何でこの瞬間を収めたんだろうと首をかしげたくなるようなものもある。何の記念日でもない日に撮ったお風呂上りのパジャマ姿だったり、庭で犬と遊んでいるもの(これもなぜかパジャマ姿)だったり。いずれにしても、私の成長や三人での何気ない暮らしを残そうとしてくれていた両親の気持ちが嬉しい。これらを見ていると、やはり愛情たっぷりに育ててもらったんだなぁと実感する。

私の育った町は、何か学校行事があると、祭りのような騒ぎになる。とくに運動会は盛大で、当日の朝には、開催を知らせる花火が打ちあがるほどだ。子どもたちの家族はもちろん、親戚や近所の人を巻き込んでの大イベントとなる。広い運動場のトラックの周りに、皆我先にとレジャーシートを広げ、豪華なお重に詰まったごちそうを並べる。家族や親戚が多ければ多いほど、その陣地は大きくなり、運動会というよりはお花見やらバーベキューやらの宴会に近い光景となる。もはや何が主役なんだかわからない。

そんな中、一人っ子だった私は母と二人きりだった。小さいレジャーシートに座るのが、寂しいと言うより、恥ずかしかった。そもそも運動も苦手だったので、あまりいい思い出がない。父親が参加する種目もあったように記憶しているが、目を伏せていたのかどんなものだったか思い出せない。私にとっての運動会は祭りでも何でもない、ただの苦行だった。

しかし、父は運動会には来られなかったものの、一度だけ『父親参観』に来てくれたことがあった。小学校高学年だったろうか。なぜ来ることができたのかは覚えていない。父親参観ということは、少なくとも平日ではないはずで、確実に仕事があったはずだ。私や母が来てくれと頼み込んだのかもしれないし、たまにはいいかと自ら休んでくれたのかもしれない。参観が終わるや否や、仕事に向かっていったような気もする。その日の前後とか詳しいことは全く思い出せないのだが、父親参観の“ある瞬間”を私は鮮明に記憶している。

授業内容は、ただ勉強している所を見てもらうものではない。運動場で、生徒VS父親たちのドッジボール大会が行われた。先にも書いたように、私は運動が苦手だった。特にドッジボールなんて、ボールを当ててやろうと戦意むき出しになった人の顔は怖いし、ボールが当たったら痛い。何より狭い範囲で逃げ回るハラハラ感が好きじゃなかったので、まぁ控えめに言ったとしても大嫌いだった。しかし、この日の気がかりは、そんな恐怖や痛みよりも、父の運動神経についてだった。

私は父と一緒に何か運動をしたという覚えがなかった。元柔道部ということだけは知っていたが、走っている姿すら見たことがない。そんな父が、クラスのみんなや他のお父さんたちとドッジボールをする。未知なる父の姿。嫌な予感しかしない。

その時の父の表情が目に焼き付いているのだ

運動場に集まり、ドッジボール用の白線を引き、いざ開始。生徒チームからお父さんチームへ、お父さんチームから生徒チームへ。互いに探り合いながら、肩慣らしのようなボールのラリーがぽんぽんと続いた。ドッジボールというものは、クラスに2,3人、異様に強い人が存在する。常に最前線に立ち、どんなボールも下から救い上げるように美しくキャッチし、華麗な舞で剛速球を投げてくる。私のクラスにももちろんいて、だいたいはその人たちがボールを持っているので、その他大勢はひたすら逃げるしかない。

しかし相手はお父さんチームだ。誰がこのゲームの実権を握っているかなんて知ったこっちゃない。大人は手加減していたのであろう。なかなか盛り上がりを見せない腑抜けたラリーが続く中、バシッとボールを受け取った人がいた。父だ。

かっこいい!私は嬉しくなって父に注目した。しっかりとボールを受け取った父は、すぐに投げようとはしなかった。狙いを定め、一瞬ニヤリと笑ったような気がした。そして、相手チームとの境界線ギリギリのところまで近寄りながら、あろうことか生徒チームのボス的存在の男の子に向かって思いっきりボールを投げた。

しかし、父はボールを受け取ってから投げるまでの時間がかかり過ぎていた。生徒チームは全体的に後ろの方まで逃げており、当然父からボスまでの距離もそれなりに開いている。ドッジボールで本気を出すときは、ボールを受け取ったら瞬時に狙いを定めて投げなければいけない。スピード勝負なのだ。適度な距離が取れていたこと、ボスの反射神経が完璧だったことによって、ボスはいとも簡単に父のボールを受け止めた。そして、すぐさま走りながら突風のような球を放った。狙いはもちろん、父。

境界線ギリギリのところでボールを投げ終えた父は、まだその辺りでヘラヘラとしていた。そこへボスの本気が飛んでくる。逃げ遅れる父。そして、ボスは小学生男子。休み時間毎にドッジボールをしている。プロだと言っても過言ではない。当然、戦い方も心得ている。ボスが狙いを定めたのは低めのポジション。大人なら膝より下のほうになる。

一瞬のことだった。ボスの本気球は、父の膝下あたりを直撃。父は受け取ろうとしたが、間に合わなかった。

顔を真っ赤にしてコートから出る父。つまらないように見えたドッジボールは、父の張り切りにより、盛り上がったのだった。そこで記憶はぷつんと途切れている。

今、思えば娘にいいところを見せようとした父を嬉しく思う。しかし、当時の私はどうだっただろうか。父から目を背けた気もするし、後からしゃしゃり出た父に怒ったような気もする。『恥ずかしいこと』において、とても敏感な年頃だ。穴があったら入りたかった気持ちだけは覚えている。あとはボスにボールを投げようとニヤリと笑った父と、ボスが放ったボールがスローモーションのように父に飛んでいく様と、それを取り逃した父と、コートから出るときの父の表情が、目に焼き付いているのだ。

父は意外とまともな父親だった

こうして振り返り、書き記していると、父は多少仕事が忙しく、ドッジボールが下手だったというだけで、特に謎めいたところもない普通の父親、男性に思えてくる。確かに、私は大人になるまで父の風変りなところに気がついてはいなかった。なので、幼い記憶を引っ張り出したところで、その片鱗は見えようがない。しかし、こうしてまともな父親であるというところを前提に書かなければいけないような気がしている。それくらいに、現在における父の掴みどころの無さは、読んでくれた人に私が父に愛されずに育った子なんじゃないかといいう誤解を生みそうなのだ。(たまに自分でもそう思う程だ)

そして、ほとんどないように思えていた父との思い出が、意外とたくさん浮かんでくることに自分でも驚いている。過ごしてきた時間は母とのそれに比べると半分にも満たないが、その分ひとつひとつが濃い。本題であるはずの謎めく父の姿については、長くなりそうなので次回ゆっくり書こうと思うが、少しくらいは披露しておこう。

ドッジボールでのチャーミングな父は過去の姿(と言うか、あの日だけ)で、現在は非常に無口である。特に私とは必要最低限のことしかしゃべらない。いや、必要なことすらしゃべらない。余程のことがあれば、母に言づける。昔から、仕事を家に持ち込まないタイプで、何らかの愚痴を聞いたこともないし、母の前でもそういったことは話さないそうだ。とてもクールな人である。

しかし、何年か前からテレビドラマにハマって、片っ端から録画して見ている。元々時代劇は好きでよく見ていたのだが、最近は高校生が見そうな学園ものから、深夜ドラマまで、ドラマというドラマをほとんど全て網羅している。無口であるからドラマは見ないというわけはないが、あまりにも父のキャラクターとかけ離れているから不思議なのだ。あんなにも無口で感情を表に出さない父が、学園もの、恋愛もののドラマを見て、何を感じているのだろうと。きゅんとしたりするものなのか。

…きゅん?父が?

どう思うのか訊いてみたいが、特に何も答えてくれないだろう。私が父との会話をほとんど諦めていることについては、やはり次回に持ち越そう。けんかしているわけではないので、そこはご安心を。ちなみに、父と私はAB型だ。

親子や家族を描いた2冊

著者
中島 らも
出版日

子どもがそのまんま大人になったような“変な”お父さんが4人登場します。どのお父さんも、子どもにとっては迷惑だったり、あまり良いお手本になるようなお父さんではありません。けれど、とても人間らしくて愛おしいのです。

「人の可愛げ」を描けば天下一品のらもさんらしい作品。自分の子にも、この本をあとがきごと読ませたいです。あとがき、染みます。

消滅世界 (河出文庫)

2018年07月05日
村田沙耶香
河出書房新社

「コンビニ人間」の村田沙耶香さんの作品はいくつか読みましたが、設定が衝撃的です。この本では、人口受精でしか子どもを産まなくなった世界で暮らす人々がでてきます。夫婦はあくまでも“家族”で恋愛はその他でするもの。二次元のキャラクターと本気で恋愛している人もいます。この世界ではそれが正常であり、清潔なのです。

物語の後半で描かれるのは、そんな世界のさらに先をゆく実験都市。親子、家族という概念がガラリと変わっています。子どもには読ませられませんが、血のつながりとは何なのだろうと考えてしまった作品です。

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