5分でわかる薩英戦争!原因と結果、海外の反応などをわかりやすく解説!

更新:2021.11.16

7つの海を支配していた大国イギリスと、極東の島国日本のさらに辺境の薩摩藩。両者の間でおこなわれた「薩英戦争」の結果は、誰も予想していない意外なものでした。この記事では、戦いの概要や原因、結果と影響、海外の反応などをわかりやすく解説していきます。あわせておすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。

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薩英戦争とは。概要を簡単に紹介

 

江戸時代末期の1863年8月15日から17日、薩摩藩とイギリスの間で「薩英戦争」と呼ばれる戦いがおこなわれました。

長州藩と、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合国が戦った「下関戦争」とともに、攘夷論を実行した代表的な戦争といわれています。

事の発端は、1862年9月に起きた「生麦事件」というもの。薩摩藩の最高指導者である島津久光の行列を邪魔する行為をしたイギリス人を、薩摩藩士が斬り付けました。

これを受けてイギリスは、7隻の艦隊を薩摩へと派遣。薩摩藩士の逮捕と処罰、さらには遺族への妻子養育料を要求しました。しかし薩摩藩はこの要求を拒否。戦闘が開始されることとなるのです。

当時のイギリスは、7つの海を支配し、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれるほど世界最強の大国です。一方の薩摩藩は、島国日本の辺境にあるひとつの藩に過ぎません。誰もがイギリスの圧倒的な勝利を予想していましたが、予想外の結果を迎えることとなります。

薩英戦争は、その後の薩摩藩とイギリスの関係だけでなく、日本史上においても大きな転換点となりました。

薩英戦争の原因となった「生麦事件」とは

 

先述したとおり薩英戦争の原因となったのは、「生麦事件」と呼ばれるものでした。詳しく説明していきます。

当時、薩摩藩主を務めていたのは、島津茂久という人物。茂久の父が島津久光で、国父として実権を掌握していました。久光は幕政の改革を目指し、数百人を引き連れて江戸を訪問。事件が起きたのはその帰り道です。現在の神奈川県横浜市にあたる武蔵国生麦村に差し掛かった時、たまたま観光で川崎大師を目指していた4人のイギリス人と出会います。

時代劇などで見かけたことがある方も多いと思いますが、いわゆる大名行列が道をとおる際は、周りの人は道を開け、ひざまずいて見送るのが日本のしきたりです。

しかしイギリス人の4人は大名行列について理解しておらず、通訳の人もいなかったため、あろうことか馬に乗ったまま通りを進み続けてしまったのです。

その結果、薩摩藩士が斬りかかり、1人が死亡、2人が重傷を負いました。

当時の日本は、「切り捨て御免」がまかり通る時代です。相手が日本人であれば問題はなかったかもしれません。しかし1858年に日本とイギリスの間で締結された「日英修好通商条約」で治外法権が認められていたため、外交上の大問題へと発展してしまいました。

イギリスの駐日公使代理であるジョン・ニールは、幕府に対して賠償金10万ポンド、薩摩藩に対して賠償金2万5000ポンドと犯人の引き渡し、イギリス軍人立会のもとで処刑することを求めました。

幕府は賠償金を支払ったものの、薩摩藩は、「日英修好通商条約」は幕府が勝手に結んだものとして要求を拒否します。

これを受けてイギリスも激怒。「薩英戦争」が始まるのです。

薩英戦争の結果と、その後の影響。賠償金はどうなった?

 

1963年8月11日、鹿児島湾にやって来たイギリス艦隊の目的は、武力行使ではなく、武力を背景に交渉に臨み、要求を通すことにありました。しかし交渉は決裂し、8月15日に薩摩藩が所有する蒸気船3隻を拿捕します。

これを盗賊行為とみなした薩摩藩は、イギリス艦隊への攻撃を開始するのです。

1858年まで藩主を務めていた島津斉彬(なりあきら)の時代から、いずれ西洋の列強と戦う日が来ることを予想し、西洋式の軍備を整えてきていた薩摩藩。当時の日本では類を見ない武力を有していました。

しかしイギリス側も、最新のアームストロング砲やコングリーヴ・ロケットと呼ばれるロケット弾を装備していて、薩摩藩の砲台は壊滅してしまいます。城下の1割以上が焼かれる損害を受けることとなりました。

一方のイギリスも、薩摩藩の攻撃によって大破1隻、中破2隻、旗艦の艦長や副長を含む死傷者63人という被害を出しています。

鹿児島城下が燃え上がったことから一見イギリスが勝ったかのように思えたものの、実際にはイギリスも上陸を断念し、撤退を余儀なくされたことから、結果は双方の痛み分けといったところです。

その後、両者は交渉を再開し、薩摩藩は幕府から2万5000ポンドを借りて賠償金を支払いました。ただ犯人の引き渡しについては、「逃走中」であるとして応じませんでした。ちなみに幕府に借りた2万5000ポンドは返済していません。

薩英戦争に対する海外の反応は?

 

当時世界最強と考えられていたイギリスが、敗北はしていないものの勝利ともいえない結果に終わったことは、世界各国に驚きをもたらしました。

アメリカのニューヨーク・タイムズ紙は「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ」とし、日本人は「勇敢」であり「降伏させるのは難しい」と評価したうえで、薩英戦争を「英国は日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」と総括しています。

またイギリスの議会や世論では、幕府から賠償金を得ていたにもかかわらず、重ねて薩摩藩に賠償金を要求した点や、鹿児島の城下町を焼き払って民間人を巻き込んだ点に問題があるとして、駐日公使代理のジョン・ニールやキューパー提督を批判する声もありました。

薩英戦争以降、イギリスは日本を手ごわい相手と認識することとなります。一方の日本も、イギリスの最新の軍事力を目の当たりにして、攘夷が不可能であると考えを改めざるを得ませんでした。

「昨日の敵は今日の友」という言葉がありますが、互いの力を認めあったイギリスと薩摩藩は急速に接近し、日本は明治維新へと向かっていくのです。

駐日外交官から見た日本

著者
萩原 延壽
出版日
2007-10-10

 

イギリスの外交官、アーネスト・サトウ。駐日公使館の通訳生として来日し、合計25年間もの時を過ごしています。本書は、そんなサトウの日記をまとめたもの。シリーズの2冊目は、薩英戦争について記しています。

幕末について語る際は、幕府側、もしくは薩摩藩・長州藩の目線に立つことが多いですが、実際にその場に居合わせて重要な役割を果たしてきた外交官の目を通して見ることで、これまでとは違った見方ができるのではないでしょうか。

サトウが日本に着任したのは1862年9月8日です。その直後の9月14日に、薩英戦争のきっかけとなる「生麦事件」が起きました。彼は戦争時も従軍し、鹿児島城下が燃えるところも目撃しているといいます。

緊迫の状況が臨場感あふれる描写で伝わってくる一冊。激動の日本でサトウが何を思ったのか、ぜひ読んでみてください。

人気シリーズ「逆説の日本史」で薩英戦争を学ぶ

著者
井沢 元彦
出版日
2017-04-06

 

小説家の井沢元彦が手掛ける「逆説の日本史」シリーズ。史料に「残されなかった」背景も重視し、従来とは異なる視点で歴史を考察していく作品です。

後に「薩長同盟」を組み、幕府を倒して明治維新を成し遂げる薩摩藩と長州藩。数ある日本の藩のなかで、両者だけが西洋の力を身をもって体験したという共通点がありました。

薩英戦争と下関戦争、薩摩藩と長州藩、攘夷派と開国派……さまざまな勢力がそれぞれの思惑で動き、時に連合して、時に反目していた幕末。関係が複雑でめまぐるしい時代ですが、日本史上で重要な出来事がたくさん起こった時代でもあります。

本書は月ごとにまとめたわかりやすい構成と、事実にもとづいた新しい視点が魅力。歴史を学ぶ楽しさも感じられるでしょう。

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