5分でわかる建武の新政!成立した経緯や、失敗した理由などを簡単に解説

更新:2021.11.17

武士による政権だった鎌倉幕府を倒し、天皇自らが政治をおこなうことを目指した「建武の新政」。しかし結局ほんの数年で崩壊してしまいます。この記事では、中心となった人物や成立の経緯、失敗した理由などをわかりやすく解説するとともに、おすすめの関連本も紹介していきます。ぜひチェックしてみてください。

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建武の新政とは。中心人物や政治体制など概要を簡単に紹介

 

鎌倉幕府が滅亡した後の1333年6月、後醍醐天皇が開始した、天皇が自ら政治を執りおこなう「親政」体制の政権と政策を「建武の新政」といいます。別名「建武の中興」とも呼ばれ、「建武」は政権成立の翌年である1334年に定められた元号、「中興」は1度途絶えたものを復興させるという意味の言葉です。

南北朝時代の軍記物語である『梅松論』によると、後醍醐天皇は自身の政治信条として「今の例は昔の新儀なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」と述べたそう。

「昔からの伝統も、はじまった時は新しいものだった。私が始める新しいことも、未来では伝統となるだろう」という意味が込められていて、この言葉のとおり、従来の政治体制であった摂政や関白、征夷大将軍を設置せず、天皇の元に政治権力を結集する革新的な政治を目指しました。

研究者によると、後醍醐天皇や、天皇とともに倒幕運動をおこなっていた楠木正成らは、武力による為政者を否定する「朱子学」の影響を受けていて、中国のような君主独裁制を目指していたのではないかと指摘されています。後醍醐天皇が定めた「建武」という元号は、中国にて光武帝が漢王朝を復興した際に用いられた元号と同じというところにも表れているでしょう。

建武の新政で後醍醐天皇は、政府の中枢である「八省」の長官を高位の貴族に兼任させ、彼らを通じて八省を統括する体制を築きました。さらに八省を含む中央官庁の最高機関として「記録所」を設置。楠木正成や名和長年(なわながとし)、伊賀兼光らの側近を配置します。

そのほか鎌倉幕府の倒幕に参加した者への論功行賞を処理するための「恩賞方」、所領関係を管轄する「雑訴決断所」、天皇の親衛隊である「武者所」などを設置。地方には東北を統治する「陸奥将軍府」、関東を統治する「鎌倉将軍府」などを設置し、後醍醐天皇の皇子たちを将軍とするなど統治体制を整えていきました。

建武の新政が成立した経緯を解説

 

鎌倉時代の末期になると、征夷大将軍はすでに力を失い、北条家の執事である長崎氏が権力を握っていました。

世の中は、1274年と1281年に起きた元寇以来、不安定な政局や飢饉が発生していたものの効果的な対策を打ち出せない幕府に失望し、赤松則村や楠木正成ら「悪党」と呼ばれる反抗勢力が全国で跋扈。幕府は徐々に武士層に対する求心力を失っていきました。

また朝廷では、「大覚寺統」と「持明院統」と呼ばれる2つの皇室の系統が対立。交互に皇位を継承する「両統迭立(りょうとうてつりつ)」という状態になっていました。

1318年に即位した後醍醐天皇は、「大覚寺統」の傍流。父・後宇多天皇の次男です。しかしこの即位は、亡くなった兄の後二条天皇の息子である邦良親王が成人するまでの、いわば繋ぎとして位置付けられていました。

後醍醐天皇は、自分の子孫への皇位継承の道を断たれたことに対して不満を抱き、それが父である後宇多天皇の意志を承認した鎌倉幕府への反感に繋がっていったとされています。

皇位継承を巡り、「持明院統」だけでなく血縁である「大覚寺統」とも対立を深めていった後醍醐天皇。自らが理想とする平安時代におこなわれていた親政を目指し、子孫に皇位を引き継がせるために両派の排除とその支持派である鎌倉幕府を滅ぼすことを目指したのです。

倒幕計画は2度失敗しますが、3度目にして実現。護良親王や楠木正成、赤松則村、名和長年、足利尊氏、新田義貞らの活躍により、最後の執権だった北条高時らを滅ぼし、鎌倉幕府を滅亡させることに成功しました。

建武の新政が失敗した理由は?

 

天皇を中心とする政治を目指した後醍醐天皇でしたが、その改革は性急に過ぎるものでした。武士にとってもっとも重要な所領を巡る訴訟にうまく対処できなかったことなどから、急速に支持を失っていくことになるのです。

倒幕において多大な功績をあげた武士たちのなかでも、論功行賞は不公平なものとなっていたそう。たとえば足利尊氏や新田義貞、楠木正成らが十分な恩賞を与えられた一方で、赤松則村などは播磨守護職を没収されてしまっています。

さらに、地方の実情や慣例を無視した判決が乱発されたことにより、同じ土地に何人もの領主が生まれ、裁判をやり直さざるを得なくなるなどの事態となり、朝廷の権威は失墜していきました。

「此の頃都に流行る物、夜討・強盗・謀(にせ)綸旨」の書き出しで知られ、落書の最高傑作ともいわれる「二条河原の落書」には、88節にわたって当時の政治や社会に対する痛烈な批判が書き連ねられています。

また1335年7月には、北条高時の遺児である北条時行が信濃国で挙兵。鎌倉を占領する「中先代の乱」が勃発しました。後醍醐天皇はこの討伐を巡り、自らを征夷大将軍に任じてほしいという足利尊氏の要求を退け、息子である成良親王を征夷大将軍に任じます。

これに不満を抱いた足利尊氏は、天皇の許しを得ないまま軍勢を率いて鎌倉に向かいました。そして時行軍を駆逐した後、後醍醐天皇の帰京命令を拒否して鎌倉に居座り、建武の新政から離反してしまうのです。

12月には、後醍醐天皇の命で足利尊氏討伐に向かった新田義貞軍を「箱根・竹の下の戦い」で撃破、1336年1月に足利軍は入京を果たしました。

足利軍はその後、1度は北畠顕家や新田義貞らに敗れて九州に逃れますが、5月には「湊川の戦い」で楠木正成を破り、再度入京。そして「持明院統」の光明天皇を即位させるのです。

後醍醐天皇は京都を逃れて吉野に入りますが、自らが正統な天皇であると宣言。こうして建武の新政は2年半で崩壊し、吉野の朝廷と京都の朝廷が対立する南北朝時代へと突入することになります。

建武の新政後はどうなった?足利尊氏が「建武式目」を制定

 

「湊川の戦い」で後醍醐天皇に使える新田義貞らの軍勢を破った足利尊氏は、1338年に光明天皇より征夷大将軍に任じられ、武家政権である室町幕府を成立させました。

それに先だって、足利尊氏は2項17条からなる「建武式目(けんむしきもく)」を制定。これは鎌倉幕府が制定した武家の基本法ともされる「御成敗式目」に対し、武家政権の施政方針を示すものとされ、合わせて「貞建の式条」と呼ばれています。

「建武式目」を作成する中心となった人物は、足利尊氏が政務を任せていた弟の足利直義や、鎌倉幕府の奉公人だった二階堂道昭・真恵の兄弟、藤原藤範、僧侶で儒学者の玄恵ら。第1項では「政道の良し悪しは場所の良し悪しではなく、為政者の良し悪しによるものである」と記し、鎌倉時代初期の施政を理想として、室町幕府が鎌倉幕府の正統な後継者であることを示しています。

また第2項では「政道の理想は万人の愁いを休めることこそもっとも重要である」とし、理想を求めすぎて、かえって混乱を広めてしまった建武の新政に対する足利尊氏なりの反省が込められているのではないかと専門家は指摘しています。

武闘派親王の生涯を描いた一冊

著者
亀田俊和
出版日
2017-04-10

 

後醍醐天皇の皇子であり、天台宗総本山の座主だった護良親王は、武芸を好み日ごろから鍛錬を積む、皇族としても天台座主としても異例の人物でした。

後醍醐天皇が倒幕運動を起こすと、還俗してこれに参戦。赤松則村や村上義光とともに、2年にわたって幕府軍と戦い続けます。

建武の新政では征夷大将軍に任じられましたが、徐々に父である後醍醐天皇や足利尊氏らと対立するようになり、皇位簒奪を企てたとして捕えられ、鎌倉に幽閉。北条時行が挙兵し「中先代の乱」が起こると、鎌倉を預かる足利直義の命によって殺害されてしまうのです。

本書は、そんな護良親王の生涯を追い、その行動を考察していく作品。倒幕の功労者でありながら、悲劇的な最期を迎えた護良親王。楠木正成と並んで、南北朝時代を語るうえでは欠かせない人物でしょう。

建武の新政で活躍した若き天才の物語

著者
北方 謙三
出版日

 

建武の新政において、16歳の若さにして陸奥守に任じられた北畠顕家の生涯を描いた作品です。

足利尊氏や新田義貞、楠木正成などに比べて、知名度は高いとはいえません。しかし後醍醐天皇の意を受けて東北を制圧し、政治機構を整え、民心を掌握するなど素晴らしい手腕を発揮していて、南北朝時代のスーパーヒーローたちにも劣らない魅力あふれる人物なのです。

後醍醐天皇との対立のすえに建武の新政から足利尊氏が離反すると、北畠顕家は東北から疾風のように京都に駆け付け、これを敗走させます。勢力を盛り返した尊氏が京都を制圧した後も、吉野に逃れた後醍醐天皇のもとで、南朝方の中心的な武将として戦い続けました。

21歳の若さで命を落としますが、短いながらも強烈な光を放ったその生涯は多くの歴史ファンの心を熱くさせています。

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