5分でわかる太閤検地!時代や目的、方法、意義などをわかりやすく解説!

更新:2021.11.18

天下人となった豊臣秀吉が全国で実施した「太閤検地」。いったいどういう政策だったのでしょうか。この記事では、検地がおこなわれる以前の荘園制度、検地の目的や具体的な方法、意義などをわかりやすく解説していきます。あわせておすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。

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太閤検地とは。いつ誰がおこなったのか、概要を簡単に解説

 

豊臣秀吉が日本全国でおこなった大規模な土地に関する調査「太閤検地」。「天正の石直し」「文禄の検地」とも呼ばれています。

「太閤」とは、摂政または関白の位を子孫に譲って退いた者のこと。秀吉は、甥の秀次を養子にして関白の職を譲った後に、太閤と呼ばれるようになりました。現代では秀吉の代名詞にもなっています。

「検地」とは、田畑の面積や収穫量を調査すること。これによって権利関係を調整し、年貢や軍役の量を定めることができました。

検地は大名が乱立していった戦国時代、北条早雲によって初めて実施されます。秀吉も、織田信長に仕えていた際に携わり、その重要性を理解していたそうです。1582年に、信長を裏切った明智光秀に「山崎の戦い」で勝利をすると、太閤検地を本格化させていきました。

ちなみに秀吉が太閤になったのは1591年のことですが、これ以前に実施されたものも太閤検地と呼んでいます。

太閤検地以前の制度「荘園」とは

 

太閤検地がおこなわれる以前の土地制度は、「荘園公領制」と呼ばれるものです。平安時代に成立したもので、貴族や寺社が所有する「荘園」と呼ばれる私有地と、国司が管轄する「公領」の2種を基盤に土地を支配していました。

荘園公領制はその後、鎌倉時代や室町時代に発展していきましたが、守護や地頭がしだいに介入するようになり、武士の台頭によって権利関係が複雑化。戦国時代になると、ひとつの土地に複数の所有者が存在するケースも発生します。

太閤検地は、この複雑な関係を整理し、基本的にはひとつの土地にひとりの耕作者を定めることにしました。

太閤検地の目的は?検知との違いも解説

 

豊臣秀吉がおこなった主な政策として挙げられる、太閤検地と刀狩り、身分統制令。これらはいずれも、「農民による反乱を防止する」という同じ目的のために実施されました。

太閤検地は土地の権利関係を整理し、誰がどの田畑を耕して、どれだけの年貢を納めるかを定めるものです。これによって、土地をめぐる紛争が起こるのを防止し、農民が安心して働けるようになります。

検地自体は秀吉以前にもおこなわれていましたが、戦国時代は農村側の自己申告にもとづく「差出検地」が一般的でした。そのため多くの誤魔化しが生じていたのです。

その一方で太閤検地では、役人が各地に派遣され、田畑を実際に計測する「丈量検知」がおこなわれています。さらに秀吉は、役人たちに対して、地方の武士や農民に検地をしなければならない理由をしっかり説明するよう命じていました。また厳密な検地を実施するため、従わない者がいた場合には皆殺しにするよう厳命していたそうです。

ちなみに刀狩りは、1588年に実施されたもの。方広寺に大仏をつくることを名目に、全国から刀や槍、鉄砲などの武器を集めた法令です。農民の武装を解除させ、一揆を防ぐのが目的でした。また秀吉は、同時期に「喧嘩停止令」も発令して村の紛争解決に武器を用いることを禁止しています。

身分統制令は、1591年に発令されたもの。武家奉公人が農民や商人になること、農民が耕地を放棄して商人や武士になること、逃亡した武家奉公人を他家が召し抱えることなどを禁じています。

まとめると、秀吉は太閤検地や身分統制令によってもめ事の種をあらかじめ把握し、刀狩りによって紛争が起こった場合は武力ではなく裁判を利用するよう方向付けていったのです。

これらの政策には、国家権力が信頼性を失っていた戦国乱世が終わり、平和な時代が訪れ、国家による統治が回復することを示す意味合いがありました。

太閤検地の具体的な方法

 

秀吉がおこなった太閤検地の具体的な方法を解説していきます。

まず対象となる土地の四隅に「細見竹」と呼ばれる竹の棒を立て、長さを計る「間竿」や「尺杖」という物差しを用いて面積を計算します。そして単位面積当たりの収穫高にもとづいて、田畑を上・中・下・下々の4段階に等級分けしました。

測量が終わると、検地帳を作成します。耕地面積、収穫高、耕作者名を記し、検地帳のデータにもとづいて年貢を決定していったのです。

しかしこれらを計算するうえで問題になったのが、重さや面積、量などの単位が統一されていなかったこと。各地の戦国大名がそれぞれの単位を用いていたため、同じ「一升」でもその量がバラバラでした。

そこで秀吉は、単位を全国統一することに。1尺が30.3cm、1間が6尺3寸、1歩が1間四方、1畝が30歩、1反が10畝、1町が10反とし、枡は京枡を使うよう定めました。

太閤検地の意義を考察!石高制や兵農分離など

 

太閤検地を実施したことにより、「石高制の確立」「一地一作人原則の確立」「兵農分離」が達成されました。

太閤検地がおこなわれるまでは、土地の収穫高を通貨単位で示すのが一般的でした。これを「貫高制」といいます。しかし貫高制は、土地の大まかな面積によって算出されていたため、実際の収穫高との間に乖離がありました。

太閤検地によって性格な収穫高を計算できるようになり、単位も統一したため、土地の収穫量=「石高」を基準とした石高制が確立していったのです。

そして先述したとおり、従来の荘園公領制のもとで複雑に入り組んでいた権利関係を整理したことで、誰がどの田畑を耕し、どれだけの年貢を納めるのかが簡単に把握できるようになりました。

また、武士と農民を完全に分けたことで、戦争や政治は武士が担い、農業生産は農民が担うという役割分担が明確になります。戦国時代はこの境界があいまいで、ひとたび戦争が起こると、農民も足軽として動員されていました。農繁期に戦争が起こった場合は、農業生産に大きな痛手を与えていたのです。

秀吉のこれらの政策は江戸幕府にも引き継がれ、250年以上続く平和な時代の礎となりました。

経済から歴史を読み解く一冊

著者
上念 司
出版日
2018-03-20

 

日本の歴史教育の問題点として、「日本史」と「世界史」を分けて教えていることが挙げられます。豊臣秀吉が天下を獲ったのは、まさに大航海時代のまっただ中。日本が世界と密接に関わりはじめた時でした。

秀吉は、日本に持ち込まれたキリスト教徒による人身売買の実情を知り、バテレン追放令を発するなど、キリスト教の脅威に備えようとしています。

本書は、明智光秀を討った後に真っ先に取り組んだ太閤検地や刀狩りなど、秀吉の一連の政策を経済や国防という観点から読み解く作品です。経済の知識がなくても問題ありません。切り口を変えることで、歴史の流れをより深く理解できるでしょう。

豊臣秀吉の人生と、太閤検地などの政策を漫画で読む

著者
出版日
2017-10-26

 

日本史上の偉人を取り扱う「まんが人物伝」シリーズ。本書では、農民の子に生まれ、太閤にまで上り詰めた秀吉の人生を扱っています。

織田信長に仕え、その才覚で次々に難題を解決していった秀吉。信長が本能寺の変で倒れると、謀反人である明智光秀を討って天下人へと駆け上がるさまは痛快ともいえます。

そして、太閤検地や刀狩り、身分統制令などの政策は、彼自身が農民出身だからこそ実行できたものだといえるでしょう。農民の目線に立ち、戦国の世を終わらせる礎となりました。

登場人物の動きがイメージしやすい漫画なので、歴史に興味があるけど活字が苦手な方や、子どもにもおすすめの一冊です。

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