5分でわかる普仏戦争!開戦理由やパリ・コミューンなどをわかりやすく解説!

更新:2021.11.19

日本人が初めて目の当たりにしたヨーロッパの戦争が「普仏戦争」です。その後の日本の軍制にも大きな影響を与えました。この記事では開戦理由や、戦いの流れと結果、パリ・コミューンなどをわかりやすく解説していきます。あわせてもっと理解が深まる関連本も紹介するので、ご覧ください。

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「普仏戦争」とは?開戦理由と背景を解説!

 

フランス帝国とプロイセン王国の間で起こった戦いを「普仏戦争」といいます。1870年7月から1871年5月まで、およそ10ヶ月間続きました。

欧米では近代戦争から現代戦争への転換点として認識されていて、後の世界大戦に繋がることから重要視されています。

日本ではかつてフランス式の軍制を取り入れていましたが、1860年代後半の明治維新以降はプロイセン式の軍制へ変更することも検討されていました。そのような時期に起こった普仏戦争に政府も大きな感心を寄せ、数人の役人を観戦武官として派遣し、プロイセン軍に従軍させています。このような事情から、普仏戦争は「日本人が初めて目にしたヨーロッパ列強同士の戦争」ともいわれているのです。

普仏戦争が開戦した背景には、プロイセンが抱くドイツ統一の野望がありました。1866年に起きた「普墺戦争」でオーストリアに勝利したプロイセンは、オーストリアが率いていた「ドイツ連邦」を解体し、北ドイツ連邦を結成します。

しかしドイツを統一するためには、普墺戦争でオーストリア側についたドイツ南部のバーデン大公国、ヴュルテンベルク王国、バイエルン王国と合併することが必要でした。そのためプロイセンは、「ドイツにとって共通の敵」を想定しようとしたのです。

1868年にスペインで革命が起こり、女王イサベル2世がフランスに亡命すると、プロイセンの王族に連なるホーエンツォレルン家のレオポルトが新たな国王の候補になります。

しかしレオポルトがスペイン国王になると、フランスはプロイセン勢力に地理的に挟まれることになってしまいます。フランスは激しく反対し、折衝の結果、レオポルトは国王即位を辞退。しかしフランスはこれだけでは飽き足らず、プロイセン王のヴィルヘルム1世に対し、未来永劫ホーエンツォレルン家から王位候補者を出さないよう要求したのです。

その結果、1870年に「エムス電報事件」が発生します。これは、フランスの非礼を受けて、プロイセンの首相ビスマルクが意図的に内容を刺激的なものに改ざんし、フランス革命記念日である7月14日に国内外に向けて発表した事件のこと。ヴィルヘルム1世が静養をしていたエムスから送信されたため、このように呼ばれています。

ドイツ各地でフランスに対する不満が生じ、またフランスでは自国の要求を断ったプロイセンに対する不満が巻き起こりました。

フランス上院は満場一致で、下院は245対10の大差で開戦を決議。プロイセンに対して宣戦布告をし、普仏戦争が開戦したのです。

この時フランスが宣戦布告をしたのはプロイセンだけでしたが、ビスマルクの目論見通り、バーデン大公国、ヴュルテンベルク王国、バイエルン王国はフランスを「ドイツ共通の敵」とみなし、プロイセン側に立って参戦することになります。

 

「普仏戦争」の流れを簡単に解説。騎兵部隊が活躍!

 

先述した「エムス電報事件」からフランスの宣戦布告まで、実はわずか5日間しか経っていません。フランスがこれほど早期開戦にこだわったのには、理由があります。

当時のフランス軍は、「常備兵」で構成されていました。常備兵は素早く動員できるというメリットがある一方で、数が少ないというデメリットがあります。

対してプロイセン軍は、「徴兵制」で構成されていました。兵役は男子全員の義務だったため、数が多いというメリットがあります。その一方で、動員に時間がかかるのがデメリットでした。

フランスは、プロイセンが動員を完了する前に開戦する必要があったのです。フランスが動員したのは約20万。そのなかにはクリミア戦争やメキシコ出兵などを経験した猛者たちも含まれていました。

早期開戦をしたおかげで、普仏戦争は当初フランス優位に進みます。しかしプロイセンは、わずか18日間で38万人もの大軍を動員し、反撃を開始しました。

プロイセンには当時ヨーロッパで唯一の「参謀本部」があり、普墺戦争の直後から参謀総長のもとで準備を重ねていました。たとえば軍の機動力を大きく左右する兵士輸送の鉄道は、フランスの1本に対してプロイセンは6本も有していたのです。

戦闘に用いる武器は銃と野戦砲が主役でしたが、射程距離や連射性能はまだ低く、騎兵部隊による攻撃も有効でした。プロイセンは鉄道による効率的な輸送と、参謀本部の緻密な指導で、勝利を積み重ねていきます。

またフランスは、オーストリアやロシアなど周辺諸国の介入を期待していましたが、ビスマルクの外交手腕が発揮され、それらの国が普仏戦争に関わることはありませんでした。

開戦から1ヶ月半後の9月2日、フランス皇帝のナポレオン3世は約10万人の兵士とともに降伏、捕虜となります。パリの人々は激怒して、9月4日にクーデターが起き、フランス第二帝政は崩壊。国防政府が樹立しました。

ビスマルクは「帝政が打倒された以上、前皇帝が始めた戦争を新政府が継続する必要はない」と休戦を提案しましたが、国防政府はこれを拒否し、新政府としてあらためて宣戦布告。しかしすでにフランス軍の大半が降伏していて、パリに籠城した残存兵をプロイセン軍が包囲します。

包囲戦は1870年9月から翌年の1月まで続き、1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿にて「ドイツ帝国」の成立が宣言されました。

 

「普仏戦争」の結果

 

1871年5月10日に締結された「フランクフルト講和条約」によって、普仏戦争は終結しました。フランスは豊かな鉱物資源を有するアルザス=ロレーヌ地方をドイツに割譲したうえ、50億フランという高額な賠償金の支払いを義務付けられることになります。

普仏戦争によってプロイセンはドイツを統一し、ドイツ帝国の樹立に成功しました。これ以降、ドイツ帝国は宰相ビスマルクのもとで、ロシア、オーストリアと「三帝同盟」を結び、外交的にフランスを孤立化させる方針を採ってヨーロッパの覇権をとるために躍進することとなります。

一方で敗れたフランスは、アルザスを「失われた州」と呼び、奪還することを悲願としました。これが第一次世界大戦を招く要因のひとつになるのです。

普仏戦争の結果を受けて、日本は軍制をフランス式からプロイセン式に改め、参謀本部、国民皆兵制などの整備を始めました。1885年にはプロイセン陸軍のメッケル参謀少佐を陸軍大学校教授として招聘。大山巌をはじめ、彼のもとで学んだ人々の力によって日清戦争、日露戦争を勝ち抜いていくことになります。

 

「普仏戦争」後のフランス。「パリ・コミューン」とは?

 

普仏戦争後のパリでは、プロイセンとの和平交渉に反対する左翼系の人々が市庁舎を占拠。1871年3月に、自治政府である「パリ・コミューン」の樹立を宣言します。パリ・コミューンは、史上初のプロレタリア―ト独裁にもとづく自治政府でした。

同様の組織は、パリだけではなく、マルセイユやリヨンなど7つの地方都市で宣言されます。しかしいずれも短期間で制圧。パリ・コミューンも、政府軍によってわずか2ヶ月で鎮圧されてしまいました。

しかしこの短期間のうちに、パリ・コミューンは、政教分離、無償の義務教育制度、女性参政権、集会・結社・言論・信教の自由、常備軍廃止、生活保護などさまざまな施策を打ち出したのです。これらの政策はマルクスやレーニンに引き継がれ、後の社会主義や共産主義にも大きな影響を与えることとなります。

 

知っておきたいプロイセンの歴史

著者
セバスチァン ハフナー
出版日

 

明治維新を成し遂げ、欧米列強に追いつこうと近代化を急ぐ日本にとって、普仏戦争で強国フランスに鮮やかに勝利したプロイセンは、「半歩先を行く先達」となる存在でした。

君主国のひとつに過ぎないプロイセンがドイツの統一を成し遂げ、ヨーロッパの新興国として既存の秩序に挑戦し続ける姿は、良くも悪くも誇張された伝説に彩られています。

本書は、プロイセン地方にドイツ人が植民を始めた13世紀頃から、普墺戦争と普仏戦争を経て、第二次世界大戦後にプロイセンが解体されるまでの歴史をまとめたもの。その文体からは、できるだけ伝説を省き、プロイセンの実像に迫ろうと試みる意図が感じられるでしょう。

普仏戦争をはじめプロイセンの歴史は日本人にはあまり馴染みがありませんが、世界に与えた影響は小さくありません。読んで損はない一冊です。

 

普仏戦争から考える「リーダーの在り方」とは?

著者
渡部 昇一
出版日
2009-07-28

 

普仏戦争に勝利し、ドイツ統一を成し遂げたプロイセン。その強みは、宰相ビスマルクと参謀総長モルトケという類まれな資質をもつリーダーと、彼らが作りあげた官僚集団の存在でした。

普仏戦争当時、世界の列強のなかでプロイセン軍だけが有していた「参謀本部」。本書は、軍がいかにして組織を動かしていったのかという点を中心に、その栄光をまとめています。

文民統制の在り方や、組織を束ねるリーダーシップを学ぶための貴重な教訓に満ちた一冊です。

 

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