5分でわかる韓国併合。経緯、日本と韓国の主張などをわかりやすく解説

更新:2021.11.19

ニュースでもたびたび話題になる日韓関係。その根底にあるのが、日本が韓国を統治していた「韓国併合」という出来事です。この記事では、併合までの経緯、日本と韓国の主張、当時の韓国国内の様子などをわかりやすく解説していきます。また理解を深めることができるおすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。

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韓国併合までの経緯

 

1910年8月29日、大日本帝国が大韓帝国を併合し、統治下に置きました。以降、日本が太平洋戦争に敗れ、朝鮮総督府が1945年9月9日に降伏文書に調印するまでの約35年間にわたり、朝鮮半島は日本の支配下にあったのです。これを「韓国併合」、または「日韓併合」「朝鮮併合」といいます。

まず当時の状況を順番に振り返ってみましょう。

朝鮮は、1392年に建国されてからずっと、中国の冊封体制にありました。しかし1875年に日本と朝鮮の間で「江華島事件」という武力衝突が起こり、解決のために「日朝修好条規」が締結されます。日本は朝鮮を「独立国」として扱い、開国させるのです。これによって、朝鮮を属国とみなしていた中国の清と日本の間に対立が生まれました。

開国をした朝鮮は、欧米を排斥して鎖国を維持したい興宣大院君派(こうせんだいいんくん)と、日本にならって近代化をはかりたい開化派、清への臣属を主張する閔氏一族派という3つの派閥による政争が起こります。

その後1894年に「日清戦争」が起こり、その結果日本は清との間に「下関条約」を締結。朝鮮を独立国として認めさせることになりました。朝鮮国内では開化派が政権を掌握し、甲午改革と呼ばれる近代化が推進されます。しかしロシアと接近した国王の高宗によって、開化派が処刑。改革は頓挫してしまうのです。

高宗は1897年に皇帝に即位し、国号を朝鮮から「大韓」へと改め、ロシアを後ろ盾とする国造りに取り組みました。1898年には日本とロシアが「西・ローゼン協定」を締結し、両国は朝鮮への干渉を控えることが決定。これによって、高宗の専制体制が整ったのです。

1904年に「日露戦争」が起こると、高宗はロシア皇帝に使者を送って協力を約束。しかし韓国国民の多くはロシアの排除と日本の勝利を望んでいたそうで、政府と国民の間にねじれが生じます。

「日露戦争」にロシアが敗戦すると、後ろ盾を失った高宗は韓国皇室の利益保全のために、1905年に「第二次日韓協約」を締結。韓国は皇室の保全と引き換えに外交権を喪失し、事実上の日本の保護国となったのです。軍の指揮権をもつ統監府が設置され、伊藤博文が初代統監に就任しました。

その後高宗は、外交権の回復を図って、オランダで開催された「万国平和会議」に密使を送りますが、平和会議への参加資格を有していなかったため、いずれの国からも接触を拒否されて失敗に終わりました。これを「ハーグ密使事件」といいます。

この企みが露見すると、これまで高宗に融和的だった伊藤博文への批判が日本国内で巻き起こりました。伊藤博文も高宗を「陰険」だと批判し、高宗は退位することになるのです。新しい皇帝には純宗が即位しました。

その後日本は、韓国と「第三次日韓協約」を締結。これによって韓国は内政権を失い、軍も解体することになります。日本国内では「韓国を併合すべし」という強い世論が起こり、1909年に桂太郎内閣は「適当の時期に韓国併合を断行する方針」を閣議決定しました。

その直後、韓国併合に否定的だった伊藤博文が暗殺されると、韓国の開化派が設立した民間政治結社が「韓日合邦を要求する声明書」を上奏。日本と対等な立場で合併することを求めました。しかし当時の情勢や国力を考えて、対等合併はありえないと日本が拒否。

そうして1910年6月に「併合後の韓国に対する施政方針」が閣議決定され、8月22日に寺内正毅統監と李完用首相によって「韓国併合に関する条約」が締結。韓国は、日本に併合されることになったのです。

韓国併合の合法性に関する日本の主張

 

日本側の主張は「韓国併合に関する条約の締結自体合法であった」としつつ、1965年の「日韓基本条約」第2条において「もはや無効であることが確認されている」というものです。

国際法の視点で見ても、イギリスにあるケンブリッジ大学の国際法学者クロフォードが「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあった事で、韓国併合条約は国際法上は不法なものではなかった」としているとおり、合法だったと考えられています。

当時の朝鮮は、高宗による専制体制のもとで近代化政策が推進されていましたが、失敗。この頃の朝鮮を旅したイギリスの作家イザベラ・バードは、著書『朝鮮紀行』のなかで、「朝鮮には階層が2つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる」と述べています。それほど朝鮮国内は統治能力を失っていたのです。

さらに、「日露戦争」で日本が勝利をし、ロシアの南下政策を食い止めることはできたものの、戦争の原因となった朝鮮の統治能力不足による不安定さは国際社会で問題視されるようになりました。

イギリスのジョーダン駐韓公使およびマクドナルド駐日公使は、「韓国の政治家には統治能力がなく、このまま独立国として維持することは困難である」とし、「韓国は日本に支配されることが、韓国人自身のためになる」と報告。バルフォア首相もこれを了承し、「第二次日英同盟」で日本の韓国支配を承認するのです。

また日本とアメリカは、1905年に「桂・タフト協定」を締結し、日本がアメリカのフィリピン支配を承認する代わりに、アメリカも日本が韓国を支配することを承認しています。

ロシアは「日露戦争」の講和条約である「ポーツマス条約」で、韓国に対する日本の優越感を認め、フランスもまた1907年の「日仏協約」によって承認しました。

このように韓国併合は、韓国自身の統治能力欠如に起因し、また国際社会による承認を得たものであり、その合法性に問題はないというのが日本の主張になります。

韓国側から見た韓国併合の解釈

 

韓国併合に対する韓国側の解釈は、「合法であったが今は無効になっている」と考える日本とは異なり、「そもそも不法なものであり、無効なものだった」というものです。

その根拠になっているのが、「日韓合併は強制されたもの」だという考え。しかし、国際法上「強制性」が不法になるのは「第一次世界大戦」以降のことで、1910年当時は関係がありません。ただ韓国では、「恨の文化」や「国民情緒法」という言葉が象徴するように、法よりも感情が優先されることがままあります。

韓国にとって、韓国併合が合法か否か、さらには韓国併合が韓国に利益をもたらしたか否かはさほど重要ではなく、問題なのは「外国に支配された」という事実で、しかもその相手が冊封体制下において宗主国と仰いできた中国だったならばまだしも、格下と見なしてきた日本であったことが一大事なのです。

韓国はこれまで、「韓国併合の目的は朝鮮半島の富の収奪だった」「朝鮮の民衆は併合に反対していた」「朝鮮は植民地化によってあらゆる搾取を受けた」など、歴史的根拠に欠ける主張や、事実に反する主張を数多くしています。そのなかでも従軍慰安婦や徴用工は、現代にまで根強く続く問題です。

もちろん、なかには韓国併合を肯定的に評価する人もいますが、そのような意見はなかなか受け入れられないのが現実。2005年には「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」という、親日派の子孫から財産を没収する法律も制定されました。

このような状況の韓国に対し、「合法性」や「韓国が享受したメリット」を日本が主張し続けても、摩擦を生むばかりで溝は埋まりません。お互いの根底にある考え方を今一度理解し、話しあいをすることが大切でしょう。

韓国併合における、日本統治時代の朝鮮。政治、経済、文化など

 

日本統治下の朝鮮を訪れた駐日アメリカ大使の妻イザベルの手記には、「寺内総督統治の下、韓国に多くの発展があった」と記されています。その内容は、「政府は再編成され、裁判所が確立され、法が見直され、景気が良くなり、交易が増えた。農業試験場が開設されて農業が奨励され、内陸から海岸まで鉄道が敷かれ、港が浚渫されて灯台が建立された」とのこと。近代化していく韓国の様子がうかがえるでしょう。

韓国併合の後、朝鮮全土を統治する朝鮮総督府が設置され、韓国の皇族は大日本帝国の皇族に準じる王公族に、韓国併合に貢献した朝鮮人は朝鮮貴族となりました。

朝鮮総督には、現役または予備役の陸海軍大将が勅任され、終戦までに9人の総督が任命されています。総督府には、政務総監、総督官房、そして総務、内務、度支、農商工、司法という5部が設置され、中枢院、警務総監部、裁判所、鉄道局、専売局、地方行政機構を統括しました。

1910年の併合に先駆けて日本が取り組んでいたのが、「身分解放政策」です。李氏朝鮮時代には姓をもつことを許されていなかった奴婢や白丁という身分の人々にも名前を与え、戸籍に登録。

さらに日本に準じた学校教育制度を整備し、1943年までに約4200の小学校を建設しています。これらの学校には、李氏朝鮮時代の身分に関わりなく誰でも通うことができました。教育には基本的に日本語が用いられていましたが、必修科目にハングルを入れるなど、元来の文化にも配慮しています。

韓国では「日本の植民地にされ、収奪された」という考えが一般的ですが、実際には、日本は韓国を「日本の一部」と考え、日本同様の経済水準に引き上げることを目指していたそう。毎年国家予算の10%という多額の資金を投じていました。

それによって、道路や鉄道、上下水道、電気、病院、学校、工場などの近代的なインフラや建物が整備され、韓国は経済的に発展。伝染病の予防や出生率の増加、識字率の上昇という結果も出ています。

また、寒冷地でも育てることができるように稲の品種改良もおこなわれ、食糧生産が増加。人口は1906年の1600万人から1940年の2400万人へと増加し、平均寿命も併合時の24歳から1942年には45歳になっています。

その一方で、朝鮮総督府は憲兵と普通警察を一体化した「憲兵警察制度」を採用し、韓国全土に日本軍や警察を配置。独立を求める運動や日本支配への抵抗活動に対しては、厳しい取り締まりをしていました。

まず読んでおきたい一冊

著者
呉 善花
出版日
2012-07-20

 

作者の呉善花は、済州島出身。日本在住経験のある母親や地元の長老たちから聞く話と、学校の反日教育の違いに疑念を抱き、日本の大学に留学。1988年に日本に帰化しています。

本作は、2000年に刊行され日韓両国でベストセラーとなった『韓国併合への道』に、「日本の統治は悪だったのか?」「反日政策と従軍慰安婦」という2つの章を加えた完全版です。

膨大なデータや資料を駆使し、日本統治時代の本当の様子を明らかにしようと試みています。実際には何がおこなわれていて、どのようなことが歴史のなかで歪められてきたのか。韓国併合を考える際は読んでおきたい一冊です。

韓国併合を写真で見る

著者
水間 政憲
出版日
2013-02-01

 

本書は、日本の韓国併合時代に撮影された写真をまとめた、ビジュアル解説本です。テーマは「論より証拠」だそう。

政治家や学者による議論よりも、実際に当時の写真を見て、人々の表情を知ることがもっとも事実に近づけると作者は主張しています。そこから伝わってくるのは、いわゆる植民地支配とは異なり、韓国人の生活を資するものだったということ。

写真だけでなく地図などの史料も豊富に挿入されているので、長い文章を読むのに抵抗がある人にもおすすめです。

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