5分でわかるオランダ独立戦争!背景、経緯、結果と影響をわかりやすく解説!

更新:2021.11.20

江戸時代から400年以上におよぶ通商関係をもち、日本にとって馴染み深い国であるオランダ。水の都と呼ばれ、風車やチューリップでも有名です。この記事では、そんなオランダが独立を果たした「オランダ独立戦争」についてご紹介。背景、経緯、結果と影響などをわかりやすく解説していきます。

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「オランダ独立戦争」とは。概要を簡単に解説

 

1568年から1648年まで、現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクに相当するネーデルラントの17州が、スペインに対して起こした反乱を「オランダ独立戦争」といいます。17州のうち北部の7州が「ネーデルラント連邦共和国」として独立し、現在のオランダの原型となりました。

途中12年の休戦を挟みつつも、80年間という非常に長い期間戦いが続いたため、「八十年戦争」とも呼ばれています。

「オランダ独立戦争」は、独立だけでなく、プロテスタントとカトリックの対立という宗教戦争、スペインやポルトガルがもっている貿易利権を巡る経済戦争としての側面も有していました。また鉄砲などの火器が本格的に用いられ、戦いの様相を一変させています。

「オランダ独立戦争」はなぜ起きた?背景を解説

 

ブルゴーニュ領ネーデルラントとして、ブルゴーニュ公国の一部だったネーデルラント地域。毛織物の生産が盛んで、アントワープなどの経済都市が生まれていました。

1477年、ブルゴーニュ公シャルルがフランスとの戦いで戦死すると、ひとり娘のマリー・ド・ブルゴーニュは後に神聖ローマ帝国の皇帝となるハプスブルク家のマクシミリアン1世と結婚。これによってネーデルラントは、ハプスブルク家の領地となります。

その後彼らの孫である神聖ローマ帝国皇帝カール5世は「太陽の沈まない国」と呼ばれる世界帝国を築きましたが、痛風に苦しみ退位。ハプスブルク家はオーストリア系とスペイン系に分裂し、ネーデルラントはスペイン系の支配下に入りました。

カール5世の統治下で、ネーデルラントではマルティン・ルターらによる宗教改革運動が盛んに。プロテスタントが普及していきます。するとカトリックだったスペイン国王は異端審問をおこない、経済的自由も制限。人々の間に緊張状態を生み出していきました。

1556年に、カール5世の息子であるフェリペ2世が即位すると、宗教改革家ジャン・カルヴァンが起こしたカルヴァン派が拡大。フェリペ2世による増税や中央集権化を進めようとする政策への反発と結びつき、さらに事態は悪化していきます。

フェリペ2世はネーデルラントの反発を抑えるために三部会を招聘し、異母姉であるパルマ公妃マルゲリータを総督に、アントワーヌ・ド・グランヴェルを補佐役に任命。しかし三部会はフェリペ2世の要求を拒み、新課税の否決、スペイン軍への撤退要求、グランヴェルによるプロテスタント弾圧に対する抗議をするようになりました。

するとフェリペ2世は、フェルナンド・アルバレス・デ・トレドをネーデルラントの総督にして「血の審判所」と呼ばれる異端審問機関を創設。プロテスタントを処刑する恐怖政治を実行するのです。

この弾圧に対し、ネーデルラントは有力な貴族だったオラニエ公ウィレム1世を指導者にして、立ち上がります。そして1648年まで続く「オランダ独立戦争」が勃発しました。

「オランダ独立戦争」の経緯。「ユトレヒト同盟」や「三十年戦争」など

 

1533年、オラニエ公ウィレム1世は、ドイツ中西部にあるナッサウで、プロテスタントのナッサウ=ディレンブルク伯ヴィルヘルム1世のもとに生まれました。

1544年に従兄弟のルネ・ド・シャロンが「イタリア戦争」で戦死すると、相続人に指定されていたウィレムはネーデルラントにあった領地を継承することになります。シャロン家は代々ブルゴーニュ公に仕える家柄で、ルネ自身もブルゴーニュ公を兼ねる神聖ローマ帝国皇帝カール5世に仕えています。相続人にウィレムを指名していたのも、カール5世の意向だったそうです。

ルネの領地とともに、彼の叔父であるフィリベール・ド・シャロンが有していた南フランスのオラニエ公国も継承したウィレムは、これ以降オラニエ公ウィレム1世を名乗ることになりました。

家族のもとを離れてネーデルラントで暮らすようになると、カール5世や、その妹のマリア・フォン・エスターライヒから教育を受けます。特にカール5世からの信任は篤く、少年時代には侍従を、成長してからは軍副司令官の要職を務め、1555年に退位する際の式典では、杖を突いて歩くカール5世の腕を支える役目も担いました。

しかし、1556年に即位した、カール5世の息子であるフェリペ2世が推し進めたプロテスタントへの弾圧は、ウィレム1世や、彼と同じようにカール5世に仕えたエフモント伯ラモラール、ホールン伯フィリップらネーデルラントの有力貴族たちを反乱軍側に押しやることになります。

戦いの序盤でスペイン軍に敗戦したウィレム1世らは、一時フランスに逃れ、現地でユグノーと呼ばれるカルヴァン派勢力と合流。「海乞食」と呼ばれる海賊集団を結成し、ネーデルラントの沿岸地域から徐々に勢力を回復し、やがて戦争の主導権を握るようになります。

1579年には、ネーデルラントの北部7州の代表がスペインに対する軍事同盟を締結。これは調印された場所から「ユトレヒト同盟」と呼ばれました。その後アントワープなどの都市や、残りの北部4州も合流します。

一方で南部の州は、スペインに協調的な姿勢をとる「アラス同盟」を結成。これによって、ネーデルラントは南北で対立することになるのです。

1581年になると、北部の州は連邦議会を開いて、フェリペ2世による統治権を否定。事実上の独立を果たし、「ネーデルラント連邦共和国」が成立します。

1584年にウィレム1世がカトリック教徒によって暗殺されると、後継者として次男のマウリッツが総督に就任。軍に厳しい訓練を課し、「軍事革命」と評価されている歩兵・騎兵・砲兵による三兵戦術の基盤を築きます。

1588年にはネーデルラント連邦共和国からの支援要請を受けて、イギリスがスペインの貿易を妨害。これをきっかけに起こった「アルマダ海戦」でスペインの無敵艦隊が敗れるなど、戦局はネーデルラント連邦共和国側優位に傾いていきました。

1602年にはオランダ東インド会社を設立してアジアに進出。「オランダ・ポルトガル戦争」にも勝利をして香辛料貿易の権利を奪うなど、海上覇権でもスペインを圧倒します。

1609年、スペインとの間に12年間の休戦協定を締結し、戦火は一時収まりました。しかし、1618年にカトリックとプロテスタントの対立からヨーロッパ全土を巻き込む「三十年戦争」が勃発。休戦期間が終了する1621年に、ネーデルラント連邦共和国はプロテスタント側で参戦しました。

「三十年戦争」は、1648年にハプスブルク家の弱体という結果で終結。講和条約である「ヴェストファーレン条約」のなかの「ミュンスター条約」で、スペインはネーデルラント連邦共和国の独立を承認します。こうして、80年間も続いた「オランダ独立戦争」も幕を下ろすことになりました。

「オランダ独立戦争」の結果と影響

 

ネーデルラントの北部7州が「ネーデルラント連邦共和国」として独立した「オランダ独立戦争」。ここまで説明してきたとおり、スペインによるカトリック信仰の強制に対して、プロテスタントの人々が信仰の自由を求めて戦った「宗教戦争」としての一面をもっていました。

1517年にマルティン・ルターが宗教改革を唱えて以降、130年以上続いた宗教戦争は、「オランダ独立戦争」の講和条約として締結された「ヴェストファーレン条約」によって終結します。プロテスタントには、カトリックと同等の権利が与えられることが規定されました。

また「オランダ独立戦争」のもうひとつの側面として、スペインによる経済支配に反発した「経済戦争」もあげられます。

オランダは1602年に東インド会社、1621年に西インド会社を設立し、スペインやポルトガルから貿易利権を奪取。「オランダ海上帝国」と呼ばれる海上覇権国家を築きました。世界経済の中心はアムステルダムに移り、スペインは没落していきます。

17世紀後半になると、オランダに加えてイギリスが台頭し、ヨーロッパの国際情勢はこの新興2ヶ国を中心に展開していくことになるのです。

独立戦争以降の500年を描いたオランダの通史

著者
桜田 美津夫
出版日
2017-05-18

 

本書は、「オランダ独立戦争」からおよそ500年間を描いたオランダの通史です。

80年におよぶ戦いのすえに独立を果たしたオランダ。スペインやポルトガルから貿易利権を奪い、海上帝国を築くと、今度は同じ新興国であるイギリスとの間で4次にわたる「英蘭戦争」を戦い抜きました。ナポレオン時代に一時独立を失うも、その後は王国として復活を遂げ、その後は先進国のひとつとして存在感を放っています。

現在は国土の4分の1が海面下に位置するオランダ。その地形の特性を生かし、堤防を壊して低地に洪水を発生させることで敵軍の侵略を阻止してきたなど、独特の戦史も興味深いです。

また政治や経済の変遷についてもわかりやすくまとめられているので、「オランダ独立戦争」について知りたい方にとっては、入門書として最適でしょう。

「オランダ独立戦争」で活躍したオラニエ公ウィレム1世

著者
C.ヴェロニカ ウェッジウッド
出版日
2008-03-01

 

「太陽の沈まない国」と呼ばれたスペインを相手に80年もの間「オランダ独立戦争」を戦い抜き、独立を果たしたオランダ。 その初期に指導者を務めていたのが、現在のオランダ王室の祖でもあるオラニエ公ウィレム1世です。

「沈黙公」ともいわれているウィレム1世は、寡黙な性格だったと思われがちですが、この異名の由来は、反乱を起こす直前になかなか旗幟を明かさなかったことを揶揄して付けられたものだそう。実際の彼は誰にでも愛想がよく、非常におしゃべり好きだったといわれています。

大国を相手にする際は、単に豪胆や勇猛であるだけでは勝利は掴めず、辛抱強く、用心深く、何度敗れようとも諦めずに手を打ち続けることが要求されます。ウィレム1世も、勇猛というよりは粘り強い性格をしていたそうです。

本書は、そんな彼がどのようにして「オランダ独立戦争」を戦い抜いたのか、人となりも含めて紹介している作品です。彼とともに戦った他の人物たちも魅力的に描かれていて、歴史に興味を抱くきっかけにもなるでしょう。

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