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特集!あの人の本棚
299.

藤野裕子×富永京子   (東京女子大学現代教養学部准教授×立命館大学産業社会学部准教授)


きっかけは「政治に無関心な若者が立ち上がった」という言説への疑問(『真夜中の補講』藤野裕子 × 富永京子)

藤野裕子×富永京子
歴史学者の藤野裕子さんがパーソナリティをつとめる人気のツイキャス番組「真夜中の補講」。そこで配信されるのは、学術書の著者、つまり大学の教授などのインタビューや、自身も大学に職を持つ藤野さんが日々考えている研究についての雑感など。さまざまな研究分野の紹介の場でもあり、一般のリスナーには「アカデミック」なものに触れる入り口として意義のある番組です。

そのゲストとして、先日、立命館大学准教授の富永京子さんが出演されました。著書『社会運動と若者』とはどういった本なのか、主張したいことは、何なのか。藤野さんが解きほぐしていきます。
きっかけは「政治に無関心な若者が立ち上がった」という言説への疑問(『真夜中の補講』藤野裕子 × 富永京子)

日常で政治の話をすることに抵抗感のない社会運動のかたち

―― さっそく『社会運動と若者』の中身に入っていきたいと思います。私自身は運動史を研究してきたのですが、その歴史の話が、現在にどうつながっていくんだろうかというのは、常にいろいろな人から聞かれるところです。それで、すごく参考になった本なんですね。まず『社会運動と若者』というタイトルになった理由を伺いたくて。

『社会運動と若者:日常と出来事を往還する政治』富永京子

富永京子(以下、富永) いつの世も若者はいて、いつの世も若者による社会運動はあります。この本の対象である若者が経験したものだと、2011年に大規模な原発事故があって、その後、非常に規模の大きい脱原発運動が出てきました。その後、2014年の特定秘密保護法や、2015年の安保法案や、2017年の共謀罪など、若者の社会運動が盛り上がりましたよね。そこでは「政治に無関心な若者が立ち上がった」という言い方をされていて。

社会運動をするかしないか、政治に関心を持つか否かに関わらず、若者はたくさんいるわけですが、社会運動をする若者というのを、ここ3、4年のニュースを見ていて描いてみたくなったんですね。それで「若者」「社会運動」が入ったタイトルになったんです。

ですから、基本的には社会運動に参加する若い人たちに聞き取りをして書いた本で、メディア上に表象される「若者」と、実際に運動している「若い人」たちが対象になっています。もちろん同一人物であることに違いはないのですが、ちょっとズレを持っているという意味もありました。

―― 特定秘密保護法案に対する反対運動、安保法制に対する反対運動といった運動自体は、たくさんの人が参加したりしているのですが、中でも若者という存在に着目してみたというのがこの本のご趣旨ということですよね。先ほどもおっしゃっていた「運動と若者」というテーマに興味を持たれた理由を、もう少し深掘りさせてください。

富永 そうですね……二つ理由があると思っています。一つは、博士論文を書籍にした『社会運動のサブカルチャー化』という本。これは、原発事故前の運動を扱ったものでした。登場するのは、どちらかというと年長の人たちが多く、自身の運動を日常の中でもやっている人。例えば、環境運動に関わる人だったら、一緒に飲み会などに行っても、自分のお箸を持ってくることがある。

『社会運動のサブカルチャー化―G8サミット抗議行動の経験分析』富永京子

それで「この野菜の産地ってどこ?」と、フランクにお店の人に聞いたりする。それって彼らの運動が、単に閣僚に交渉したり、デモをしたり、それだけじゃなくて日常も運動につながっているという側面があるからなんですね。なので、(最初の本で取材した人たちは)運動をやっている友達が多い人なんですけど、2014年に、SASPL(サスプル。特定秘密保護法に反対する学生有志の会)という団体の学生さんたちと会って、すごく新鮮だったんです。

なぜかというと、政治的なものと個人的なものが、今まで会ってきた人々と同じかたちではつながっていない。確かに政治的な理念を持って日常を過ごしているんだけれども、一方で日常で運動や政治の話をすることへの抵抗感をいかになくすかという視点がある。してしまうと「ちょっと浮いちゃうよね」みたいな感覚を前提としているわけです。そういった意味でも新鮮で。これは、私の見てきた運動とはちょっと違うのかもしれないなと思ったんです。それ以上に、マスコミがものすごく彼らのことを、新しい感性だとか、若者が立ち上がったとか、そういうフォーカスの仕方をしましたよね。

それはもちろん、私もそう思っているんですけど、それほど「若い」ことと「新しい」ことを簡単に結びつけていいのかなという疑念や、それほど若者って無関心だったのかな、という感覚など、そういうことを感じていて。本当に、彼らを新しい担い手として表象することが、今後の若者たちにとって負荷にならないかどうか。運動で燃え尽きた人のことなどを前著でずっと書いていたので、ちょっと気になっていたんです。

二つ目はすごく個人的な動機です。突然ですが、藤野さん、20代後半って焦りませんでした? 一度女性の人に聞いてみたかったんです。ここで男性、女性と言うのはすごくナンセンスだというのはわかっているのですが。

―― 20代後半に焦ったかですか? うーん……20代後半は、「世の中全員死んじゃえ」と思っていました(笑)。

富永 それはどういったご事情で?

―― 研究上、ちょうどドクターの3年が終わって、(学年が)4、5、6ってなるじゃないですか。だから、論文はいっぱしに書けるようになって、投稿論文が通ったりして、調子付いて。でもまだ若いからキャリアもないので、そんなに自分が思っているほど周りは反応してくれない、みたいなところがあって。

富永 ええ、ありますね(笑)。

―― もちろん就職とか、全然遠いものだし。そのうえ、プライベートでもそれほど恵まれてはいなかったので、あのころは「世の中全員死んじゃえ」と思っていました(笑)。

富永 そのネガティブな感覚って、女性の場合、たぶん焦りみたいなものからくるんじゃないかと思っていて。例えば「結婚どうしよう」みたいな話が、ティピカルに呪いとしてあると思うんですね。私は28歳のとき、今の大学で職を得たのですが、就職した研究者に対する呪いの一つとして、「就職したら研究できなくなるよ」というのがあるじゃないですか。「忙しくなるよ」とか。

だから、みんなよりちょっと早く就職してしまって、まず成果を、今までどおりとはいかなくても、出さなきゃいけないという焦りが非常にあったんです。博論の次を早く書かないと駄目になるだろうな、と。

あとは、やはり28歳の状態でも、18歳の学生と会ったときに、自分が若くないんだというのを強く感じたんです。それは言うと怒られるのかもしれないですけど。ただ、若くない自分が若い人を書く、若くなくなっていく自分の焦り、を少しかたちにしたかったんです。29歳になって、婚活をするようなノリでこの本を書いたというのはあるかもしれないです。

―― 婚活するノリで本を書くというのは面白いですね。

富永 駆け込むような感じで書いたというか。理由は不純かもしれないですが、ただ、若い/若くないということを、一番敏感にとらえる時期だったのは間違いなくて。

―― せんだい歴史学カフェさん(仙台で歴史学の面白さについて発信するインターネット番組)から、「若者の定義はどうされたのだろうか」、つまり若手ってなんなのか、ということだと思うのですが、「そこが議論になったので気になる」という質問がきています。

富永 これってかなり難しいんです。例えば、若者研究やマスコミの調査で、若者に対する定量調査をやるときは、30代まで入れてしまうことがあるんです。あるいは、2000年代にロスジェネと呼ばれる人たちが活躍したことがありました。おそらく、藤野先生に近い世代の方だと思うのですが、ロスジェネという言葉が10年前に盛んに言われていた時期は、もう40代くらいまで若者に入れるような議論があり得た。

今回も世代を区切らず対象化しようかなという気持ちはあったのです。この本で言う若者というのは、要はメディア表象の問題なので、対象に入れてしまおうと思えば入れられるんです。ただ、操作的にですが、若者は2016年に20代だった人たち、にしています。もちろん世代で区切るというのは、ここでは理論的な意味はあまりないんです。ただ、操作的に、いわゆる「若者」の典型例として世代で区切って人々を見ることで、世代的な特質と、「若者」と呼ばれる人々に共有の特質を分けて論じたい。

その、ある種のサンプルとして、彼らからの聞き取りを通じながら、先の運動が、「若者が若いことによる特性」であるのか「世代的な特性」であるのか、そうじゃないのかを見ていこうと。

社会運動を研究対象にしたのは、自身の選挙運動がきっかけ

―― もう一つ伺いたいのは、今のことと関連するかもしれないですが、メディア表象としての若者を若者として定義するというときに、インタビューというのはどういう位置づけになるんでしょうか。実態ということになるんでしょうか。

富永 実態と言い切れない部分があると思います。やはりメディア表象って出来事というか、デモや集会といった「表舞台」の中で語られる言葉を主にクローズアップしていると思うんですが、聞き取りで聞いてみたいと思ったのは、彼らの日常生活だったんです。

大学にいるときに何をしているとか、今までどういった先生の影響を受けたとか、そういう話を聞きたかったなというのがありました。だから、メディア表象と比べると、実態みたいな位置づけをしているのは間違いないです。ただ、新聞に載る言葉か私というインタビュアーに対して向けられる言葉かという意味ではどちらも「よそ行き」には変わりないですから、そうとばかりも言い切れない。

―― 対象設定は理解しました。富永さんご自身は、運動への参加経験はありましたか。

富永 もちろん。先日もデモに行ったりはしたのですが、デモは長いですし、体力も使います。なので実際に参加すると、なじめない側の人間かなと思います。もちろん、誘われて行ったり、学習会などもぼちぼち参加したりはするのですが、なかなか踏み切れていない人というのが自分の立ち位置で、一番適切かなと思います。

―― そこでもう一切り込みしたいのですが、なぜ運動に対してあまり積極的にコミットしていなかった人が、運動について研究しようと思ったのでしょう。

富永 実は大学が北海道の札幌市にあるのですが、東京と比較するともちろん田舎で、そこで私は意識が高い活動をしたくなり、選挙運動をやっていたんです。田舎だから、そういうときは、ビジネスじゃなくて選挙にいくんです。その選挙で友達が負けてしまうのですが、その中で、「選挙で落ちた私たち」がどうするかというときに、社会運動があるんだろうなと感じて。それで市民活動の会とかに行くのですが、なかなかなじみづらい(笑)。

社会運動や市民活動は学生があまりいないというのもありますし、難しいことを言える人が多いんです、弁が立つというか。そこで無邪気に変なことを言うと、許されない雰囲気がすごくあるんですね。例えば、「女は男よりアプリオリに劣っているよね」ということを言えばすごく怒られるし、そういう無知を許さない雰囲気、みたいなのはあると思うんです。大学院もそういう場だと思いますが。この入りづらさみたいなのはどこから来るんだろうなというところで気になって、研究を始めました。

―― その中で、意識高くいってみたかったときに、選挙活動に行ったけどもうまくいかなくて、じゃあ社会運動へというと、なんか壁を感じた。その壁ってなんだろうというのが出発点だったということなんですね。

富永 そうですね、それはありますね。

―― 質問で、「富永先生の立ち位置ならではなのが、研究をしつつ、運動に参加して、モヤっとしている側の何かを掴みだそうとしている研究姿勢。ガチすぎると見えなくなることもある」。いかがですか?

富永 社会運動に限らずですが、質的研究をやる人って実践者が多いと思うんですよ。実践される方って、辞めていった人のことがなかなか見えづらいと思うんです。そういう人を見ていたら活動にならないし、問題関心とずれてしまうというのもあるでしょう。ただ、実際、社会運動というのはそうとう疲弊しますし、人に負荷をかける活動なので、辞めて当然だけど、これまでの研究は辞めた人を書けていなかった、というのはモヤモヤとありました。

―― モヤッとしたものをつかみ取ろうと始めた研究が、どんなものを取ったんだろうかという、中身の話に入ってみたいのですが。『若者と社会運動』の副題に書かれているのが、「日常と出来事を往還する政治」。これはどういう意味なんでしょうか。日常ってなんだろう、出来事ってなんだろう。しかも、それが往還するってどういうことなんだろう。

富永 「社会運動サブカルチャー」という言い方をよくしているのですが、いわゆる既存の社会運動論というのは、市民団体であれ、NPOであれ、人々を組織化して、それでデモをしたり、ロビイング活動をしたり、ストライキをしたり、そういうものを中心に見てきた。それは社会運動論が、一種の組織論として、社会運動をうまくいかせるための理論という側面がすごく強かったからです。

基本的には運動論で見たいものって、参加、持続、発展とか、運動を盛り上がらせるための変数ですよね。ただ、運動に参加している人を見るときに、この人たちが日常に何を持って帰ったかが大切だと思っていて。当然、24時間デモばかりして生きているわけではないので、デモで解散した後、自分たちの家に帰ったり、学校に行ったり、そういう中でどう運動的な理念を作っていくのか。

例えば、家庭でのコミュニケーションであるとか、学校、職場では何をしているのか、みたいな話を日常のパートで見たかったというところです。デモの中で「駄目よ、奥さんとか言ったら。お連れ合いとかパートナーとか言わないと」と言われて、ふと日常の瞬間に、「ああ、奥さん元気?」じゃなくて、「パートナーの方、元気?」みたいなふうに言うのも、やっぱり一つの運動だと思いました。

そこで日常と出来事が、ある種、往還するというか。そういった様子を書きたいなと思ったんですね。日常を過ごせば、またその次の週にデモに行くときに、ちょっとまずい言動をした人に、もうちょっとうまく日常を過ごすためのアドバイスができると思うので。一人の運動家の、家に帰ったときと運動の場に出たときの出来事と日常が往還しているというイメージです。

―― 要は、運動をしている、例えばデモならデモのときが出来事だとしたら、そこに参加していない普通の生活を送っている顔がどんな顔で、それが運動しているときとどう連関するのかということですね。

富永 そうですね。たぶんそれが集合化したときに、さっき私を運動に入りさせづらくしてしまったような、運動を巡る、しきたり、こだわり、みたいなものが、人々の間で結晶化されるというか、規範や理念として共有される。そういうコミュニティがおそらくいくつもあって、それぞれ違う規範ができているのですが、その様子を見たくて、日常と出来事というものを設定したのかなと思います。

「出来事」を経験することは「日常」をどのように変えたのか

―― 実際にいかがでしたか? どのように往還していました? それはほぼ本の中身になるので、なかなか一言では言いづらいと思うのですが。

富永 若者の社会運動は、「新しい、無関心な若者が立ち上がった」、みたいな言われ方をするのですが、本当にそれは若いからなのか、新しいからなのか、ということが気になっていました。調べていくと、若い人たちが、過去の運動はどこか危険で怖いとか、時代に合っていないとか思わざるを得ないような事情がどうも見えてきたんですね。

だからこそ、出来事、デモの側をすごくきれいにというか、かっこいいものとして表象する。実際、2014年からのデモって非常にかっこいいと言われていて。「なぜ、そこまでかっこよくしなきゃいけないんだ、親しみやすくしなきゃいけないんだ」というのは、それなりに裏付けがあるんです。例えば、本書で対象にしたような若者は、親御さんがすごく社会運動に対してアレルギーを持っている。あさま山荘事件とか。

だから、そういった忌避感みたいなものを受け継ぎつつ、でも運動をやるとなったら、親御さんが「あさま山荘みたくしないでね」とか「そんなので就職できるのか」みたいなことを言う。だからこそ、おしゃれに、安全になるようにというのはすごく重要な要素だったのでしょう。

あとは端的に、そういう運動イコール古いよね、みたいなイメージを払拭させるためにデモをつくり変えるというか、そういった役割も持っていたわけですよね。加えて、彼らの消費しているものや、親しみやすいカルチャーが出来事に反映されたというのと、すごく運動が怖い、嫌だなというのをいろいろな人から教えられたり、伝えられたりして、「じゃあ、そうじゃないものをつくろう」という感覚が出来事に反映されたというのは、あるのではないかなと思います。

―― では、逆に出来事の経験というのは、日常をどう変えていったんでしょうか。

富永 興味深いのが、友達というか、ネットワークが出来るというのが大事で、デモに参加しなければ、自分と同じことを考えている人がいるのかどうかがわからなかったという方がいらっしゃいました。デモに行ってみたら、自分と同じ意見を持った人が本当にたくさんいて、そこで、日常でもそういう政治的なことを話すハードルがちょっと下がった、みたいな。そういう現象はよく聞くことができました。そうして気が合った人たちと一緒に勉強会をしたりする。

あと、日常を巡っても、例えば性差別的なことって、それまでずっと教室で蔓延していても気付かなかったんだけど、デモに参加してスピーチを聞いたり、活動家のベテランみたいな人の話を聞くうちに、「ちょっと飲み会の下ネタとか、過激なゲームとかまずいんじゃない」という感覚になったりした。そういうお話は聞きます。

―― せんだい歴史学カフェさん。「すげえ、説得的だ。今の学生さん、周囲や友達にダサいと思われるのが嫌なのはいつの世もだけど、親ともうまくやりたいと思っているのに、今の『若者』の特徴だと感じる」。いかがですか?

富永 それはすごくありますね。1968年の運動と、よく新聞なんかでも対比されやすいと思うのですが、68年って、大人に対する、大学に対する抵抗、反逆だったわけです。それに対して、今の学生運動というのは、もちろん京大の吉田寮の話のようなケースもあると思いますが、一方でそんなに大学で浮きたくないというのもある。

大学で、運動団体のビラを配るのを先生に止められたら、反抗するよりは、「先生の気持ちもわかるよね」みたいなお話をされた学生さんがいたんです。つまり、「先生だって自分の気持ちで言っているのではなくて、もっと上の人たちからやめろって言われてるんだろうし」みたいな感覚がすごくあるので、そうした日常の中で、いかに対抗しないかという言い方は変なんだけど、隠れた対抗みたいなものをつくっていくのかな、と思います。

―― 「富永さんの本を読んでふと思ったのが、一回り年増な自分の経験で言うと、うたごえカルチャーになじめなかった」という質問が。同世代がそうだったけど、うたごえ運動みたいなのがちょっと苦手だった方っていますよね、そりゃあ。そういうふうに、なじめないという感覚って、世代の中でいろいろあるはずで、それをどう乗り越えていくかという模索が今の若者たちにはあるという感じですかね。

富永 おそらく今も昔もあったのかもしれないですが、そういう、鬱屈とした感覚みたいなものはすごく強いかな、という感じはしました。政治みたいなものがかなりタブー視されて久しいからですかね。

―― そうすると、それって、富永さんより若い人たちなわけで、要は富永さんの感覚だと、自分とは違う世代として若者たちに向き合っているわけですよね。

富永 そうですね。その感覚が強い本です。若くないから書いた本ですから、若くないんですよね、私は。

―― そういう感覚で書かれて、インタビューをされるじゃないですか。そのときに、彼らがやっている運動のあり方によって、富永さんが社会運動に感じたモヤッとする感じというのは解消されるものなんでしょうか。

富永 うーん……いくら運動を一般的にしようと思っても、結局、「いや、あいつらふざけてるだけじゃん」「こんなおしゃれにして真面目に考えてるの」という、運動を特別視してバッシングする声というのは必ず出てしまうものなんです。私がこの本で対象とした若い人と同じ世代だったとしても、彼らのオーガナイズする運動に参加したかというと、難しいかもと思うんですね。

もちろんそれってあらゆる活動で生まれるタイプの参入障壁だと思うんです。地下アイドルの追っかけをしている人たちでもいいし、女子高生でもいいし、バンドマンでもいいんだけれども、活動が特定のこだわり、しきたりを持つ。それが政治というイシューと絡むことで、そのこだわり、しきたりが、参入の難易度を高めてしまったり、逆に強い魅力を生むということがあり得るのかなと今感じています。後者の性格がメディアで報じられたわけですが、自分は前者の性格を、つまり障壁を感じてしまった方かもしれません。そういう意味では、解消はされていませんね。

―― 「運動の主催者、SEALDsなどに注目しているように感じましたが、その他の、ちょっと参加してみたという参加者の意識はどうだったのでしょうか」。いかがでしょうか。

富永 ちょっと参加してみたという人は、聞き取りをした学生にもいますし、いろいろなところにいらっしゃるかと思います。わずかではあれ、意識は変わっているかな、という感じはします。当然デモに行くまでに、かなり大きいハードルがあるので、そこを一回でも踏み越えた人というのは何かしら持って帰ってきているんじゃないかな、という感じはしますね。むしろ、そういう人ほど、日常を通じた運動にもコミットしやすい状況があるかもしれないです。

―― 「出来事は日常の飛躍であり、飛躍の契機でもあるのですか?」これはどうでしょう。

富永 日常を通じて得た、居ても立ってもいられない気持ちとか、友達に誘われたとか、そういうものを参加の契機にして、出来事へと飛躍する。飛躍っていい表現で、飛躍くらいの勇気がないと行けないところかもしれませんね、社会運動って。またそうやって参加した出来事によって、日常が……軽いジャンプくらいかもしれないですが、少し変わるというのは、確かにそれも飛躍ですよね。

―― 可能な幅が広がっていく。それはそのとおりだと思います。「富永さんの新刊のおかげで、社会運動はなんらかの文化的な背景があるとして、そのアルケオロジーというか、社会史が成り立つのかという関心に気が付きました」。

富永 そうですね、文化って使いづらい概念だと思うし、特に社会運動という活動には馴染みにくいですよね。社会運動というのは政治変革のための運動で、政治過程として見なすものだ、文化なんて見方をしても意味がないんだというか、そういう前提がおそらくあると思うんです。

ただ、社会運動をやっている人たちの独自の文化が人を惹きつけることって十分ありますよね。自分は少なくともそういう意味での魅力に惹きつけられて研究してきました。そういう、既存の見方からすると不整合的なんだけども、魅力みたいなのが、このコメントの方がおっしゃっている文化的背景というものだと思いますが、そういうものを書いてみたいという感覚が強くあったので、ありがたいコメントです。ありがとうございます。

―― このコメント、私にとってもありがたくて。先ほどの日常と出来事を往還する政治という問題設定、というか視角は、歴史研究にも当てはまることなんです。出来事だけの歴史、つまり、人々が立ち上がる瞬間だけを研究していても、大多数の人は立ち上がらないし、立ち上がった人だって日常はありますよね、という問題関心から、社会史というものが生まれてきたわけです。歴史の研究の視点がより日常に向けられたというか。ただ、あまり日常、日常しちゃうと、今度は逆に歴史から政治がなくなっていくみたいな批判も生まれて。私としては、もう一度社会史的な観点を、人が立ち上がった瞬間、つまり暴動とつなぎ直してみる、連関させてみるような叙述ができないだろうかというのが『都市と暴動の民衆史』だったので。

『都市と暴動の民衆史 東京・1905-1923年』藤野 裕子

富永 まさに藤野さんの『都市と暴動の民衆史』は、鬱屈としていたというか、男性労働者が暴動に参入した、みたいな話で、その鬱屈は出来事だけ見ていても当然見えないわけですね。

インタビューをすることの難しさと、そこで得られるもの

―― だから、実は歴史研究の方法と非常に近い観点からこの本は書かれていて。そういう意味ですごく面白いなと思って。うらやましいな、とも思いました(笑)。だってインタビューできちゃうんだもん。

富永 あ、それはありますよね(笑)。だからこそ、直にお話を聞ける苦労というか、当然、「こんなこと俺言ってねえし」みたいなことを後で言われたり。あるいは聞く人によって、言うことが変わってくるということはあまりないと思いますが、聞けるからこそ聞けない苦労がある。もちろんその点に関する社会調査のインタビューの方法や、インタビューの教科書みたいなものはよく出ていますが、なかなか難しい方法論でもありますよね。もちろんすごく魅力的で、卒論を書こうとする学生さんでも、ある種、できちゃうわけですが。できちゃう難しさというのもあるかもしれないですよね。

―― インタビューするとなんかできちゃった気になるけど、本当にそれを位置づけることとか、意味づける、そこから何を読み取るかというのは、かなりな難しさがありますね、確かに。そういう意味で、富永さんの本を私が読んだり、あるいは、富永さんが私の本を読んでくださるというのは、たぶん必然的なものがすごくあると思っていて。

富永 それは本当にそう思っています。藤野先生の本はすごく面白いというか、これは来るなと思ったフレーズが、実はあとがきで。「なぜ彼らは路上で暴れ、私は暴れないのか」というところです。この問題意識には、本当に自分も、現代か過去かということは置いておいて、すごく共感するところです。

―― ほか、ヒストリエさんという方から質問が。「お二人にお聞きしたいのですが、鬱屈とした日常はある程度の人々は感じていたとして、その中から実際に社会運動に参加する人は何か特徴があるのでしょうか」ということなのですが。

富永 本書の後半で少し書いているとおり、今回の本の人たちに関して言えば、ネットワークと言うんですか。大学で知り合った人と出会って活動する、みたいな人たちが多かったかなと思います。あとは中高までどう過ごしてきたか。ほとんどの人は大学に入って運動をしているわけですが、中高まで、要は都市部などで、わりと運動に親和的な環境にいる人が一定数いたりもしますね。学校の先生がそういうことを教えてくれたとか、親御さんも運動をしていた経験があったとか。

周囲にも関心を持っていた人がいて、その流れから路上に出てきた人。もう一方で、ヒストリエさんがおっしゃるような、私も藤野先生もそうだと思いますが、鬱屈として過ごしてきた人、みたいなのがいて。その人たちが、例えば教室での政治的事柄に関する議論とか、学習会とか、サークルでつながって、一緒に運動に行く、みたいなイメージがあるかなと思います。実際に、社会運動論なんかではネットワークというのは運動参加にあたってけっこう大きい指標だったりします。

よく量的な調査だと、「どれくらい市民の団体、町内会とか、全然趣味のサークルとかに入っていますか?」みたいな聞き方をするのですが、そういうネットワークとかソーシャル・キャピタルみたいなものによって運動に参入するというのはよくあるみたいです。

―― 先ほどもちょっとお話にあったのですが、インタビューという方法をこの本は一貫してやられていますよね。この方法を選んだのは、愚問かもしれませんが、なぜでしょうか。

富永 社会運動を研究するときに、もちろん組織とか団体にアンケート調査をしたり、もっと大規模な、もともとあるサーベイを利用する方法はよく取られます。市民にアンケートをまいて、こういう人にこういう運動経験があるとか、こういう人がこういう政治志向で、こうした運動の経験がある、みたいな調べ方はしっかり方法論としてあると思います。

でも、私の問題意識とする、運動への参加しづらさとか、運動に対するモヤモヤ、みたいなものを調べようとするときに、当人であれ、言語化できないものを調べたいと思ったんです。そうすると、おそらくインタビューですら不十分であろうという感覚がありました。ただ、アンケートだと、基本的には本人が認識しているというか、アンケートの質問文にした途端、本人が認識しているもの以外は、明確に意識しているもの以外は聞けなくなってしまうわけです。

例えば、「あなたは社会運動をしていますか?」と言われて、その社会運動の定義って人によっていろいろなんだけれども、その「いろいろ」を、社会運動という語に埋め込まざるを得なくなる。それよりかは、インタビューで、「あなたは社会運動をしていますか」と聞いて、最初はみんな「私全然運動家とかじゃないよ」と言うんだけど、よく聞いてみたらけっこういろいろとやっていますね、というのがざらにある。それを見てみたかったんです。

―― 当人にも言語化できないような、意識化できないようなことを聞くために、本人と言葉を交わした、ということなんですね。

富永 聞き取りを続けていくうちに、「おっ、これも社会運動か」というのが出てくるわけです。「私は小学校の先生をやっているけど、男女の名札を全部黄色にしたの」みたいなことを仰られたりして、それってやっぱりすごくジェンダーに対する意識が高くないとできない、ある種の運動なんです。

これはフェミニズムなどの研究ならば「運動」ととらえるのかもしれないけれども、「社会運動論だと、組織による運動じゃないので社会運動とは言えないね」になってしまうと思ったんです。ですから、ある意味、私の取ったインタビューという方法が分析枠組を育てた部分もあるし、分析枠組によって何を聞くかがより明確になった、みたいなところはずっと博士の頃から感じていました。

―― 私の場合、歴史研究だからしょうがないのですが、文字史料を扱っています。それでも当人にそれほど明確に論理だって整理されていなかったであろう感情とか、そういうものがいかに行動と結びついていたか、行動と分かちがたくそういう感情があったか、というのを書きたかったんです。ただそれって、私の勝手な解釈なんじゃないかというのは常に怖かった。

富永 そういう葛藤みたいなものは常にありますよね。

―― そのへんは、社会学という枠組みの中で、富永さんはどういうふうに乗り越えていったのでしょうか。

富永 やはりすごく難しいですよね。それこそやっている人に、「俺違うよ」って言われたら、おそらくその人のほうをみんな支持するでしょうし。独りよがりな分析にならないためにどうするかというと、まず、本当に基礎的な質的調査のやり方みたいな話になりますが、相反する意見みたいなものを、同じ出来事に参加した人から聞いていく、それをいろいろなかたちでぶつけ合っていくというところで、言っていることとは一段上の枠組みを少しずつ組み立てていくという感じですかね。

―― 言っていることを無視して何かをするのではなくて、言っていることから一段上の。

富永 つまり、ふたりインフォーマントがいて、同じ状況に対して正反対のことを言っている人がいる。そうなると、その正反対のことを言わせる背景を見ていくというイメージになるんですかね。

―― それって何によってできるのでしょうか。

富永 これは、量的な社会調査でいわれることですが、言っている人の属性を押さえるというのは一つだと思います。あまり良くない言い方ですが、男性なのか、女性なのか。どういう職業、どういう地域で過ごしたのか。そういう地域に対してどういう感覚を持っているのかという、いわゆるプロフィールを伺って、運動経験を伺ったうえで、どういう運動経験であるとか政治意識が、この人にこれを言わせているのかというのを押さえることですかね。

―― そういうことを聞きながら分析する際に、富永さんの頭の中はどうなっています?

富永 過去に過去に聞いていくようなことはするかもしれません。例えば、「こういう運動に参加してどうでしたか?」と言って、「ダメだった」といったことを言われた際は、「じゃあどういう運動がダメじゃなかったのか、『これならダメじゃないな』という運動はどれですか?」みたいなことを聞いてみたり。

あるいは、「ご自身のどういった好みに照らしてダメだったんでしょう」みたいな言い方をするかもしれないですが、どういったご趣味、好みを持たれていて、それが、悪印象にどうつながっているのか、みたいな聞き方をするかもしれないです。

―― インタビューだから、質問の過程で気になったことを掘り下げられるわけですね。掘って聞けるという。

富永 それはあるかもしれないです。繰り返し聞けることもありますし、話題になった運動だと、それなりにドキュメントがすでに出ていたりしますから。本人のSNSの書き込みであるとか。そこと照らし合わせながら話を聞くのも面白いです。

―― オノデラさんから。「大門正克さんはaskではなくlistenと言っていて、これについてはどう思います?」

『語る歴史,聞く歴史――オーラル・ヒストリーの現場から』大門 正克

富永 感覚としては、おっしゃりたいことはわかる気もします。つまり、オーラルヒストリーを提唱される方も、私が取材をしようとしている方も、「ask」しなくてもしゃべってくれる人だというのは一つあると思います。つまり、無理に聞かなくても、自分の言いたいことがわりとある人たち。だからこそ、調査というか、取材対象になってくれるわけですが。

そういう意味で、「listen」して取材する姿勢が重要だというのは十二分に理解できますし、それはおそらく、もう少し別の取材対象にも当てはまるかな。例えば、被災者の方であるとか、不安定な就労状況に就いている方とかも、あまり情報を引っ張り出すよりは、「聞き出す」というよりは「聞く」。この場合「寄り添う」に近いのかもしれないですが。その姿勢こそが重要だというのは一つあり得るかなと思います。

―― こっちがテーマやプランを持って相手と向き合うと、相手のことを誘導してしまうから、あるいは聞きそびれることがすごく多いから、質問して聞き出すというより、相手の肌ざわりを聞き取る、という感じなのですが。これ、共感するところはあります?

富永 社会学などでも、最近すごくライフストーリーとかライフヒストリーみたいなものが重要視されていますが、それもやはり、そういった「listen」みたいな姿勢が強くなっているかなと思います。

ただ、私は過度に「listen」寄りではないかなという気もしていて。やはり忌避感みたいなものとか、運動に対する抵抗感みたいなものを抜き出そうとするときに、「listen」ばかりだと、どこかに竿を刺さなければ、忌避感まで抜き取れないかな、というのはあります。だから、わざと、「運動に参加することに否定的な人とか身の回りにいないんですか?」みたいなことを聞いたりします。それは、唯一というか、少ないながらテーマとして多少持っているものかもしれないです。

―― そこでどうやってさらに奥に、相手が無意識で言いたがらないところをガッと攻めていくかということも、考えながら聞いていらっしゃるんですかね。

富永 ネガティブなことを言ってくれといっても当然言わない、こちらも言わせたくないので、それをどう掘り下げるかというのは、確かに博論を書いているときあたりで難しい部分かな、と思ったりはしました。

―― 「趣味と運動の境界を分けるのは、というところで、インタビューが停滞しないのでしょうか」。これはいいですね。

富永 これは面白い質問です。一度、あるインフォーマントの方と面白いやりとりをしたことがあって。その方はヴィヴィアン・ウエストウッドが好きだったんです。ヴィヴィアンのシガレットケースか何かを置いていて、「そういうの、お好きなんですね」と尋ねたら「あ、すみません、ブルジョワ趣味で」と言ったことがあって。そういったかたちで、趣味から運動が映し出されることってすごく良くあります。

私が次のインタビューのときに、お礼としてヴィヴィアンのハンカチを大丸で買って、「ブルジョワ趣味ですけど」って言う。それで、何と言われたかというと、「いや、でもヴィヴィアンも、学生運動の闘士だったりしたんですよね」と。そういう、彼らの規範から逸脱していると思える趣味や雑談が、ある意味で、運動観みたいなのをより深くしてくれることってあるのかなと最近思っています。

―― この本のインタビューの難しさって、先生が学生・若者に話を聞くという関係にもあるわけですよね。権力関係をつくり出してしまう。それはどうやってクリアしました? クリアできない問題だとは思うんだけど。

富永 ちょうどそのとき指導院生がいて、彼はベルギーから来たのですが、日本語が堪能だったんです。取材に同行して、「富永先生は知っているかもしれないですが、僕は日本の運動についてよくわからないので教えてください」と、かなり言ってくれて。彼がすごくいい働きをしてくれたなと思います。それは大きかったかな。院生の自分にこの本を書かせたら、もっとうまく書けたし、うまく書けなかったのかもしれないです。

―― 「インタビューを受けた方から、富永さんの本を読んでの反応などはいかがでしたか?」これ、私も聞いてみたい。素晴らしい質問。

富永 これは質的研究の人が苦労するところだと思うのですが、やはり避けられない批判というのは、「俺らはこんなこと言ってねえ」というものです。分析される、記述されるということは、たぶん私も同じように、記者さんとか編集者さんに言ったことはありますし、ある種、しゃべったものを書いてもらうということの、一つの宿命なのかと思います。自分の思っているアウトプットのかたちと違う、言っていることと違うというのはありますよね。

その反応のなかで、興味深いなと思ったのは、同じようにリストに並べられているインフォーマントの中で、「この人たちと同じ運動の人」だと思われると嫌というか、嫌とまでは言わないが違和感がある、みたいな言い方をされる方はいらっしゃいます。つまり、同じ安保法制に対する運動であったり、反グローバリズムなんだけれども、まったく違うんだと。それを一緒にしないでくれ、みたいな言い方というのは、もうちょっと掘り下げてみたいところではあります。

―― インタビューをした結果、若者なる人たちに対して、どういう印象を受けました? メディア表象で若者といわれている人は、きっと違う側面があるだろうと思ってインタビューに臨んでみるわけです。そうしたときに、さらにそれを裏切る感じなのか、そういうファーストインプレッションっていかがでしたでしょうか。

富永 この本を、ほぼ2年か1年半くらいかけて書いたのですが、若者、学生というか、人って、驚くほど変わりますよね。それはもちろん、2年生の学生が3年生になったら就活をやっているわけですから、それは当然変わるわけで。そういう変化みたいなものを、インタビューを継続的にやっているなかで、すごくよく見たような気がします。

変化の速さというのは、もちろん利害が安定していないからですよね。1年前は学生だったけど、1年後はこういうところに内定が決まっていると。そうなると、自分の利益というのはまた別のかたちで変化するわけです。それによって、政治的な態度というのも変わるし、当然、保守的に転向した方もいれば、職業を通じて運動的なことを続ける、みたいな方も当然出てくると。そういう変動の速さみたいなものは、取材というか、執筆期間を通じてずっと感じたところです。

―― 変化が速い。

富永 そうですね。そういう方がメディア何かで、過去に放映された姿を見て、「ああ、前こんなことやってたけど、なんか忘れちゃった」みたいなことを言うのを聞くと、「そうだよな、それくらいこの人たちにとって時間って速いんだよな」という感じはすごくしました。

あと、なんとなく思ったのですが、「無関心な若者が立ち上がった」というのは、ちょっと違うというか、それは明確にどこかで否定したいなというのは思っていました。どなたも何か関心を持つに至った背景をずっと持っていけれど、運動に参加できない経緯もあったわけで、運動に参加しないから無関心だというのが上の世代の、ある種の知識人であるとか、メディアで発言できる人の、恵まれた前提のようにも感じたので。

そこはメディアを見て薄々違うだろうなと思いながら、彼らに話を聞いてみて、ああ、やっぱり違ったというか、ちゃんと関心の芽は持っていたし、勉強だってずっと継続的にしているし、というところです。

―― この本を書いていて、すごくつらかったことはなんでしょうか。

富永 つらかったのは、それでもなお(積極的に)社会運動をしようと思えなかったことです。それは、もちろん運動に行っているというか、デモには行っているわけですし、当然頼まれれば署名だってするけど、それでも自分は運動の実践者だと思えなかった。これだけいろいろな人に話を聞いて、調査目的とはいえデモにも行っているのに、それでも実践者ではないし、実践者とは今後もみなされないだろうな、という感覚です。

当然私は、「結婚している男女の人」を見て、奥さんとか旦那さんとか絶対に言わない。運動を応援するようなコラムを書くこともありますが、そういう意味で日常に往還しているし、授業でも、どちらかというとリベラル寄りの先生っぽいことを言います。そういう意味で、日常に往還したんだけれど、出来事にフィードバックされないというか、されていないかもしれないです。日常へは戻ったんだけど、日常から出来事に行かないということですよね。

―― 「今後、現代の政治とか運動をどのように考えるか。どういうふうにコミットすることがあり得るか。さまざまな選択肢があるけれども」、という質問なんですけども、まずは運動に背を向けるパーソンに対して。はなから、「政治そのものが嫌。意味がわからない」という人もいるし、富永さんみたいにギリギリまで接近するんだけど、でもちょっと、という人もいるかもしれない。さまざまなレンジがあると思うのですが、いずれにしても、そういう人たちに対して、富永さんからメッセージを送るとしたら、どういうことになるでしょうか。

富永 政治的有効性感覚(人々が政治的なことがらを理解し、自らの行動が政治家や政策に影響を与えられるという感覚)といった指標が政治学とかだとあると思うのですが、投票しない人とか、社会運動しない人というのはざらにいますよね。役に立たないというか、「一票で変わると思えないから」と言う。一方、逆の意見もあって、「その一票で何か変わっちゃうと怖いから」という人もいる。そういう意味で、社会運動というのが役に立たないかもしれない、あるいは立ちすぎるかもしれないという基準で見られる。

つまり、入る前に考えすぎちゃうタイプの行動では確実にあると思うんです。たぶん友達のやるデモより、友達のやるライブや演劇のほうが行きやすいと思いますよ。そういうことを考えなくて済むから。ただ、考えすぎるのをやめろというのは非常に難しいことだと思うのですが、あまり難しく考えないでほしいという感覚が少しあります。

最近またモリカケ問題などでデモが復活しているときに、ツイッターなどで囁かれるスローガンがあって、「頭数になりに行きましょう」と言うんです。これって、人の固有性みたいなものを認めていないと思われるのかもしれないですが、それくらい、取り替え可能というか、匿名性のある群衆として、「気軽に来てくださいよ」と言うにはすごくいいフレーズなのかなと思います。良くも悪くも、一人じゃ変わらないから気軽に来ていいし、一人じゃ変わらないからつらいときは離脱していいんだよ、と。それくらいのものなんだよと思うというのは、手かなと思います。

―― 「政治的なこと考えないんじゃ駄目でしょう」「よくそう(無関心で)いられるね」という言説はあって、それも難しくさせていますよね。

富永 関心を持たないやつはどうなの、みたいな言説って、私自身も学生に振りかざしがちになっちゃうところがあって。それは本当に反省点だと思うのですが、本にも書いたように、多くの学生は基本的には消費者としてしか社会に関わっていないわけです。納税の問題はリアルではなく、おそらく時給ベースで物事は考えられるけど、月給や年収だと想像が難しい。

当然、社会福祉なども、実感を持って理解するのが難しい。そういう人に対して、「いや、年金問題どう思ってるの?」みたいなことを言うというのは、ちょっと暴力的かな、という感じもします。むちでいたずらに叩いたり、しばくような方法というのは取りたくないな、という感じでしょうか。

―― では最後、逆に、「運動大好きパーソン」という人たちがいるとしたら何を伝えますか?

富永 こういう研究なので、正直言ってあまり好かれていないんだろうな、という感じはするし、それは私が一番つらいところでもありますが、仕方ないのかな、という気はします。ただ、「運動大好きパーソン」が面白がっている面白さだけを掲げても、思うように広がりはしない、と言いたい気持ちもあって。

やっている人が一番強い、知識がある人が一番強いとなったときに、自分とは違う仕方で面白がる人って、そこそこ別の仕方で働いてくれると思うんです。以前、タレントの落合福嗣さんが、アイドルがガンダムのキャラをコスプレしたときに、「そのユニフォームは色が違う。原作に忠実にやれ」みたいなことを言っていて面白かったんですね。

ただ、アイドルが、「この制服かわいいから、私のイメージカラーで着ちゃいました」みたいな面白さというのが社会運動にもあり得るんじゃないかな。

主催者、やっている人が意図しているものとは違う運動の参入への在り方とか、新たな運動のサブカルチャーであり、オルタナティブなクラスタを作っていくということがあるんじゃないかな。私の研究ってすごく冷笑的に見られるかもしれないですが、自分としては、社会運動の新しい魅力や面白さを映し出すようなものであればと思っていますね。

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プロフィール

Fujinos
藤野裕子
東京女子大学現代教養学部准教授

ふじの・ゆうこ/1976年生まれ。博士(文学)。現在、東京女子大学現代教養学部准教授。専門は日本近現代史。主要著書は、『都市と暴動の民衆史―東京・1905-1923年』(有志舎、第42回藤田賞)。毎月一回、ツイキャス(インターネット・ラジオ)の番組「真夜中の補講」で、学術書の著者インタビューや研究・教育の雑感を配信している。

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富永京子
立命館大学産業社会学部准教授

とみなが・きょうこ/1986年生まれ。日本学術振興会特別研究員などを経て、現在、立命館大学産業社会学部准教授。社会学的視角から、人々の生活における政治的側面、社会運動・政治活動の文化的側面を捉える。著書として『社会運動のサブカルチャー化』(せりか書房)、『社会運動と若者』(ナカニシヤ出版)。個人ウェブサイトは https://kyokotominaga.com/

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ホンシェルジュ編集部・芸術/芸能班

音楽、映画、アイドル、その他の芸術/芸能に詳しいライターによる班。もちろん皆が本好きだが、そのレベルや守備範囲はさまざま。日本のエンタテイメントのトップランナーを通じて、本/読書の楽しみへの入り口をつくりたい。あるいは本/読書という切り口を通じて、トップランナーの新たな一面を引きだしたい。

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