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フロイトとユング (講談社学術文庫)

フロイトとユング (講談社学術文庫)

作者 小此木 啓吾 河合 隼雄
出版社 講談社
出版日 2013年12月11日

フロイト派とユング派、日本を代表する両派の第一人者が、精神分析学界の二人の巨人の思想と学問の全貌を語りつくした記念碑的対談。

レビュー

日本の代表的なフロイト派精神分析学者とユング派臨床心理学者による、フロイトとユングの生涯とその思想についての対談。
本書の原本は1978年に思索社より刊行されたとのこと。
それが1989年に第三文明社よりレグルス文庫として再度刊行され、さらに2013年に講談社学術文庫により三たび刊行されたもので、つまり結構古い対談である。
小此木啓吾はその著作(というか本書は対談だが)に触れるのは初めてであるが、さすがにその存在だけは知っていた。
また個人的には河合隼雄は、最もその著作物に触れる機会の多い表現者である。

平易な表現が評判な二人ではあるのだが、本書は古い作品であるためか、彼らにしては表現が詰屈なところが見受けられた。
しかし却ってそこに生々しさが感じられて、そのある意味リアルで切迫した表現が面白くもあった。
古くから慣れ親しんだ河合隼雄であるが、彼の著作は非常に重層的で深みがあるにもかかわらず、その平易な語り口によってスラスラと面白く読むことができてしまい、そこが最大の良さであると同時に、上澄みだけ味わって理解したつもりになってしまう危険性も孕んでいる。(そして正に私などはそうした上滑りの読者であろう。)
またおそらく小此木啓吾の著作も同様なのではないか。

さてこれもまた平易な語り口が評判の哲学者に木田元がいるが、個人的には彼の一連の作品においていわゆる西洋思想史に触れたことによって、河合の発言を再発見したところがある。
端的にいえばそれは現象学になるのだが、そこでちょっとフッサールというか現象学関連の作品にトライしてみようかなと考えているところである。
そのウォーミングアップというか、再発見した河合-ユング的な意味での現象学的な考え方への興味もあって本書を手にした。
しかしながらいわゆる直接的な現象学への言及は殆ど見つけられなかったのだが、それでも現象学に関連した興味深い対話を読むことができた。
少し長いが引用してみる。

河合  ビンスワンガーの長男は自殺するんです。ところで、だれかが自殺すると心理学者はいろいろ説明しますよね。こういう原因で自殺したんだろうとか、母親が悪い、父親が悪いとかね。ところで、これは僕の解釈ですが、ビンスワンガーにとって長男の自殺は説明を絶する事柄で、そこから現存在分析が出てくるんじゃないでしょうか。フィルツというユング派の精神科医もそういっていました。精神分析というのは説明するでしょう。だが生活史的な説明は父親としては拒否したい。だれが悪かったかじゃなくて、死んだという事実から理論を構成しようとしたわけですね。そういうふうに考えると現存在分析が出てきたのがよくわかるのです。しかし、その背景には、ユングなりフロイトなりの理論とプラクティスはずっと矛盾せずにあったんでしょうね。要するに、中核的なところは説明しつくせるものではないということを宣言したかったのではないかと思うんです。現存在分析みたいな考え方に対して、フロイト派の方々はどうお考えなのですか。
小此木 一つには、あんな難しいことをいわなくても、フロイトの中にもああいう考え方はあるのだからと、比較的認めようとしない考え方があります。しかし、僕などはビンスワンガーもそうですし、特にメダルト・ボス(スイスの精神科医、精神分析家)になってくると親近感が強いですね。
 フロイトの実際の症例の中には、現象を現象それ自体として把握し、発生的に説明する以前の問題があると思うんです。そういう意味でポジションのことも現存在分析的なものとつながってくると思うんです。ですから、そこを明確にとらえるところは、現存在分析の方法論上の意義を評価することになるのではないでしょうか。ただ、それはフロイト的な実践の上にのっかった、一つの方法論的なものとして出てくると受け入れやすいが、ときによると、その基礎にハイデッガーの理論などが出てきて、哲学的思弁になりやすい。基礎になる治療的理解と離れた解釈学になってしまうという弊害に対しては批判的にならざるをえないですね。
河合  ほとんど同感ですね。亡くなられた三好郁男さんがボスのところにおられて、同時期にチューリッヒにいたのですが、ユング研究所でお会いしたわけです。彼が、日本で現存在分析という人がプラクティスを知らないということを強調していましたね。ボスのところでもまず自由連想とかやるんだが、日本ではそういうのを抜きにして本を読むだけだから誤解があるんじゃないか。もっと臨床と実際とを密着させてやらねばならないって、その臨床の段階ではフロイト派とあまり変わらない。そういうものを積み上げてあそこへ到達するのに、到達点からの本を読み、現象学といいながら現象から離れたことをやっている人が日本には多いんじゃないかと。
小此木 三好先生がチューリッヒから帰っていらっしゃったとき、あなたにいいお土産があるとおっしゃって「メダルト・ボスにはライヒが絡んでいますよ。ボスはライヒから教育分析を受けているんです」と教えてくださった。僕にはその一言が、いろいろなことを理解するのに非常に参考になりました。ライヒは状況分析ということで、フロイトがはっきりさせていなかった部分をはっきりさせるでしょう。ボスがライヒの状況分析の方法を知っていて発展させたとすれば理解しやすいわけです。ネオ・フロイディアンの精神分析でも、方法論としてその点が問題で、ランク、ライヒ、フェレンツィの三人が現在とフロイトをつなぐ意味で重要だと思います。
河合  それぞれがアンチテーゼを持っているわけで、それから派が分かれますね。クラインもフェレンツィからですか。
小此木 そうですが、クラインになるとフロイトの弟子というより、カール・アブラハムの弟子ですね。現存在分析はユング派の場合とどう違ってくるのでしょうか。
河合  まあ、ユング派にもいろいろいるわけですが、元型などを実体化してしまう可能性があるんです。そこをボスはつついています。たしかにアニマとかシャドー(影)を実体化してとらえてしまうとおかしくなります。どうしても図式的に解釈しがちになると、ボスがいうような現象学じゃなくなりますから。つまり、ユングがやってきたことはボスのやっていたこととそれほど違わないのかもしれないけれど、弟子になるほどドグマ的になりますから、現存在分析の人たちはその点を批判するわけですね。 
しかし、ボスが究極的にいっていることを取り上げた場合、プラクティスは出てきにくいと私は思うのです。たとえば私が、猫が窓から入ってきた夢を見た場合、それが何を意味するかといえば、猫が窓から入ってきたということが一番正確であって、その猫が父親だとか母親だとかアニマだとかいうのは間違っているわけですよ。でも間違っているもののほうがピンとくることがありますよね。つまり私にとっての言い換えがあるわけです。もちろん、それが言い換えじゃなくて教条主義的になってしまうと、ボスの批判どおりになってしまいますが、ボスのいうことだけ知っていてもどうしようもない。でも、このごろはユング派の人たちと現存在分析の人たちとは、わりあい交流しているようですよ。
小此木 現在ではもう常識になっていますが、実際の治療経験と、フロイトが理論構成として概念化しているシステムとの間には大きなギャップがあるということは、フロイトの大きな特徴になっています。そこには二つ問題があって、一つはフロイトを制約していた一番大きな問題で、もともと神経学者であったことから出てくると思うのですが、常にメディカルなモデルに固執し続けたということ、もう一つはユダヤ人コンプレックスです。その点、ユングのほうがプラクティスと理論とを治療の中に生かしていくということがあったんじゃないですか。
河合  そうです。治療しながら考えていくと理論につながってくる。フロイトの場合は、翻訳しなおさなければいけないという問題がありますね。それから、メディカル・モデルも自然科学のモデル、当時としては、精神分析をそのようなモデルに合わせて全世界的なものにしなくてはならないということがあったが、今ではそれがかえって制約になっているのではないでしょうか。
小此木 そこが、前にも話しましたようにユダヤ人問題とつながってくるのですが、普遍的な科学に非常に希望を持っていて、その一つとして精神分析をつくろうとしたわけです。それが現在から見れば普遍的ではなく十九世紀的自然科学なんですが。
河合  現存在分析がその点を批判するのは当たっているんですが、それだけいっていても動きようがないと思うのです。人間は悲しいことに、心の中に何かモデルを持っていないと動かないのですが、そういうとき、プラクティスのモデルは、フロイトやユングのモデルのほうがやはり強いですね。そんなことが、私の現存在分析に感じるところです。
(引用終わり)

ちなみに「現存在」というのはハイデッガーの概念であり、また「現存在分析」もその影響を受けているそうである。

さて上に引用した部分はそのままでも興味深いと思うし、また直接的にはいわゆる治療行為と純粋な学問との相違というか優先度の違いなどが話されているが、個人的な妄想としては、実はここには思想としての「現象学」のキモも含まれているのではと感じるところがある。
つまりそれまでのいわゆる形而上学と、その後の哲学(木田元的には反哲学)を分ける要因に関連するのではないかという妄想なのだが。
直接的には現象学を学んだことも、フッサールもハイデッガーも読んだことのない無知蒙昧の私の妄想のため、全くの見当違いの可能性は大なのだが、まあそれは今後の読書の楽しみとしておきたい。

ところで現象学とは関係ない事柄でも本書には多くの興味深い示唆に富んでいるのだが、その点にも少し触れておきたい。

いわゆる西洋社会と違って、日本は父性原理の働きが極めて弱く、基本的に母性原理の支配する社会であるとの指摘は、河合によって様々の著作でなされてきており、本書においてもそれは変わらない。
しかしそれに加えて、本書では次のような指摘がされている。

「~非常に洗練されていない父性、生の父性を一番持っているのは現代の日本の女性でしょう。それはしかし、社会の改革とか変革という点から見ると、非常に面白いなあと思っているんですけれども。」

前述の通り本書の原本は1978年の刊行であるため、この指摘は直接的には例えば「ウーマンリブ運動」などが念頭にあったとも考えられるが、しかし例えばジェンダーフリーな考え方を持ったいわゆる進歩的でリベラルな方々のなかの一部の人々による抑圧的で断定的な言動や、「ポリティカル・コネクトネスv.sポリコレ棒」の対立というか齟齬を生んでいる現象など、期せずして日本での今日的な状況への考察にもなり得ている気もした。
(もちろんこれらは日本特有の状況ではなく、いわゆる先進国においてはある程度共通なのであろうが、それでも例えばMeToo運動の展開や広がりかたの欧米との差異を鑑みるに、共通しつつも日本特有のものはあるようにも感じる。
また逆に、現代欧米においても父性原理一辺倒から変化が見られるとの指摘も、本書ではなされている。)

そのほかにも母性原理が支配する日本であるが、それでもアジアの中ではまだ父性原理が働いている方だとの指摘も面白かった。

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