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時間はどこで生まれるのか (集英社新書)

時間はどこで生まれるのか (集英社新書)

作者 橋元 淳一郎
出版社 集英社
出版日 2006年12月14日

目からウロコの画期的な時間論、登場!
なぜ過去は変えられないのに、未来は未知であるのか? どうして時間は過去から未来へ流れていると感じられるのか? 相対論や量子力学などの知見を踏まえつつ、素朴な疑問に答える刺激的な時間論。

レビュー

「目からウロコの落ちるような時間論に出会わないのである。
その最大の理由は、近代以降の哲学と科学の乖離にあるのだと思う。
おこがましいことと叱責を受けるのを覚悟でいえば、現代の哲学者が説く時間論は、現代物理学(おもに相対論と量子論)が明らかにした時間の本性をほとんど無視している。すなわち、ニュートン流の絶対空間・絶対時間の考え方に未だに囚われている。
一方、科学者による時間論は、科学の枠から出ることがない。けっして人間的時間に立ち入ろうとしない。要するに、時間はどうして過去から未来へと流れているのだろうか、というような素朴な疑問に答えてくれず、面白くない。」p8-9
ということで本書は「現代物理学を踏まえて哲学的に時間論を捉えなおそうとする試み」であり、要するに哲学的考察の書物である。

ところで本書は純粋に「時間の発生を科学的に解説する書物」だと思っていたので、読みはじめて予想と違った事に気がつくという、当初の期待と違った作品であった。
また「現代物理学を踏まえた哲学的時間論はほとんど存在しない」のは本当なのかも個人的には不明であったが、そうであってもなくても本書の試みは興味深いものであると感じたため、新たな期待を持って本書を読み進めることになった。

そもそも特に科学的な知見が元になっている書物は、私の知能レベルでの評価は困難であるため本書の主張もその是非を評価することはできないのだが、それでも一定の興味深い主張がなされているとは感じられた。
しかし同時に本書の内容と理論展開にはいくつかの疑問が感じられたことも事実であった。

例えばこんな表現がある。
「生命の行動には、なんらかのアルゴリズム(あらかじめ組み込まれた行動の手順)があるのかもしれない。しかし、それは機械として作られたロボットのアルゴリズムではなく、生きる『意志』によって創られたアルゴリズムなのである。生命は自動機械ではない。最初はそうであったかもしれないが、自然選択の圧力が、機械から自由意志をもつ存在へと、生命を進化させたのである。」p119

反論というほどのものではないのだが、本当かなとは感じる。
もう少し丁寧にいえば、例えば最新の脳科学的見地を鑑みるに「自由意志」というものには、もっと慎重な取り扱いが必要なのではないかと感じる。
また「自然選択の圧力が~進化させた」という表現も素朴に使い過ぎていないのかという気もする。
こういった疑問の持ち方は、もちろん重箱の隅をつつく感はあるのだが、それは「現代科学を踏まえる」と著者自身が宣言しているためであって、逆にいうとこちらの期待が高まっているともいえる。

またこんな表現もある。
「非因果律領域の意味することは、そのような領域にある事象は、けっして今現在の私(座標の原点)と因果関係をもてないということである(因果関係を持つためには、光速を超える情報伝達手段が必要である)。その領域にある事象は、今現在の私にとって、過去でもないし未来ではない。ある意味で、存在しない世界といっていいのである。比喩的にいえば、『あの世』である。」p33-34

ここでは「光速を超える情報手段」に関してのこれ以上の言及や考察の展開もない。
しかし本書の後ろにて「波動の収束」についての説明があるのだが、例えばベルの不等式が破れることを考えると、波動の収束は光速を超えて起こる(もしくは波動を収束させる情報は光速を超えて伝わる)と考えられるのではないだろうか。
また上記は量子論的な超光速の考察であるが、相対論的にも「加速して光速を超える」ことは禁止していても「初めから超高速の存在」までは禁止していないのではないのだろうか。
現代科学を踏まえた時間論であるならば、この辺りの見解も知りたいところではあった。

また著者は自称理系人間だそうだが、上記のような科学的な面での主張以外に、例えば文系であろう哲学的な面ではこういった表現もある。
ちなみにこれは上記「自然選択の圧力が、機械から自由意志をもつ存在へと、生命を進化させたのである。」との文章の直前部分である。
「ハイデガーは『存在と時間』において、世界-内-存在としての現存在に関わるカテゴリーとして「道具」と「配慮」を登場させたが、前にも触れたように、それを生命レベルにまで突き詰めれば、外の世界にある獲物、敵、異性(ただし一般のバクテリアには性はない)という存在(=道具)と、それへの働きかけー食う、逃げる、交尾する(あるいは自己増殖する)、という行動(=配慮)に尽きるであろう。」p118-119

またこれ以外にも複数頁でハイデガーの「時間と存在」の解釈が見られる。
こちらも反論といったものではなく、さらに私はハイデガーの「存在と時間」への理解もほぼないのだが、単純にこのハイデガー解釈と理論展開は妥当なのだろうかとは感じた。

例えば以上のような疑問点や論理展開に関するいささかの心許なさを感じながらも、こちらの知能レベルと知識レベルの低さによってその是非の判断は保留されることになった。
しかしながら本書の指摘内容と考察、そして結論は実は鋭いのかも知れないとも感じるし、先に書いた通りいずれにしても本書の内容は「一定の興味深い主張がなされている」と感じられたことも事実である。
そういった意味でも、私自身が今後さらに読書を重ね、知能レベルは兎も角として、少なくとも知識量が増えた後には、再読してみたいと思わせる書物ではあった。

なお本書は本文(8~138頁)のうしろに、付録(139~165頁)・参考文献解説(166~183頁)・註(184~186頁)が付いているのだが、こちらの重みも本文と同等であることも付記しておく。

さてここからは余談であるが、上記の通り本書の目的は「現代物理学を踏まえて哲学的に時間論を捉えなおそうとする試み」である。
しかしながら実のところ、科学解説書とか科学啓蒙書の類はことさら著者が哲学的解釈を加えなくとも、読者の方で自然に哲学的解釈をしてしまうものではないだろうか。
もしくは哲学的解釈などと大げさなものでなくとも、その科学的事実を元にしてさまざまな水平展開とか拡大解釈をしないだろうか。
少なくとも私は自動的にそうしてしまうし、またそういったある種の妄想が楽しくて仕方がない。
単に知識を得るだけでなく、そういった空想も含めて科学解説書とか科学啓蒙書を読む喜びであると感じるがどうであろうか。

ちなみに、本書での著者の思惑を超えて読者として妄想を広げて楽しめた部分を書いておくと、例えば本書の「私の時間は私だけのものであって、他人には共有されない」といった主張であった。
これなどは例のクオリア問題(主体的実感の本質は何か)と通底する何かを含んでいるのではないかとの妄想をくすぐった主張であった。

というわけで、科学解説書には著者の哲学的解釈がなくても読者がそうした想像を膨らませるものだとは思うのだが、それは読者側の勝手な楽しみであって、著者が哲学的な解釈を主目的とすることは自由であるし、もちろんそこに何の問題もないことはいうまでもない。

<とっても蛇足>
本書は「やっぱ志ん生だな!:ビートたけし」に続いて読んだものであるが、それのレビューでも書いた通り、そもそも「象徴形式としての遠近法:エルヴィン・パノフスキー」と「方程式のガロア群:金重明」が読書途中であった。
それは私の読書力・理解力不足によるものであるが、それと同時にとくにここ2~3週間は体調が非常に悪く、そもそも本を読む気力を失っていたのも事実であった。
そのような状況下であったが、ツンドク本の中から本書を見つけてパラパラとめくったところ、比較的平易な文書に惹かれて本書をチョイスした次第であった。

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