人間椅子・和嶋慎治が選ぶ「色川武大と阿佐田哲也」

人間椅子・和嶋慎治が選ぶ「色川武大と阿佐田哲也」

更新:2021.12.12

本は何かの義務で読むものでも、無理して読むものでもない。いみじくも内田百閒の言葉にあるように、「目はそんなものを見るための物ではなさそうな気がする(読書について)」「人間の手は、字を書くのに使うものではなさそうな気がする(文筆について)」。

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本は何かの義務で読むものでも、無理して読むものでもない。いみじくも内田百閒の言葉にあるように、「目はそんなものを見るための物ではなさそうな気がする(読書について)」「人間の手は、字を書くのに使うものではなさそうな気がする(文筆について)」。

もっともだ。人間の目や手は、まず生活と愛情のために使われるべきだろう。あるいは逼迫した事態のときに。本は読みたかったら読めばいいし、気が進まなかったら頁を繰る必要もない。本とは読まれるのを待っているものであって、向こうから勝手にやって来るものではないからだ。そこが本の良さでもある。

数年ほど、まったく小説を読まない時期があった。それは自分が大貧乏にあえいでいた頃で、他人が作った話を読んでも腹が満たされるわけではなし、また煩悶する精神に何らかの曙光が差すのでもない。絵空事であればあるほど、つまらない。

小説どころか、テレビ、映画、スポーツ、エンターテインメントと呼ばれるもののほとんどが遠い世界の出来事に思えて、いたずらに苦痛を覚える(以来、いまだに僕はテレビを見る必要を感じない)。それでも活字には愛着があったのか、なけなしのお金をはたいて、時々は古本屋で哲学や宗教の本を買った。

もう自分は小説に心を躍らせることなどないかもしれないな、そんなことを思い始めていたある日。病院の待合室で、所在なさにたまたま置いてあった少年漫画誌を手に取った。適当に読み飛ばすうち、ある漫画だけが矢鱈に面白く感じられた。

「哲也―雀聖と呼ばれた男」──少年漫画に今時麻雀とは場違いな気もしたし、また自分はギャンブルに興味などない。しかし、およそスマートとはいえないキャラクターたちの、何と生き生きとして魅力的なことだろう。有り体にいって、その頃の僕のやさぐれた気持ちに見事に合致したのだ、すぐさま既刊のコミックスを漫画喫茶で読破し、作家・阿佐田哲也がモデルらしいというので、次には氏の作品を読み漁った。

驚愕した。率直な感想を述べるならば、小説は捨てたもんじゃない、だ。これまでにこのような作風は読んだことがない。いわゆるインテリが書いたものとはまったく違っていて、鼻につく嫌味などなく教条的でもない、登場人物のほとんどが放蕩者であるにもかかわらず、そこはかとなく優しさと上品な香りさえ漂っている。何より、生きた文章である。

世の中にはまだまだ読むべきものがあるし面白いものがたくさんある、そのことを教えてくれた阿佐田哲也──色川武大の作品を、今回は紹介してみたい。

「麻雀放浪記(一)青春編」 阿佐田哲也

著者
阿佐田 哲也
出版日
冒頭部分からして、ぐいぐいと作品に引き込まれる。終戦直後、人々がいかに今日を生きるかに汲々としていた時代、豪雨の上野のチンチロ部落にフリークスのような男たちが集まって来る。即席の鉄火場。明けて翌朝、御徒町のバラックにて供される銀シャリと熱い味噌汁──緊張と緩和である。大衆小説はこうでなくてはと思わせる。

阿佐田哲也名義は、本来純文学作品を書きたかった色川武大(本名)が、原稿料稼ぎのためにやむなく始めたものだというが、肩に余計な力が入っていないせいか実に伸び伸びと筆致が冴え渡っている。

散りばめられた麻雀の符牒、イカサマ技の数々も面白いし(専門用語ほど人は興味津々になる)、登場人物がまた個性的で痛快である。誰一人としてまともな人間はいない。皆欠点と葛藤と弱さを抱えつつ、勝手気儘に、むき出しの生を生きている。ただのピカレスクロマンといってしまうのは簡単だが、人間は自由に生きれば不格好にならざるを得ない、しかしそうした在り方こそ魅力を放つと示唆してくれるようである。

本巻の末尾に坊や哲は、死闘の卓を囲んだ仲間のような敵のような男たちに精一杯の友情を抱く。同様に読者もまた最後には、上州虎に、ドサ健に、出目徳に、女衒の達にいいしれぬ愛情を感じているはずである。

「ギャンブル党狼派」 阿佐田哲也

著者
阿佐田 哲也
出版日
阿佐田哲也に心酔するといやでも麻雀を覚えたくなる。むろんルールに不案内でもどの作品も楽しめるが、最低限手役ぐらいは知っておかないとさっぱり分からない部分が出てくる。僕も何冊か麻雀入門書を購入し、覚えた。その頃の仕事仲間と連れ立って雀荘で徹マンもした。やはり彼らに対し不思議な友情が芽生え、僕が初心者だからかもしれないが、負かした相手にすまないという気持ちすら湧いた。

麻雀小説だけでいうなら『牌の魔術師』が秀作揃いでお薦め。が、ここではもう一冊、文学的香りのある『ギャンブル党狼派』を挙げておきたい。

第一話スイギン松ちゃん。松ちゃんが窃盗したバイクを転売するために、「私」を後ろに乗せて埼玉県の浦和に向かう。町はずれの林の中には焚火が焚かれ、怪しい男たちが右往左往している。ほんの短い挿話だが、暗がりに蠢く不埒な男たちの姿がありありと目に浮かんでくるようで、卓越した描写力だ。

第三話シュウシャインの周坊。友だちが欲しかった。……書き出しのこの一文だけでノックアウト。そうだ、阿佐田哲也(色川武大)の小説の最大の特徴とは、人間は絶対的に孤独だとの認識に尽きる。だからいたずらに他人とは馴れ合いにならないし、他者への容認、優しい視点も自然と生まれてくる。孤独と屈託、それに由来する弱さは誰しも抱えているものであり、そのことを笑ったり責めたりしてはいけないのである。

阿佐田の小説を色に例えるならば、モノトーン、それも軽佻浮薄なところのない沈潜した黒だろう。

「怪しい来客簿」 色川武大

著者
色川 武大
出版日
阿佐田名義の麻雀小説を経た後、見事復活を遂げた色川武大の作品集(色川の名前では、過去に新人賞を取った後、しばし断筆している)。どの作品も恐ろしい。麻雀縛りがない分、阿佐田小説よりもさらに人物が濃密に描かれている。

鬱屈した少年時代をともに過ごし、やがて筆者とは対照的なまっとうなコースを苦しげに選んでいった級友大滝(門の前の青春)、興行場の客席で常に奇ッ怪な掛け声を飛ばす、紫の着物をまとった魔女のような女(月は東に日は西に)、ドヤ街で知り合った無邪気な少女美千代、後年邂逅した折には象のように太り精神に異常をきたしていた(とんがれ とんがり とんがる)。

相変わらず、スマートで小器用な人間は一人も出て来ない。正直に生きようとするからなのかどうにも世の中と折り合いをつけられず、おおむね人生に破綻をきたしていく。ならば自分を殺して何かを捨てて、無表情に社会に埋没していくべきなのか。優しくも冷徹な色川の視線は、生きるとはそうではない、良識からはみ出てしまう不格好さこそ人生の妙味であるといっているようである。

『怪しい来客簿』の収録作ではないが、「連笑」という作品の中の一節が、色川の人生観をよく表している。弟の結婚式に出席した「私」は、心の中で次のように弟に呟く。

おい、お前、こんな程度の晴れがましさを本気で受入れちゃ駄目だぞ。(中略)式次第で生きるなよ。(中略)あとはどうやってはみだしていくかだ。とにかく、淋しく生きるなよ──。

「生家へ」 色川武大

著者
色川 武大
出版日
2001-05-10
色川がナルコレプシーというのは有名な話である。持続睡眠が取れず、代わりに日に何度も暴力的な睡眠発作に襲われる。逸話も多く、吸い殻を捨て牌したとか、乗馬鞭で猿の幻覚と格闘していたとか……。そのせいか、夢とうつつの境目のはっきりしない、奇妙で不安な味わいのある作品を多くものしている。いきおい、存在とは何かを我々に問うてくる。よく内田百閒が引き合いに出される所以である。

『生家へ』は、その夢の影が色濃い作品群。内省的だから、読んでいてけして楽しい気持ちにはならない。作品7──放埓ゆえたまにしか自室に戻らない「私」。ある時から大量の猫と小動物、昆虫が住み着き出す。彼らと同じように私も外に出ていき、立ち戻って来る。私がいても驚くでもなく、彼らは私を同格に扱っている。私も鼠と猫の戦いに参加したりする。この生き物に区別をつけない様は、ほとんど悉有仏性的といっていい。

色川は家族、分けても父親にこだわる。初期作『黒い布』から晩年に近い作品『永日』まで一貫してそうだ。物心ついた時から、もっとも人間の不可解さを感じさせる存在として、常に身近にいたからだろう。作品5は、その父親が生家の床下に防空壕を掘る話。もともと偏執的なところのある父親は、あたかも自分の居場所を見つけたかのごとく穴掘りに没入し、やがて穴は防空壕の域を越え無節操に床下を侵食し、家屋が傾ぐまでになる。世の中と馴れ合いで手を組むもんかと矜持を抱え(この矜持という言葉。数年前に復権を果たしたのは、矜持を多用する阿佐田小説の再ブームがあったからにほかならないだろう)、内向する屈託で爆発しそうになっている色川本人の父親もまた、屈託の人であった。

「喰いたい放題」 色川武大

著者
色川 武大
出版日
2006-04-12
よき小説家はまた、よき随筆家でもある。色川はエッセイも抜群に面白い。が、エッセイに限っていえば色川と阿佐田の区別はほとんどない。ギャンブルを扱えば阿佐田、ぐらいの違いである。

広範な交友録、浅草の芸人もの、旧い映画の紹介、いずれも膨大な知識と記憶力──あえて尊敬の念を込めていうが、けしてアカデミックではない知識──に驚かされるが、通底するのは創作もの以上の他人への優しさ、愛情である。
「喰いたい放題」は、その名の通り食べ物に焦点を絞ったもの。若い頃は痩せぎすだったといい条、巨大な体躯を誇る色川の面目躍如である。もちろん高級な料理は出てこない。冷やしワンタンだとかフリカケだとか、ソバ、豆かん、カレー、コロッケ、果ては水。

出色の出来は「あつあつのできたて姐ちゃん」。なんでもナルコレプシーのため、寝ぼけて題名だけ先に決めてしまったようで、落語の三題噺のように思いつくがままに話が進んでいく。最後に「アツイよ、アツイよー!」。あッと読者は膝を叩き、合点する。もはやエッセイを越え、小噺とも小説ともつかないものになっている。幼い頃に学校をサボり、浅草の劇場や寄席に日参したという色川にしか書けない小品である。

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  • 本と音楽

    バンドマンやソロ・アーティスト、民族楽器奏者や音楽雑誌編集者など音楽に関連するひとびとが、本好きのコンシェルジュとして、おすすめの本を紹介します。小説に漫画、写真集にビジネス書、自然科学書やスピリチュアル本も。幅広い本と出会えます。インタビューも。

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