上海の歴史を学ぶ5冊の本!大正・昭和の文豪が描く「東洋のパリ」

更新:2021.12.16

中国・上海——かつて東洋一の栄華を誇り「東洋のパリ」と呼ばれたその場所は、多くの文豪たちの心をも惹きつけていました。今回はそんな上海の歴史を学ぶ5冊をご紹介します。

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芥川龍之介の言葉で活き活きと描かれる上海

芥川龍之介と言えば、日本を代表する文豪の一人ですが、彼がかつて新聞社で働いていたことを知っている人は少ないのではないでしょうか。芥川は1919年27歳の時に大阪毎日新聞社に入社し、その年に結婚します。入社2年後に、大阪毎日新聞社海外視察員として中国を訪問。その時訪れた上海・江南での出来事を記したのがこの『上海游記・江南游記』です。

 

著者
芥川 龍之介
出版日
2001-10-10


芥川龍之介のシンプルだけど洒落の効いた文章の端々から、彼がどれほどこの旅行を楽しんだかが伝わって来ます。一緒に中国に行ったのは村田君、友住君、そしてジョオンズ君。中国に降り立つと、彼ら4人を我先に客を取ろうとする車屋達が囲みます。やっとのことでそれを切り抜け、馬車に乗った時のことをこんな風に記しています。

「我我はこの車屋の包圍を切り抜けてから、やつと馬車の上の客になつた。が、その馬車も動き出したと思ふと、忽ち馬が無鐡砲に、街角の煉瓦塀と衝突してしまつた。若い支那人の馭者は腹立たしさうに、びしびしと馬を毆りつける。馬は煉瓦塀に鼻をつけた儘、無暗に尻ばかり踊らせている。(中略)どうも上海では死を決しないと、うつかり馬車へも乗れないらしい。」(『上海游記・江南游記』より引用)

仕事仲間と戯けて顔を見合わせて、その顔からもクスクス笑みが溢れている様子が浮かんでくるようです。また、現地の乞食についてもこんな風に記しています。

「乞食と云ふものは、ロマンテイツクそのものである。(中略)新聞紙の反故しか着ていなかつたり、石榴のやうに肉の腐つた膝頭をべろべろ舐めていたり、——要するに少少恐縮する程、ロマンテイツクに出来上つている。」(『上海游記・江南游記』より引用)

見るもの全てが目新しく、体験すること全てが彼を楽しませる。そんな芥川の気持ちの高揚感がシンプルな彼の言葉の良い肉付けになっていて、いくら平然を装っても、仲間達とはしゃいでいる若かりし頃の芥川の笑声が聞こえて来るようです。

この上海・江南旅行の帰国後、芥川龍之介は神経衰弱や腸カタルに悩まされます。そして旅から6年後、田端の自室で服毒自殺により命を断つのです。もしかしたらこの本に描かれている思い出が、苦しかった彼のその後の日々の支えになったのかも知れませんね。

上海の人々との交流を軽快なテンポで描いた作品

1920年代〜1930年代は上海が国際都市へと大きく成長した時期でもあります。世界で流行している新しい文化が西洋から移入され、元々の中国文化と融け合って、独自のオリエンタルな文化を形成していったのです。その頃から上海は「東洋のパリ」と呼ばれるようになりました。

『上海交遊記』の作者は谷崎潤一郎。言わずと知れた日本文学を代表する文豪の一人です。この作品は大正丙寅(1926年)に世に出されました。1926年——まさに上海が国際都市へと成長していく正にその時期を綴った作品なのです。

 

著者
谷崎 潤一郎
出版日


上海で谷崎潤一郎は、若い芸術家達と交流をします。上海が外の流行をどんどん吸収してその存在感を強固にしていくように、上海の芸術家達も勢いよく海外の洗練された書物や知識などを吸収していたのです。

谷崎潤一郎は「上海へ出掛けて行つて一番愉快だつたことは、彼の地の若い芸術家連との交際であつた。」と述べた上でこんなエピソードを記しています。

上海の若い芸術家達と紹興酒を一升以上呑んでぐでんぐでんに酔っ払った谷崎。テーブルスピーチをして若者達の笑いを誘い、やたら胴上げをされたりします。

日本の文豪を思いっきり胴上げする中国人の若者の勢いが、当時の上海の勢いと重なります。谷崎潤一郎の知られざる一面が垣間見える一冊です。

様々な登場人物がリアルに上海を映し出す

この『上海』は、川端康成と共に新感覚派として活躍した横光利一によって書かれました。横光利一の小説は卓越しているとの定評も多く、志賀直哉とともに「小説の神様」と呼ばれています。

横光が初めて上海を訪れたのは1928年。芥川龍之介の勧めがきっかけだったそうです。そしてその4年後の1932年にこの『上海』を発表しています。

 

著者
横光 利一
出版日
2008-02-15


小説の舞台は上海。10年以上日本に帰らず、上海の銀行で上司の不正への加担を繰り返し、自分を見つけられないまま死ぬ方法を考えている参木。参木がかつて愛した女・競子の兄である甲谷など、様々な登場人物の視点から見た上海を描いています。

上海での人種や文化、価値観や思想は多種多様を極めており、呑み込まれないよう、流されないよう自分の足でしっかり立つことが求められています。そんな文化のるつぼであるこの地が浮き彫りにするのは、それぞれの登場人物の不安定さや曖昧模糊たる人生観。その対比を洗練された言葉や行間で描いているのが本作です。

お見事、と拍手を送りたくなること間違いなしです。キラリと光る横光利一の才能に触れてみたい全ての人にお勧めしたい一冊です。ぜひ一読してみてください。

生が輝くのは死が常にそれと共にあるから

どくろ杯——それは、かつて春秋時代の晋の政治家、趙無恤が敵の智瑶の頭部を盃にして酒を呑んだという——人間の頭蓋骨を材料として作られた盃。

この『どくろ杯』は金子光晴の自伝3部作の1冊で、彼の放浪先の中国での出来事について記した作品です。

 

著者
金子 光晴
出版日
2004-08-25


金子光晴は1895年生まれ。1928年、33歳の時に妻である森三千代と中国、ヨーロッパ、東南アジア放浪の旅に出ます。この『どくろ杯』は彼が70代になってから40年ほど昔の出来事を思い出して書かれた自伝なのです。

「陰謀と阿片と、売春の上海は、蒜と油と、煎薬と腐敗物と、人間の消耗のにおいがまざりあった、なんとも言えない体臭でむせかえり、また、その臭気の忘れられない魅惑が、人をとらえて離さないところであった。」(『どくろ杯』より引用)

金子光晴が訪れた時、上海はちょうど国際都市への過渡期の真っ只中でした。そこには勢いに乗って急上昇するような活気付いた経済活動もありましたが、その一方で波に置いて行かれて置いていかれた貧困や侘しさもありました。

そして彼自身も、生き延びることさえ困難なような貧乏生活を上海で経験します。その記述からは、想像を絶する厳しい困窮した生活を垣間見ることも出来ますが、彼の文章はいたって淡々としています。むしろ、放浪中の彼の「生」に「死」が接近することで、彼の「生」をよりいっそう輝かせている様にも見えるのです。

何度も繰り返して読めば読むほど、言葉が心に染み渡るような情緒的雰囲気漂う上質な自伝です。ぜひ、あなたの本棚の新しい一冊にして下さい。

芥川賞作家が描く国際都市上海

『上海にて』は堀田善衛が1945年に上海に渡った時の回想と、10年後に再訪した際の出来事を記した歴史的エッセイ。堀田が見た国際都市上海を、感じるままに、生々しく、ありのままに記したのがこの作品なのです。

 

著者
堀田 善衛
出版日


「上海の十日間は、強烈な経験であった。(中略)ほとんどその一切が様相を、それこそ革命的に変えているとき、人は懐旧の情にふけるわけにも行かず、といって、日本の戦災都市が一変して復興したのとは違い、たとえば建物ならば、建物は、実にむかしのままにそこにあるのだから、以前の映像とそれがかさなるのをさけることも出来ず、奇妙に困惑してしまうのである。」(『上海にて』より引用)

今ではもう、伝え聞く機会も少なくなりつつある1945年の日本の様子や、上海の様子を知ることのできる非常に貴重な書です。「堀田善衛の上海エッセイ」というモチーフと「堀田善衛という歴史の証言者」というモチーフが上手く織り混ざった興味深い作品です。

いかがでしたでしょうか?日本の文豪が描く上海は、私たちの頭の中の上海のイメージとは違うかも知れません。その答えをぜひ自分の目で確かめて見てください。

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