楠木正成のおすすめ小説5選!知っておくべき逸話や名言も紹介

更新:2021.12.20

楠木正成は南北朝時代の武将で、足利尊氏や新田義貞とともに鎌倉幕府を倒した人物です。後醍醐天皇に忠義を尽くし、誠実で優れた人物として知られています。今回はそんな彼の生涯、知っておくべき逸話、名言、そしておすすめの小説を厳選してご紹介します。

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楠木正成の生涯。『太平記』で英雄として描かれた男

楠木正成は南北朝時代に活躍した武将で、後醍醐天皇を助け、足利尊氏らとともに鎌倉幕府を倒した人物です。日本最長の歴史文学とされている『太平記』においても、智・仁・勇の三徳を備えた英雄として描かれ、一般的に賢才武略の勇士として知られています。

彼の出生や幼少期のことははっきりと分かっていませんが、1294年生まれではないかと言われています。大阪河内の土豪であったという説や駿河国や武蔵国出身という説もあり、はっきりと歴史舞台に登場してくるのは1331年に起きた「元弘の乱」の直前からです。 

後醍醐天皇がたてた倒幕計画に参加することを決めた正成は、1331年に挙兵します。しかし京都で起きた「笠置山の戦い」で敗北し、後醍醐天皇は隠岐島へ流罪となりました。

彼は天皇がいない間も、幕府軍と戦い続けます。足利尊氏や新田貞義らも挙兵し、1333年、「千早城の戦い」で鎌倉幕府を滅ぼすことに成功したのです。

鎌倉幕府が滅んで後醍醐天皇が京都に戻り、「建武の新政」が始まると、正成は記録所寄人、雑訴決断所奉行人、河内・和泉の守護を兼任します。天皇からの信頼も厚く、同じく待遇を受けた結城親光、名和長年、千種忠顕と共に三木一草と呼ばれました。

その後、後醍醐天皇は天皇主導の独裁社会を作ろうとしていくのですが、それに対して武士たちの反発が起こります。

1335年、足利尊氏が鎌倉で武家政権復活のために挙兵。正成は義貞らと共に、京へ攻めてきた足利軍と戦います。敗北した足利軍は九州へ逃げ延びました。

1336年、九州から再び足利軍が京へ攻めてきます。正成は天皇軍のなかの武士も足利軍につくものが多いことや、武士たちを抑えるには尊氏のような人物が必要だと考えたことから、天皇に尊氏との和睦を進言。しかし聞き入れられることはありませんでした。

天皇を比叡山に移し、京都で足利軍を挟み撃ちにする作戦も却下され、結局湊川で足利軍を迎え撃つことになります。この戦で敗れた彼は自害。享年43歳でした。

楠木正成の戦術は?「千早城の戦い」でなぜ勝利できたのか。

1333年の「千早城の戦い」は、正成軍がおよそ1000人、それに対し幕府軍は数万から数十万人いたとされています。こんなにも戦力の差があったのに、彼らはなぜ勝利することがすることができたのでしょうか。

そこには、正成の冷静で知略に長けた戦術がありました。

・わら人形作戦

幕府軍が兵糧攻めを狙っていたため、正成軍も籠城生活が長くなっていました。そんな時彼は、退屈している兵士たちにわら人形を作らせます。できあがった人形に甲冑を着せたり槍を持たせたりしたものを、夜のうちに城外に並べるのです。

朝方、兵士たちに鬨の声をあげさせると、勘違いをした幕府軍はわら人形へ殺到。そこへ城の上から大量の石を投げ落として攻撃しました。

この作戦で幕府軍の約800人が死傷したそうです。

・長梯子の計 

ある時、幕府軍は、近くの山から千早城の城壁に大きな橋を架けて攻め入る作戦をたてました。およそ500人の大工を集め、60メートル以上の橋を完成させます。できあがったものを滑車と数千本の縄を使って城壁に架け、いっきに5000人以上の兵士が城へ殺到しようとしました。

しかし敵のこの動きを読んでいた正成。用意していた松明に火をつけて投げると同時に、油を入れた水鉄砲を使って橋を濡らしていきます。

幕府軍の前方の兵士はこれに気づいて後退しようとするも、後ろから次々と自軍が続いていて下がることができず、また橋の下も谷が深かったため飛び降りることができず、そうこうしているうちに橋が燃えて折れ、数千人が亡くなったそうです。

楠木正成と「天皇」にまつわる3つの逸話。皇居の正成像はプロパガンダ?

1:戦前の教科書では忠臣として取り扱われていた

天皇の忠臣として今でも祀られている楠木正成ですが、そもそも彼が持ちあげられるようになった理由は、明治維新の時に天皇の権威を強めるために、「天皇を尊びそれに歯向かうのは賊である」という教育をしたことにありました。

そのため戦前は、後醍醐天皇に味方した正成は正義、逆にそれに敵対した足利尊氏は賊であるという教育がなされていました。戦前の教科書で彼は、忠臣の鑑として紹介されています。しかし戦後は、GHQの教育改革によって教科書から1度消されています。

2:天皇に捨て駒にされてしまった

後醍醐天皇の政治は、貴族重視で武士を軽んじるようなものでした。目的は、中国・北宋時代のような天皇を中心とする中央集権です。そのため武士は、後醍醐天皇から離れ、尊氏を担ぎあげます。
 

正成は自分を取り立ててくれた後醍醐天皇のために戦い続けますが、この時すでに天皇の気持ちは彼ら武士ではなく貴族の方に寄ってたのです。その結果、正成も義貞も捨て駒となり、非業の死を遂げてしまうのです。

3:皇居にある銅像の作製には、住友家や高村光雲が関わった

皇居の外苑にある楠木正成像。完成したのは1904年の明治時代で、愛媛県の別子銅山開坑200年を記念して五大商社で有名な住友家から寄贈されたものです。製作者には高村光雲がいます。

明治維新を通じて尊王という価値観を打ち建てた日本政府は、正成を一種のプロバガンダとするために彼を忠臣というキャラクターに仕立て上げ、こうして祭ることにしたのでしょう。日本人には判官びいきのように悲劇のヒーローに同情を寄せる習慣がありますが、彼も同じように環境が違えばもっと長く活躍できたかもしれません。

楠木正成と、足利尊氏・新田義貞の関係は?

新田義貞とはそりが合わなかった?

新田義貞は元々幕府軍にいた敵でしたが、義貞が後に反逆して後醍醐天皇側につきます。それ以降は同僚として尊氏と戦うことになりますが、正成は義貞のことを、武士を引っ張っていけるような人物だとは思っていなかったようです。

その証拠に、1度京にて尊氏を破った際、味方の武士までもが尊氏に従って逃亡してしまったのです。これに対し彼は尊氏と和睦するように後醍醐天皇に進め、義貞には尊氏ほどの魅力はないとも伝えました。しかし後醍醐天皇はそれを聞かず、尊氏と和睦することは生涯ありませんでした。

足利尊氏とは敵味方を越えた信頼関係があった

最期の戦となった湊川の戦いで、正成は尊氏軍に包囲され、孤立してしまいます。成すすべなく撤退し、最期は民家に逃げ延びて自害しました。

後醍醐天皇に味方した正成は、武士にとっては逆賊でした。しかし尊氏は彼の首を家族に送りとどけ、その生活を保障します。尊氏と正成の直接の交流は決して多くはなかったはずですが、身分を越えた好敵手というある意味での信頼関係は、見る者の感動を誘います。

楠木正成の名言と辞世の句

楠木正成は自害する直前、弟の正季と次のような会話をしたといわれています。

正成が正季に最後の願いを聞くと、彼は「7回生まれかわって、朝廷の敵を亡ぼしたい」と述べました。それに対して正成は「罪深き悪念なれども我もかように思うなり。いざさらば、同じく生を変えてこの本懐を達成せん」(自分もそう思う。その願いを達成するために死のう。さらばだ)と言ったそうです。

これが彼の最期の言葉でした。

また彼の名言として有名なものに「足ることを知って、及ばぬことを思うな」というものがあります。

「足ることを知る」とは、現状に感謝して満足せよという意味。そして「及ばぬことを思うな」は、無いものねだりをするなという意味です。

今やるべきことをわかっていて、それをきんとやった人だからこそ言える言葉ではないでしょうか。

悪党としての楠木正成。なぜ天皇とともに戦ったのか。

北方謙三が描く太平記シリーズのひとつです。本書に登場する正成は、ただただ天皇に忠義を尽くす人物ではなく、悪党として己の力で道を切り拓いていき、悩みや弱さもある人間味あふれた男です。

商いをしながら力を蓄え、鎌倉や朝廷の情報を収集している正成。あくまでも悪党として、上を目指していきます。帝の挙兵に呼応して倒幕へ参加しますが、それも帝への忠誠心がはっきりとあったわけではありませんでした。自身と仲間たち、民のために戦っていく正成を感動的に描きます。

著者
北方 謙三
出版日
2003-06-24

本書には悪党という言葉が登場します。これは現在でいう悪者とは少し違い、反領主的な者たちの集団ということです。私有地を横領したり、掠め取ったりして力を付け、水運や陸運にも手を出しています。そして、本作で描かれる楠木正成は武士とは違うのです。武士には反発している悪党という図式が本書を面白くさせている点でしょう。

武士の時代を終わらせようと天皇に加担したにも関わらず、独裁的で利己的な政治をおこなう天皇。それに反発し再び武士社会を作ろうとする足利尊氏は、どちらも悪党・正成の目指す道とは違うものです。

これまで持っていた正成像とは全く違う正成に惹きつけられることでしょう。新たな発見ができる物語です。

楠木正成が主人公の『新太平記』

山岡荘八が描く『新太平記』は、読みやすく物語に入り込みやすいので、『太平記』に興味があるけれど手が出ないと思っている人にぴったりです。楠木正成をはじめ、大塔宮ら後醍醐天皇派の登場人物がとてもかっこよく描かれています。

登場人物が多く人間関係を把握しにくいと思われがちな『太平記』ですが、著者の魅力的な人物描写に引き込まれ、あっという間に読み終えてしまうでしょう。

著者
山岡 荘八
出版日
1986-08-13

本書は正成を中心にして話が進んでいきます。彼は理想のために戦う正義のイメージ、逆に足利尊氏は自分の出世のために生きているというように書かれているので、読者はついつい正成を応援してしまうのではないでしょうか。感情移入する人物がいるということは、物語を楽しむことができる要素のひとつです。

「時に苦戦の時がござりましょうとも、正成一人、いまだ生きて世にありと聞(きこ)し召さば、聖運は必ず開くものと思召し下さりまするよう」(『新太平記』より引用)

正成が後醍醐天皇に言った言葉で、自分さえいれば道は開けるという意味。そしてこの言葉どおり彼は、どんなときも道を切り拓いていくのです。まさに男の中の男といえる正成を堪能できる物語を楽しんでみてください。

楠木正成のドラマチックな歴史小説

正成を主人公とした本書は、堂門冬二らしくドラマチックに描かれた歴史小説です。

親子、兄弟でも争いが絶えなかった南北朝時代に、忠義を尽くし、誰からも信頼される人物であった正成。どんな思いで戦い、何を理想としていたのか、彼の心を覗き見ることができる作品です。

著者
童門 冬二
出版日
2011-09-16

本書からは、正成どんなことをしてどんな役割を果たしたのかということだけでなく、彼の人となりや考え方まで読み取ることができます。後年の武士たちからも敬われた正成のファンになること間違いありません。

また彼の生き方を知ると、誠実に生きることの素晴らしさを改めて感じるはずです。現代の私たちは、彼のように生きられているでしょうか。自らの生き方についても顧みることができる一冊です。

楠木正成と後醍醐天皇

本書は1935年に毎日新聞に連載されていたもの。現代よりもはるかに天皇を敬う気持ちが強かった時代で物語にもその雰囲気が漂っています。正成も喜んで天皇に忠義を尽くした正義の人物です。

連載は倒幕に至った「千早城の戦い」まででしたが、本書にはその他に「湊川の戦い」の様子、その後を描いた「みくまり物語」と著者が正成ゆかりの地を訪ねたエッセイ「楠の葉蔭」が含まれています。

著者
大仏 次郎
出版日

本書の特徴はいわゆる「悪人」が登場しないことです。北条高時にせよ、足利尊氏にせよ、どうしようもない人物であったり野心を抱いたりしてはいましたが、罪のある人物ではありません。特に尊氏に関しては、部下を大切にし規律も整えていた人物とされています。尊氏は、正成が死んだ後「正直で、きれいだった」と敵であった正成を評し、正成も尊氏も立派だったことが読み取れるのです。

命を捧げて天皇のために戦う正成も、その子どもたちも純粋に天皇を崇拝しています。時代が変われば描き方もこんなに違うのだと、驚くことでしょう。他の書籍とはまた違う雰囲気の正成像を読むことができます。

楠木正成の死の謎に迫るミステリー小説

本書は、正成が生きていた時代と現代をつなぎながら物語がくり広げられるミステリー小説です。テンポの良い展開と、彼の死に関する新たな説にワクワクドキドキがとまりません。

彼はなぜ「湊川の戦い」で敗れたのか、その死の謎に迫っていた元特攻隊で歴史研究家の修吉は、謎を解明した直後に何者かに毒を打たれ瀕死の状態に陥ります。孫娘の瑠璃は、同級生で作家の京一郎とともに、祖父を助けるため正成の謎を解明しようと奮闘。太平記に隠された彼の死の真相は何なのでしょうか……。

著者
高田 崇史
出版日
2016-03-15

本書は、正成の死には疑問が残るという視点で進んでいきます。確かに知略・武勇に優れていた彼が、あっさりと負けてしまったことは不思議です。彼の死にまつわる話は、こういう真実も考えられるかもしれないと面白く読めることでしょう。

正成の生き方が特攻隊にまで影響していたという話に、驚くのではないでしょうか。南北朝時代という700年近くも昔の人物にもかかわらず、その心は色あせないのでしょう。純粋にミステリーとしても楽しめますし、正成についても知ることができるおすすめの小説です。

楠木正成は南北朝時代には珍しく、忠義を尽くす誠実な人物だったようですね。後世まで慕われているというのは素晴らしいことです。今回ご紹介しているのは小説ばかりで読みやすいと思いますので、ぜひ史実も創作の世界も楽しんでください。

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