魯迅のおすすめ作品5選!青空文庫でも読める、中国の文豪の名作

更新:2021.11.8

正人君子の仮面をかぶった人間や、周囲にはびこる古臭い伝統主義を徹底的に唾棄した魯迅。日本に留学し、芥川龍之介らの作品を翻訳するなど、日本人作家とのつながりも深かった彼の代表作から、無料の電子図書館「青空文庫」で今すぐ読める作品を中心に紹介します。

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ペンの力で国民精神の改革を目指した作家・魯迅

清朝末期の1881年に中国の紹興で生まれ、辛亥革命を経て、日本軍による侵攻や国家建設でゆれる1936年に55歳で亡くなった魯迅。彼はまさに、中国の大転換期を生きた作家と言えるでしょう。

彼が文芸の道に進むことを決意したのは25歳、日本留学中のことでした。仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)の授業でたまたま見せられた、日露戦争のニューススライド。そこに映っていたのは、ロシア軍に協力したとして見せしめに処刑される中国人スパイと、それをとり囲んで眺めている同じく大勢の中国人たちの姿だったのです。

近代医学を学び、国家の役に立つべく医師を目指していた魯迅は、一様に無表情な彼らを見て衝撃を受けたと語っています。

「あのことがあって以来、私は、医学などは肝要ではない、と考えるようになった。(中略)むしろわれわれの最初に果すべき任務は、かれらの精神を改造することだ。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第一だった」(『阿Q正伝・狂人日記』「自序」より引用)

その後、失敗に終わった文芸誌の立ち上げやいくつかの翻訳を経験し、彼が本格的にペンを執ったのは1917年でした。

辛亥革命によって清王朝は崩壊したものの、続いて誕生した中華民国も混乱状態。その有様に絶望した魯迅は、旧態依然とした考えや習慣にしがみつく中国国民にショックを与え、彼らの精神を改造しようとしたのです。

その作品の名前は『狂人日記』。誰もが読める口語文で描かれた、中国史上、まったく新しい文学作品でした。 
 

魯迅が描く男、阿Qの運命やいかに?「阿Q正伝」

「わたしは筆を下すが早いか、いろいろの困難を感じた。第一は文章の名目であった。(中略)伝記の名前は列伝、自伝、内伝、外伝、別伝、家伝、小伝などとずいぶん蒼蝿(うるさ)いほどたくさんあるが、惜しいかな皆合わない」(『阿Q正伝』より引用)

逡巡の末、とりあえず「正伝」に落ち着いたものの、作者はさらに驚くべき発言を続けます。自分は阿Qの姓も、正しい名前の書き方も知らない。阿QのQは当て字であって、本当は「阿桂」か「阿貴」かもしれない、と。

それで伝記作者がつとまるのか?と読者に一抹の不安を抱かせつつ、とにもかくにも物語の幕は開きます。

著者
魯迅
出版日
2016-03-28

いい歳して独身、おまけに定職も家ももたない阿Q。周りからはただのぐうたらにしか見えませんが、彼はなぜか異常なほどプライドが高く、自分のことを大人物だと思い込んでいました。

しかも困ったことに、彼は他人の前でも尊大で、人を見下すような言動をとってしまうのです。おかげで彼の行くところトラブルばかり。いつもポカスカ殴り合いのケンカになってしまいます。 

そのたびに負けてしまうのはたいてい阿Q。ですが、彼は一向に「懲りる」ということを知りません。客観的には明らかに負けていても、自分自身では絶対にそれを認めようとしないのです。 

ケンカで負けたときは「相手は息子。わざと殴られたのだ」と思い込む。金を奪われたときは自分で自分を殴り、他人を殴ったような気持ちになって満足する。どんなに懲らしめても意気揚々している男。それが阿Qなのです。

ここまで他人をイライラさせる主人公にはなかなか出会えません。ちなみに魯迅は阿Qの思考法を「精神的勝利法」と呼び、中国人の典型として描いているふしもあるのですが……。

とは言え、時は国中を巻き込んだ混乱期。阿Qの住む村にも、しだいに辛亥革命の足音が近づいてきました。はたして彼は、いつまでその精神的勝利法を続けることができるのでしょうか? 

彼が見たのは妄想か?真実か?魯迅の衝撃的なデビュー作「狂人日記」

「彼らは皆、わたしを食いたくてたまらないのだ」――本作は、そんな恐ろしい迫害妄想に襲われた男によって綴られた、日付のない日記です。

あるとき「わたし」は、村で出会う人間全員が恐れるような、それでいて狙うようなおかしな目つきで自分を見ていることに気づきます。

「最も奇怪に感じるのは、きのう往来で逢ったあの女だ。彼女は子供をたたいてじっとわたしを見詰めている。『叔(おじ)さん、わたしゃお前に二つ三つ咬みついてやらなければ気が済まない』」(『狂人日記』より引用) 

著者
魯 迅
出版日

以来、「わたし」の妄想は果てしなくエスカレートしていきます。本を読めばページいっぱいに「食人」の2文字があらわれ、食事で魚が出れば人間を食べているような気分になり、幼くして死んだ妹は兄によって料理にまぜられ、知らずに自分も食べてしまったに違いないと思い込む……。

しかし、なによりこの作品が恐ろしいのは、古代から本作が書かれた時代にいたるまで、実際に中国で食人がおこなわれてきたことが事実として語られていることでしょう。

「盤古が天地を開闢(かいびゃく)してから、ずっと易牙(えきが)の時代まで子供を食い続け、易牙の子からずっと徐錫林(じょしゃくりん)まで、徐錫林から狼村で捉まった男までずっと食い続けて来たのかもしれない。去年も城内で犯人が殺されると、癆症(ろうしょう)病みの人が彼の血を饅頭にひたして食った」(『狂人日記』より引用) 

この『狂人日記』は1918年に発表された、魯迅のデビュー作です。変革のときを迎えながらも、古く陰惨な慣習を続ける中国人の精神に、爆弾のように投げ込まれた本作。その衝撃は、時を経ても衰えていません。

魯迅が絶望のなかで見出したかすかな希望とは?「故郷」

一族を連れて引っ越すために、20年以上離れていた故郷に戻ってきた「わたし」。彼はそこで、幼い頃の友人と再会を果たします。

友人の名は閏土(るんとう)。当時、「わたし」の家で雇っていた臨時小作人の息子でした。短い出会いではあったものの、遠い海辺の村に住み、同い年ながらずっとたくましい彼との会話は、「わたし」の心のなかでいつまでもキラキラした思い出として残っていたのです。しかし……。 

著者
魯迅
出版日
2009-04-09

「わたし」が目にしたのは、かつての輝きをすっかり失ってしまった閏土の姿でした。身なりはみすぼらしく、表情からは現在の生活の苦しみが溢れんばかりににじみ出ていたのです。なにより「わたし」の身にこたえたのは、友人だと思っていた彼に「旦那様」と呼ばれたことでした。

誤解のないように急いで付け加えておくと、本作は、「時が2人をへだててしまった……」というような、よくあるお涙頂戴ものの作品ではありません。あくまで魯迅の目は、貧富の格差をもたらす社会制度や、人々の精神を巣食っている封建主義的な考え方、そしてそれらを改造していくことに向けられています。

「凡(すべ)てがわたしのように辛苦展転して生活することを望まない。また彼等の凡てが閏土のように辛苦麻痺して生活することを望まない。また凡てが別人のように辛苦放埒して生活することを望まない。彼等はわたしどものまだ経験せざる新しき生活をしてこそ然しかる可(べ)きだ」(『故郷』より引用)

誰もが今まで経験したことのない「新しい生活」を送れるようになること、それを実現するのは簡単ではありませんし、絶望的と言ってよいかもしれません。しかしそれでも魯迅は、最後にかすかな「希望」について語っています。名文の誉れ高いその1文は、きっと日本の読者の心にも響くはずです。

インテリ男の凋落を描いた、冷酷無比な一作「孔乙己」

書物を愛し、かつてはエリートを目指していた孔乙己(こういっき)。しかし、試験に失敗してしまってからは無職同然で、たまに写本の仕事で入るわずかな収入は酒に消え、いよいよ生活に困ると盗みをはたらくという有様でした。

『孔乙己』は、そんなひとりの読書人(インテリ)が落ちぶれてゆく様を、語り手の少年「わたし」の目を通して描いた一作です。

著者
上野恵司
出版日

「わたし」は12歳の頃から街の小さな飲み屋で働いていました。その店の立ち飲みカウンターで、ひときわ異色の存在感を示していたのが孔乙己です。彼は肉体労働者ばかりの客のなかでひとり、有産階級用の伝統服を着て酒を飲んでいました。

しかし、その服も汚れと破れでボロボロ。コミュニケーションもぎこちなく、文語調で、難しい言葉ばかり使って話そうとするので、いつも他の客にからかわれていたのでした。 

本作の舞台は清末末期、長らく中国で続いていたエリート選抜試験「科挙」が廃止されようとする頃です。そんな時代の変わり目にあって、孔乙己は、必死で古い価値観にしがみついていました。

そしてそんな彼の姿を、本人による苦渋に満ちた独白形式ではなく、同時代を生きた人間による語りでもなく、世の中の事情などまだ何も知らない少年の目を通して描いていることが、本作のポイントと言えるでしょう。

孔乙己が周りの客から笑われ、ひどい目にあっても、「わたし」は淡々とその様子を語るばかりで、そこには一切の共感も同情もありません。彼が実はどれほどのインテリであろうと、「わたし」にとってはひとりの変わった大人に過ぎないのです。

穏やかな筆致でありながら、旧時代の遺物に対する魯迅の激しい嫌悪が感じられる一作です。

魯迅を生涯励まし続けた日本人教師「藤野先生」

日本留学中の魯迅は、仙台医学専門学校で、ちょっぴり変わった解剖学の藤野厳九郎先生と懇意になります。

話すと大げさに抑揚をつける癖があり、授業中に生徒に笑われる藤野先生。服装には無頓着で、冬に古い外套を着てブルブル震えていたら、挙動不審でスリと間違えられる藤野先生……。

と、思わず肩をつかんで「先生、しっかりしてください!」と言いたくなるような人物なのですが、魯迅にとってはそんな藤野先生こそ、生涯で誰よりも忘れがたい「師」だったのです。

著者
魯迅
出版日
1998-05-08

『藤野先生』は、ほかの作品にはない、魯迅のシャイで感傷的な一面がかいま見える作品です。

藤野先生は、魯迅の授業のノートを添削してくれたり、死体の解剖授業に立ち会うことを心配してくれたりと、言葉も文化も違う国からきた彼のことをとても親身に想ってくれていました。なのに魯迅は、そんな先生の優しさあふれるエピソードを少しうざったそうに語るのです。

「だが僕は不満で、口ではハイと答えたものの、胸の内ではこう考えていた。『図はやはり僕のほうが上手だし、実際のようすなら、もちろん胸の内で記憶しているのに」」(『藤野先生』より引用)

そして彼は、在学中に医学とはまったく異なる文芸への道を志すことを決意します。突然訪れた別れに悲しそうな藤野先生。魯迅はそんな先生を慰めるために、ある嘘をついてしまうのでした……。

後年、中国に戻り文筆活動に入った魯迅の部屋には、いつも藤野先生の写真が飾られていたそうです。

「夜中に疲れて、怠け心が出てくるたびに、仰向いて明りの中に照らされる先生の痩せた色黒い顔をひと目見ると、今にも抑揚のある大きい声で話し出さんばかりの様子で、僕はハッと良心を取り戻し、勇気も増して、そこでタバコに火を付けては、再び『正人君子』の輩からおおいに嫌われ憎まれる文章を書き出すのだ」(『藤野先生』より引用)
 

魯迅の人と作品をもっと身近に感じてほしい、そんな気持ちで書きました。青空文庫なら気軽に読めるので、ぜひ1度訪れてみてくださいね。

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