私は、日本で生まれ、日本で育ち、国籍は日本、母国語は日本語。日本人である。しかし、「純粋な日本人」とは見なされなかった。 私は、「ハーフ」であった。
日本では、1985年まで、国籍法では父系主義を採用していた。母親だけが日本人である場合には日本国籍は付与されないのだ。私は父親が外国人である。もし、私がそれ以前に生まれていたら、日本で、日本人の母親から産まれたとしても、父の国の、外国籍の申請をしなければ、自動的に無国籍になってしまう。この法改正が、私の産まれるたった6年前と知ったのは、中学生のときだった。日本人である、とむしろ「純粋な日本人」より強く意識し、誇りを持っていた私は、アイデンティティ・クライシスに陥った。
私が化粧をしてごく普通の格好で東京の街を歩いていても、目立つことはない。幼少期、ジロジロ見られていた「西洋人」らしい特徴は薄まった。瞳は黒色だし、髪は栗色。ありのままの色合いは、女性のファッションのマジョリティ。流行の化粧をすれば、ほら、日本人の女の子。
私の父はアメリカ人。日米ハーフだ。確かにあなたはハーフだろうけど、そこまで意識すること? 今の私だけを知っている人は、少し不思議に思うかもしれない。タレント業をするにあたって、ハーフ要素はむしろ強み。「ハーフ」っていいよね、と、生まれつきの容姿を褒められることも多い。西洋的特徴をうまく受け継いだ私にとって、それは長所であって、実際、得をしているだろう。
- 著者
- サンドラ・ヘフェリン
- 出版日
- 2012-06-07
著者のサンドラ・へフェリン氏は、日本人の父とドイツ人の母を持つ日独ハーフ。彼女は「ハーフを考えよう」というwebサイトを運営している。ドイツ寄りの容姿に、ドイツ名。彼女を見て、「ハーフ」ではなく、「外国人」と認識する人も多いのではなかろうか。
http://half-sandra.com
本書は、「ハーフ」と一括りにされることが多い、日本と外国、どちらにもルーツを持つ人々とその生活について、語っている。「純ジャパ」とは、両親が日本人、日本で生まれ育ち、母国語が日本語、という「純粋な日本人」のこと。「純ジャパ」だなんて、失礼な呼び名。そう思う人もいるかもしれない。しかし、考えてみて欲しい。私たちは常に、容姿、国籍、出自、様々な理由で、一絡げに「ハーフ」と呼ばれている。『困った「純ジャパ」との闘い』だなんて、挑戦的タイトルだな、と私ですら思ったが、まとめてみたら、そうとしか言えないのだから可笑しい。
昔ならともかく、単に、片親が外国人であることを指し、「ハーフ」と言うことそれ自体は、まったく嫌ではない。私自身の周囲の印象もそうだが、へフェリン氏も、へフェリン氏の周囲でも、ハーフ当事者たちの大多数はそう思っている。「ハーフ」という言葉が、それとして独立してしまっていて、悪印象もない。
さて、「ハーフが美人なんて妄想ですから!」という叫び、この、「ハーフ」という言葉についた良い印象に苦しめられる当事者の叫びを刺激的に表している。
ハーフと言えば、美人でお金持ちでバイリンガル?
んなわけあるかいッ!
私自身、それを利用してもいるのだが、「ハーフタレント」「ハーフモデル」と、「ハーフ」は日本とは異なる容姿の特徴や性格を示す記号として機能している。その他者性は、タレントとしては使える要素だが。あくまでも、ハーフのごく一部が、芸能活動をしているに過ぎない。
私も、へフェリン氏も、「ハーフ」の中では、比較的好意的に扱われる、西洋の先進国、白人とのハーフである。蔑視されることは少ない。それでも、出自を理由としたいじめは経験した。
(しかし、私が忘れられないのは大人から受けた仕打ちだ。中学の卒業アルバムの個人写真が、勝手に黒髪に塗りつぶされていた。自毛が茶色であることは、罪なのだろうか?)
私の経験も、ハーフにとってはあるあるだ。公立小中での扱いは、ピンからキリまで。教師から差別を受けた事例も紹介されている。
困った「純ジャパ」あるあるに、私は共感しきりなのだが、この本は、単なるハーフにあるあるに留まらない。様々なハーフがいて、様々なハーフの人生がある。日本社会でどのように育つか。はたまた、外国でどう育つか。ハーフの一生を、複数の事例と共に、紹介してくれている。
外国人と日本人の夫婦の子供はハーフと呼ばれる。忘れられがちなのは、ハーフは、その家族の仲でもマイノリティである、ということだ(もちろん、両親がハーフやクォーターなど様々なルーツを持つ家族もあるが、大多数とはいえない)。
外国に住むにしても日本に住むにしても、両親は、「外国」に住む外国人、「母国」に住む母国人、どちらかで過ごす。しかし、ハーフの子供は、どちらも「ハーフ」として過ごすのだ。外国人だという意識もない。しかし、海外にルーツがあることを嫌でも認識しなければらならず、純粋な母国、とも思えない。
へフェリン氏の厳しい指摘は、そのままハーフが置かれた厳しさと同義だ。
繰り返すが、私もへフェリン氏も、西洋の先進国、白人とのハーフという、比較的日本では蔑視されにくい、「恵まれた」ハーフである。しかしその「恵み」があるからと言って、今までの困った人たちとの戦いを、すべてチャラにすることはできないのだ。
ピリ辛だが、軽口で読みやすい、現代の優れた「当事者本」である。
一方こちらは、日本で〈ハーフ〉はどのような存在なのか、論考を集めた研究書である。
- 著者
- 岩渕 功一
- 出版日
- 2014-02-16
「人種混淆」という言葉に、きゅっと心が締め付けられる。そうなのだ。国際結婚の先は、人種混淆なのだ。しかし、現実である。たとえ人種という概念が、あくまで概念に過ぎないとしても、私は白人とアジア人が交じり合った人間なのだ。
「混血児」という言葉が戦後、表象として扱われる。あくまで人種混淆の問題は、児童に限るものであった。今でも、「国際児童」などのように、ハーフ問題は子供の問題として提起されてきた。
混血児はいるが、混血人はいない。大人になれば、何らかの形で、◯◯人になる。どこかの国、どこかに所属する。どこかに行き、どこかに帰る。日本人は何の理由もなく日本人のままでいられるが、「混血児」は、そのまま育っても、日本人とは認められない。
「ハーフ」言説の歴史的検証、そして「ハーフ」表象の変遷。「ハーフ」は「ハーフ」である。「ハーフ」という言葉がここまで定着した現在、当事者も言い換えを好むわけではない。私自身も好んでいないその理由が解き明かされるようであった。
表象はあくまで表象だ。しかし、表象は現実の鏡である。表象によって、新たに作り出される現実もある。
ハーフについて考えるということは、そのまま、国民意識、民族意識について考えることと同義である。
日台ハーフである、蓮舫氏の国籍問題は、大きく波及した。現代の「日本人」観が浮き彫りになったと言えよう。良くも悪くも、私は考えざるをえない。
「単一民族国家」という理想、幻想の中に、私は日本人として存在している。日本人ではないと言われ続けた日本人である。日本人として、日本に生まれ、日本に育ち、日本で生きつづけるだろう。