三好長慶は信長より先に天下統一をした男!その生涯と、おすすめ本や小説も紹介

更新:2021.11.21

激動の戦国時代、織田信長よりも先に天下を統一した三好長慶という人をご存知でしょうか。歴史に名を刻んでいるはずなのに、知名度としてはそこまで高くありません。この記事では、三好政権が誕生するまでの前半生から全盛期、そして亡くなるまでの生涯を、細川晴元や松永久秀などの関係者とともに解説していきます。長慶を主人公にした小説や本も紹介するので、チェックしてみてください。

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三好長慶は、父親を殺した細川晴元に仕えるも関係は悪く……

 

三好長慶(ながよし)は1522年、現在の徳島県にあたる阿波国にて、三好元長の長男として生まれました。幼名は千熊丸といいます。1521年生まれの武田信玄と同世代です。

三好氏は阿波の国人でしたが、三好長慶の祖父もしくは曽祖父と考えられている三好之長が細川政元に仕え、近畿に進出したことで大きく飛躍します。

細川政元は1493年の「明応の政変」で、室町幕府第10代将軍である足利義稙を追放し、第11代将軍に足利義澄を擁立した人物。政元自身は管領となって、権力を握り、「半将軍」と呼ばれるほどの栄華を誇りました。しかし生涯独身を貫き、子どもがいなかったのです。そのため、細川澄之、細川澄元、細川高国の3人を養子とします。

しかし、それぞれの養子を推す家臣団の思惑も絡み、細川家内部は混乱状態に。1507年、後継者を巡る争いのなか、細川澄之派の家臣に暗殺されてしまいます。この後継者争いは「永正の錯乱」と呼ばれました。

細川政元に仕えていた三好之長は、細川澄元を支持していて、細川高国らとともに細川澄之を自害に追い込みます。結局、細川政元の後継者の座には細川澄元が座りますが、澄元のもとで三好之長が勢力を増すことを快く思わない者も多く、彼らは高国のもとに結集。管領だった澄元が将軍の足利義澄を擁しているのに対抗するため、高国は「明応の政変」で追放された前将軍の足利義稙と、彼の後ろ盾となっていた西国の大名である大内義興と手を結びました。

しかし、1508年に細川澄元や三好之長が擁した足利義澄が病死したため、争いは小康状態に。その後も小競り合いが続くなか、1520年には三好之長と細川澄元が相次いで亡くなります。その後は、三好長慶の父親である三好元長が家督を継ぎ、細川澄元の子で当時わずか7歳だった晴元を支える立場となったのです。その後、三好元長は1526年に挙兵し、5年におよぶ戦いのすえ細川高国を自害に追いやることに成功しました。

しかし、仇敵ともいうべき細川高国を倒した後、三好元長と主君である細川晴元の関係は悪化していきます。三好元長らは自分たちが擁立する足利義維を新たな将軍に据えようと考えていたのに対し、細川晴元は現将軍である足利義晴との和睦を進めようとしたためです。

さらに主従の対立を決定的にしたのが、宗教の問題でした。細川晴元が一向宗を庇護していたのに対し、三好元長は一向宗と激しく敵対する法華宗を擁護していたのです。

そのうえ、彼らの対立を利用して出世を図ろうとした人物が現れます。畠山義堯(よしたか)の家臣だった木沢長政です。

1531年、三好元長は木沢長政を排除すべく、細川晴元の反対を押し切って居城である飯盛山城を攻撃。戦いは1年以上続き、飯盛山城の落城が目前に迫ると、細川晴元は本願寺の証如を頼り、木沢長政救出のために一向宗の支援を求めました。

1532年、飯盛山城を包囲する三好元長軍を、数万もの一向一揆軍が攻撃。三好元長は自害に追い込まれることとなりました。

その後、元長の長男である三好長慶は10歳で家督を継承。そして父の仇でもある細川晴元に仕えるのです。これは彼の意志ではなく、三好家を守るためには致し方無いことだったのだそう。そのため、両者の関係は決して心許せるものではありませんでした。

三好長慶は幕府の実権を握り「三好政権」が誕生!松永久秀も活躍

 

三好元長を討つために、一向一揆の力を借りた細川晴元。戦いを終えた後もその暴走を抑えることができず、畿内は混乱に陥ります。

この事態を収めるために細川晴元が頼ったのは、自分が死に追いやった三好元長の息子である三好長慶でした。

本福寺の僧侶が記した手記「本福寺明宗跡書」には、1533年6月20日の記録として、三好長慶が一向一揆と細川晴元の和睦を仲介したとあり、元長が亡くなった翌年には早くも大きな存在感を示していたことがわかるでしょう。

その後三好長慶は、細川晴元の家臣として一向一揆と戦ったかと思えば、反対に一向一揆と結託して晴元と戦うなど、立ち位置を自在に変えながら徐々に力をつけていきます。やがて細川家内の一大勢力を築き、1548年8月、細川晴元から離反。敵方だった細川氏綱に仕えました。

この突然の裏切りの原因となったのが、同族である三好政長との争いです。政長は三好氏の分家でしたが、元長と対立関係にあった人物でした。かつての細川晴元に対して、一向一揆と手を組み元長を討つよう進言したのも政長だといわれています。三好長慶は、細川晴元に対し、三好政長を追放することを訴えましたが、許可を得られなかったために離反したのです。

1549年、三好長慶は「江口の戦い」で三好政長を討ちとります。細川晴元は近江の坂本に逃れました。その後三好長慶は細川晴元に代わって細川氏綱を主君と仰ぎ、1550年3月までに晴元派の武将たちを降伏させて摂津を平定。「明応の政変」からずっと続いていた細川政権を崩壊させるのです。三好長慶は幕府の実験を掌握し、事実上の三好政権が樹立されることになりました。

しかし細川晴元派の勢力が完全に消えたわけではありません。彼らは復権の機会を狙っていて、1551年には2度の三好長慶暗殺未遂事件が発生。また長慶の盟友でもある遊佐長教が暗殺されてしまいます。

同年、細川晴元派の軍が京の奪還を目指して侵入する「相国寺の戦い」が起こります。この時は、長慶の家臣である松永久秀とその弟の内藤宗勝が勝利し、事なきを得ました。これによって和睦の機運が高まり、1552年、「細川晴元は細川氏綱に家督を譲って出家する」「息子の聡明丸(後の細川昭元)を三好長慶が取り立てる」「足利義輝が上洛する」という3点を条件に和睦が成立します。

しかし、成立直後に細川晴元が再び挙兵。これに丹波の波多野晴通、摂津の芥川孫十郎、さらに将軍である足利義輝までもが呼応するなど、三好政権は不安定な時期が続きました。

このように不安定ななかでも、三好政権が継続した理由のひとつに、松永久秀の存在が挙げられます。

松永久秀は、出自は不明ながら三好長慶に書記として仕えたことを皮切りに、朝廷や公家、寺社との交渉役として活躍、また丹波を平定するなど、三好政権の枢要を担う人物に出世を遂げた人物です。三好長慶の長男で跡取りでもある三好義興と肩を並べるほどの、重鎮となりました。

1558年には、三好長慶と足利義輝が和睦をし、いまだ細川晴元の抵抗は続いていたものの、ようやく三好政権は安定。全盛期を迎えます。

当時の三好長慶の勢力圏は、摂津、山城、播磨、丹波、和泉、河内、大和、阿波、淡路、讃岐に加え、若狭や伊予の一部にまでおよびました。匹敵する大名は関東の北条氏康くらいです。天下と呼ばれる畿内地方の大半を抑えていたため、近年では三好長慶こそが、織田信長に先立って最初に「天下人」となった人ではないかといわれています。

三好長慶の死とその後の幕府。松永久秀の嘘を信じて弟を殺害

 

足利義輝と和睦を結び、幕府の実権を握った三好長慶でしたが、全盛期は長くは続きませんでした。

1561年4月、和泉の岸和田城の城主を務めていた弟の十河一存が、30歳の若さで急死してしまうのです。十河一存は三好元長の四男で、十河景滋の養子となって家督を継ぎ、畿内各地を転戦。「鬼十河」の異名で恐れられた猛将で、三好家の軍事面における要でした。

彼が亡くなったことで、三好家による和泉の支配が脆弱化していきます。そしてその隙をつき、三好長慶と敵対していた河内の畠山高政と近江の六角義賢が、細川晴元の次男である細川晴之を擁立して挙兵。三好家は南北から攻撃されることになりました。

この「久米田の戦い」と呼ばれる戦いのなかで、三好長慶の弟である三好実休が死亡。実休は三好政権において、四国方面の政治を担っていて、和歌や茶道に対する造詣も深く、長慶にとってはもっとも心許せる相談相手だったともいわれています。

さらに長引く戦いで、今度は三好長慶の長男で跡取りでもある三好義興が死亡。文武に優れ、将来を嘱望されていた義興の死に、長慶は大いに落胆したそうです。

このように三好政権のいわば幹部陣が相次いで亡くなったことで、三好長慶は精神的に弱り、重い病にかかってしまいました。

それでもまだ不幸は続きます。1564年、三好長慶が、弟の安宅冬康を居城である飯盛山城に呼び出して殺害する事件が起こるのです。

三好長慶の弟たちや息子の相次ぐ死に関して、三好家の乗っ取りを画策する松永久秀が裏で策動しているのではないかという噂がありました。三好長慶が安宅冬康を殺したのも、『足利季世記』や『細川両家記』などの軍記物には「何者かの讒訴によって殺害された」と記されています。

「何者」が松永久秀だと実証されているわけではありませんが、それでも「何者」かの讒訴を信じて安宅冬康を殺害してしまうほど、当時の三好長慶の判断力が衰えていたことは間違いないのでしょう。後に讒訴であったことを知った長慶は、さらに苦悩を深め、安宅冬康のあとを追うように2ヶ月後に亡くなりました。

三好家の家督は、十河一存の子である三好義継が継承。三好長逸、三好宗渭、岩成友通の三好三人衆と、松永久秀が彼を補佐する体制を築きます。

しかし三好長慶の時代に傀儡に甘んじていた幕府は、足利義輝のもとで将軍親政を目指すようになっていくのです。この動きを邪魔だと考えるようになった三好三人衆が、1565年に「永禄の変」を起こして足利義輝を殺害しました。

その後は三好三人衆と松永久秀が対立し、畿内は内乱状態に。1568年に、足利義輝の弟である足利義昭を奉じた織田信長が上洛したことで、争いは終焉を迎えますが、同時に三好政権も崩壊することになりました。

三好長慶の性格は?追撃をしない寛容な男だった?

 

三好長慶は、後に活躍する織田信長と同様に、堺の経済力やキリスト教に目をつけていました。これらを庇護することで貿易を牛耳り、莫大な富を築き、軍需品や情報を得る先見の明をもっていたのです。

しかし、その性格については、「保守的」「優柔不断」などと批判的な評価も。その理由として、上位者に対する中途半端な対応が挙げられています。

三好長慶は生涯を通じて、父の仇でもある細川晴元や足利義輝と対立し、たびたび刃を交えています。しかし、たとえ戦いで勝ったとしても、彼らを徹底的に追撃したり、命を奪ったりすることはありませんでした。自分の領域を冒す者とは戦うものの、領域外に追い払うだけで十分だと考えていたのです。

しかし、織田信長も足利義昭を追放したものの殺しておらず、徳川家康も今川氏真と戦った後に家臣にしています。このことから、三好長慶の足利義輝や細川晴元に対する行動が必ずしも優柔不断かというと、そうでもないのかもしれません。

当時の史料として有効な書物にはいずれも好意的に書かれていて、特に『北条五代記』では、三好長慶を織田信長、明智光秀、豊臣秀吉と並ぶ名将のひとりに挙げるなど高く評価されていました。

現在に広く伝わる、松永久秀に乗っ取られてた凡庸な武将というイメージは、江戸時代中期以降に形成されたと考えられています。

三好氏研究の第一人者が解説

著者
天野忠幸
出版日
2014-04-10

 

作者の天野忠幸は、戦国時代の特に三好氏を専門としている歴史学者です。

本作は全6章で、三好長慶の生涯と、三好政権の統治構造などをまとめているもの。第3章までで三好長慶が三好政権を樹立するまでの歩みを、第4章では彼を支えた弟たちや松永久秀など家臣について、第5章では三好政権の構造や特徴について、第6章では三好長慶が亡くなった後に起こった「永禄の変」について解説しています。

足利将軍家を追放し、戦乱の時代の京を制圧していた三好長慶。いかに畿内を支配し、秩序を保とうとしていたのかが理解できるでしょう。また、松永久秀に謀反癖があったというのも興味深いところです。

三好長慶や松永久秀の生涯を詳しく知りたい方におすすめの一冊です。

三好長慶を歴史小説で読む

著者
徳永 真一郎
出版日
2010-05-10

 

歴史上の人物としては、そもそも知名度が高くない三好長慶。しかし織田信長や豊臣秀吉よりも先に天下を統一したと聞くと、たちまち興味がわいてくるのではないでしょうか。まずは、歴史小説を読んで彼の人となりを知るのもおすすめです。

父親を細川晴元に殺された長慶は、晴元に仕えながらも、松永久秀を参謀として力をつけ、やがて政権を樹立しました。しかし永久秀の策謀によって政権の幹部が次々に世を去り、長慶自身も若くして病に。この世を去ることになるのです。

武勇に優れ教養人でもあった三好長慶と、いかにも梟雄と思わせるような松永久秀の性格の対比も丁寧に描かれていて、当時の様子を想像しながら読み進めることができるでしょう。

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