5分でわかるドイツの歴史!古代から近代まで、政治と戦争を中心に簡単に解説!

更新:2021.11.23

2度の世界大戦に敗れつつも復興を果たし、今やヨーロッパの盟主とも呼ばれるドイツ。古代から近代までどのような歴史を歩んできたのでしょうか。この記事では、政治や戦争を中心にその流れをわかりやすく解説していきます。

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ドイツの歴史を簡単に解説!古代ケルト人やゲルマン民族の大移動など

中央ヨーロッパの西部に位置するドイツ。ベルリンを首都とする連邦共和制国家です。国土面積は約35万7500平方キロメートル、人口はおよそ8300万人で、ヨーロッパでは最大、世界でも日本に次ぐ第4位の経済大国として知られています。

現在のドイツがある地域には、旧石器時代からネアンデルタール人やクロマニョン人が暮らしていました。その後紀元前1300年頃から紀元前200年頃にかけて、南部では中央アジアから進出してきたインド・ヨーロッパ語族のケルト人がハルシュタット文化やラ・テーヌ文化を築きます。ケルト人は鉄製の武器を装備し、馬に引かれた戦車を用いる勇敢な人々で、その武力を買われて傭兵としても活躍しました。

一方の北部では、紀元前5世紀頃からゲルマン語派によってヤストルフ文化やポメラニア文化が栄えます。

紀元前100年頃になると、主にライン川やドナウ川の流域で古代ローマと接するようになり、現在のドイツ、ポーランド、チェコ、スロバキア、デンマークに相当する地域は「ゲルマニア」、フランス、ベルギー、スイス、オランダに相当する地域は「ガリア」と呼ばれるようになりました。

それからゲルマニアとガリアは、ローマと何度も戦火を交えることになります。特に、紀元前58年から紀元前51年まで続いた、ローマのユリウス・カエサルがガリアに遠征した「ガリア戦争」が有名でしょう。

375年からは、ヨーロッパの歴史においてもっとも重要な出来事のひとつといわれる「ゲルマン民族の大移動」が起こります。これは、中央アジアから東ヨーロッパまで広大な領土を制圧していたフン族から逃れようと、ゲルマン系民族であるゴート族が、現在のスウェーデンからウクライナを経て、イタリア半島やイベリア半島に南下したもの。西ローマ帝国滅亡の大きな要因になりました。

ドイツの歴史を簡単に解説!フランク王国と神聖ローマ帝国、封建制や三十年戦争も

ゲルマン人が侵入したことにより西ローマ帝国が滅亡すると、ゲルマン人の部族であるフランク族によってガリアが統一され、フランク王国が建国されます。フランク王国は、キリスト教を受容し、歴代の王は教皇と密接な関係を築きながら勢力を拡大。全盛期となるカール1世の時代には、現在のフランス、イタリア北部、ドイツ西部、オランダ、ベルギー、スイス、ルクセンブルク、オーストリア、スロベニアに相当する地域を統治する大帝国となりました。

800年には、カール1世に対し、ローマ教皇から西ローマ帝国皇帝の冠が授けられ、フランク王国は名実ともに西ローマ帝国の後継国家になります。

しかしカール1世の跡を継いだルートヴィヒ1世が亡くなると、フランク王国は、西フランク王国、中フランク王国、東フランク王国の3つに分割されることになります。これはルートヴィヒ1世に息子が3人いて、王に複数の子がいた場合、領土をひとりに継がせるのではなくそれぞれに分割して継承させる、というフランク族の伝統にのっとったものでした。この分割で、現在のフランス、イタリア、ドイツの原型がおおむね成立することになるのです。

ドイツに相当する地域である東フランク王国を統治したのは、三男のルートヴィヒ2世でした。しかし911年にルートヴィヒ4世が亡くなり、王統が断絶。各部族の長である「公」は他のフランク王国から王を迎えることをよしとせず、封建領主である自分たちが王を選ぶ選挙王制へと移行することになります。

その結果、ザクセン公ハインリヒ1世が王となり、ザクセン朝が成立。ハインリヒ1世はフランク族の伝統だった分割相続を廃し、ノルマン人、マジャール人、西スラヴ系諸民族など異民と戦って国家の土台を固め、事実上のヨーロッパの盟主となります。

跡を継いだオットー1世も異民との戦いで活躍。955年の「レヒフェルトの戦い」ではマジャール人に勝利します。その功績を受けて、962年にはローマ教皇ヨハネス12世からローマ皇帝の冠が与えられ、「神聖ローマ帝国」が成立しました。

歴代の皇帝は教会組織を通じた封建制にもとづく帝国統治を図ります。これは帝国教会政策と呼ばれ、ヨーロッパにおいて教皇と皇帝という2つの頂点を中心に、さまざまな階層の封建領主が割拠する楕円的な権力構造が生まれることになります。

しかし教皇のグレゴリウス7世は、強くなっていく皇帝権力に反発し、皇帝がもつ司教や修道院長の任命権「聖職叙任権」を手に入れようと画策。この主張を皇帝ハインリヒ4世は聞き入れず、なんと教皇の廃位を宣言。すると教皇のグレゴリウス7世はハインリヒ4世の破門と王位の剥奪を宣言します。

「叙任権闘争」と呼ばれるこの戦いで、皇帝の権力が強まると自らの権力が弱まると危惧した諸侯たちは、教皇を支持するように。ハインリヒ4世はグレゴリウス7世に謝罪をしなければならなくなる事態になりました。これを「カノッサの屈辱」といいます。

結果的に叙任権を失い、皇帝の権力は徐々に弱体化。各地の封建領主が所領支配の強化に専念するようになりました。1356年にカール4世が出した「金印勅書」で7人の諸侯が「選帝侯」として固定され、ドイツにおける封建的分権体制が確立されます。

この動きは、17世紀にカトリックとプロテスタントの間で勃発した「三十年戦争」にて、神聖ローマ帝国の権威が失墜したことでさらに加速。ドイツ各地の諸侯が、それぞれ絶対王政的な主権をもつ国家としてなかば独立していきました。

近代ドイツの歴史を簡単に解説!ウィーン体制からヒトラーの台頭まで

「三十年戦争」が終わり、イギリスやフランスが国家としての統一を強化する一方で、ドイツは多数の領邦国家に分裂。統一は遠のきます。

約300ある領邦国家のなかでも大きな力をもっていたのは、ハプスブルク家のオーストリアと、ホーエンツォレルン家のプロイセンでした。特にプロイセンは軍国主義を推し進めたフリードリヒ=ヴィルヘルム1世、フリードリヒ2世のもとでオーストリアと「オーストリア継承戦争」「七年戦争」を戦い、ドイツ最強の国家となります。

1789年に「フランス革命」が勃発。1792年の「ヴァルミーの戦い」でフランスがプロイセンに勝利すると、フランス軍はライン川を越えてドイツ領内に侵入しました。それまで中世的な社会が続いていたドイツに、フランスの革命の理念が持ち込まれることになるのです。

ドイツを占領したナポレオン・ボナパルトは、主に南部の領邦国家の整理統合に乗り出します。ドイツに初めて国民国家形成の機運が生じました。

1806年には、バイエルンなど南ドイツの16領邦がナポレオンを後見人として「ライン同盟」を結成。神聖ローマ帝国からの離脱を宣言し、約900年続いた神聖ローマ帝国は消滅しました。ロシアと同盟を結んでフランスに対抗しようとしたプロイセンは、「イエナの戦い」で敗北。1807年に締結された「ティルジット条約」によって国土は半減し、国庫収入の3倍にもおよぶ賠償金を請求されます。

これを機にプロイセンでは国家機構の改革や近代化の必要性が強く認識されるようになり、農民解放、内閣制確立、地方自治、営業の自由、関税の撤廃、国民軍創設、教育の改革など、政治や経済、社会、軍事など多方面で改革がおこなわれました。

ナポレオンが敗れた後にオーストリアの宰相メッテルニヒが主導して構築された「ウィーン体制」では、ドイツに35の君主国と4つの自由都市からなる「ドイツ連邦」が成立します。ただ連邦議会はフランクフルトに置かれ、議長国がオーストリアに固定されるなど保守的な政治体制で、国民国家の形成や憲法改正を求める運動は弾圧されました。

しかし1833年、プロイセンを中心に「ドイツ関税同盟」が成立します。ドイツ国内で産業革命が急速に進展し、ブルジョワ層が台頭。彼らは「諸国民の春」とも呼ばれる「1848年革命」で活躍し、オーストリアの宰相メッテルニヒは失脚。「ウィーン体制」も崩壊しました。

1848年に開かれた「フランクフルト国民議会」ではドイツの統一が議論されましたが、プロイセンを中心とする「小ドイツ主義」かオーストリアをも含む「大ドイツ主義」かで意見が割れ、統一は実現しません。

その後ドイツを統一へと導いたのは、1862年にプロイセンの首相に就任したオットー・フォン・ビスマルクです。彼は「鉄血政策」と呼ばれる軍備拡張政策を推進し、1866年の「普墺戦争」でドイツ連邦を解体へと追い込んで、統一の主導権を掌握。1867年には北ドイツ連邦を結成し、1870年の「普仏戦争」でフランスを破ると、1871年にヴェルサイユ宮殿でヴィルヘルム1世の皇帝即位式を挙行し、「ドイツ帝国」を成立させました。

ドイツ帝国宰相となったビスマルクは、「三帝同盟」「三国同盟」「再保障条約」などを駆使してフランスを包囲し、戦争を予防する「ビスマルク体制」を構築します。ヨーロッパには安定がもたらされましたが、3代皇帝のヴィルヘルム2世と対外政策で意見が合わず、1890年に更迭されました。

ヴィルヘルム2世が目指したのは、植民地の再分配です。海軍の増強や、鉄道を建設して沿線を自国の経済圏に巻き込む「3B政策」を推進します。しかしこれらの政策はイギリスやロシアとの関係悪化を招き、ビスマルクが構築した「フランス包囲網」を破壊。反対にイギリス、フランス、ロシアによる「ドイツ包囲網」が構築され、「第一次世界大戦」の原因になりました。

「第一次世界大戦」に敗れると、ヴィルヘルム2世は退位を余儀なくされ、ドイツは世界でもっとも民主的といわれる「ヴァイマル憲法」をもつ「ヴァイマル共和政」へと移行します。しかし莫大な賠償金の支払いを課されていたため国内では不満と混乱が相次ぎ、アドルフ・ヒトラーを指導者とする「ナチ党」が台頭していきました。

1933年に政権を掌握したヒトラーは、1935年には軍備制限を破棄して徴兵制を導入。ラインラントへの進駐、オーストリアやチェコスロバキアの併合など領土拡張政策を進め、「第二次世界大戦」へと向かっていきます。

近代ドイツの歴史を簡単に解説!冷戦とベルリンの壁

「第二次世界大戦」に敗れたドイツは、旧プロイセンなどの領地を失い、残りの国土もアメリカ、イギリス、フランス、ソ連によって分割占領され、首都のベルリンも同じく4ヶ国に分割されることになりました。

東西陣営の間で「冷戦」が始まると、1949年5月にはアメリカ、イギリス、フランスの占領地域にて自由主義・資本主義にもとづく「ドイツ連邦共和国(通称:西ドイツ)」が成立。これに対抗して10月にはソ連の占領地域にて、共産主義にもとづく「ドイツ民主共和国(通称:東ドイツ)」が成立し、ドイツは東西に分断されます。

西ドイツのコンラート・アデナウアー首相は「一つの国民、一つの国家」という「ハルシュタイン原則」を掲げ、東ドイツと国交を結んだ国とは国交を断絶する、という二者択一を求める外交方針を展開。東西ドイツ間には緊張関係が続きます。

東ドイツには「西ベルリン」という西側陣営の孤島があり、東ベルリンから西ベルリンへの人口流出が後を断ちませんでした。これに危機感を募らせた東ドイツとソ連は、1961年に突如として西ベルリンを包囲し、分割境界線155kmの交通を遮断し、巨大な壁を建設します。この「ベルリンの壁」は、ドイツ分断の象徴であるとともに東西冷戦の象徴にもなりました。

ドイツ再統一への機運は、1970年代から徐々に高まります。1969年に西ドイツの首相に就任したヴィリー・ブラントは「一つの国民、二つの国家」を原則とし、東ドイツの存在を認めたうえで東欧諸国とも関係をもつ「東方外交」を展開。東西ドイツが同時に「国際連合」に加盟することになりました。

1989年に東欧諸国で起こった東欧革命をきっかけに「ベルリンの壁」が破壊されると、1990年10月3日、東ドイツを構成していた地域が西ドイツに編入される形で、統一が実現します。

なお、日本では「東西ドイツの統一」と表現されますが、現地では「ドイツの再統一」と表現するのが一般的です。

1冊で歴史を理解できるおすすめ本

著者
眞興, 関
出版日

「ゲルマン民族の大移動」から現在までのドイツの歴史をわかりやすくまとめた作品です。

読んでいくと、ひと口に「ドイツ」といっても、ドイツ人が自らをドイツ人だと認識したのが比較的最近であることがわかります。統一の機運が高まる以前のドイツは多くの諸侯に分かれ、人々は自らが属する領邦国家の住人という認識しかありませんでした。幕藩体制時代の日本と似たものを感じるのではないでしょうか。

また「三十年戦争」「ナポレオン戦争」「第一次世界大戦」「第二次世界大戦」と、戦争によって何度も国土が荒廃し、そのたびに立ちあがってきた不屈さにも驚きます。

読みやすさを追求した教科書のような印象で、1冊で概要を理解できるのが魅力的。旅行やビジネスでドイツを訪れる前などに目をとおすのもおすすめです。

ドイツの歴史を語るうえで欠かせないヒトラー

著者
石田 勇治
出版日
2015-06-18

一般的に歴史上の人物を語る際、「100%の善人も100%の悪人もいない」といわれています。しかし唯一、その善性を語るすらも罪だといわれてしまう人物が、アドルフ・ヒトラーではないでしょうか。

本書では、ヒトラーとナチスが、なぜ世界でもっとも民主的とされた憲法をもつヴァイマル共和政下のドイツで権力を握ったのかを解説していきます。またホロコーストについても詳しく言及。もともとはユダヤ人を虐殺することが目的ではなかったという事実も明らかになりました。

ドイツの歴史を学ぶうえで読んでおきたい一冊です。

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