村上春樹×芸能プロデューサー“取り返しのつかなさ”|ダメ業界人の戯れ言#2

更新:2022.8.31

ドラマや映画などの制作に長年携わってきた読書家プロデューサー・藤原 努による、本を語る連載。仕事の傍らこれまでに読んだ本と、仕事やプライベートでの出来事を重ねて思うところを酸いも甘いも綴ります。 #2は、これまで全ての著作を読んできたという村上春樹について。

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特集「仕掛け人」コラム

自分が書いた小説を読み返さない、村上春樹という人

失敗ばかりの人生を送っています。

ちょうど一年前の夏、コロナ禍第5波の中、僕は連続ドラマのプロデューサーとして撮影に入っていたのですが、その途中15年来のつき合いであるチーフ助監督から「もう藤原さんとは一緒にやれません。あなたを一生恨みます」と言われました。詳細は省きますが、簡単に言ってしまうとコロナ対応についての感度の差が原因でした。コロナは人間関係も奪ってしまうんだな、と深くため息をつき、あまっさえ、彼は自分の連れてきたセカンドとサードの助監督も引き上げると言うので、僕はしばし思考停止してしまってぼーっとし、ふと30年以上前に読んだ短編小説を読み直したいと思い、自室の本棚を探りました。

村上春樹の短編小説『午後の最後の芝生』

『中国行きのスロウ・ボート』という短編集に入っている一つで、夏、大学生の青年が頼まれた家の芝刈りのアルバイトに向かう、その最後の一日を綴るお話なのですが、大したことは何も起きないのに、そのある意味ストイックな風景、みたいなものが濃厚に頭に残ります。

利益とか合理性とかそう言うものと無縁に生きる、かけがえのない夏の終わりの大学生の行為が、自分のあまりにも汚れちまった心との距離をもしかして埋めてくれるんじゃないかとふと思ったのです。

著者
春樹, 村上
出版日

先に言っておくと僕はいわゆる“ハルキスト”の類ではないのですが、村上春樹のデビュー以来、長編・短編の新作が出ると順に全部読んできた人間ではあります。この人の本には、あらすじとは別にいくつかの場面がその本を読んでいる際の自分の精神状態などともあいまって濃厚に記憶に残ってしまうという傾向が僕にはあります。

1980年代中盤の秋、名古屋大学の学生だった僕は、大学図書館前の前庭で『羊をめぐる冒険』を読んでいました。北海道の山で、主人公とずっと行動をともにしてきた“彼女”が何の前触れもなく山を去ってしまう場面に衝撃を受け(呆気に取られ)、見たこともないその山で一人になった自分を想像して無性に切なくなりました。

著者
村上 春樹
出版日
1982-10-13

 

その翌々年、新卒でホリプロへの就職が決まった頃、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んで、主人公たちが地下鉄の線路上を逃げ、銀座線青山一丁目駅のホームの端から何事もなかったように上がる場面で、まだ見たことのない青山一丁目駅とは一体どんな駅なんだろう、東京に行ったらまずそこを見に行こうと思いました。

著者
村上 春樹
出版日
2005-09-15

 

29歳で結婚して千葉県松戸市に住み、しかし妻が家を出て行ってしまって松戸から会社のある目黒まで向かう中、読んでいた『ねじまき鳥クロニクル』

日中戦争時のノモンハン事件の場面で、先輩軍人が蒙古族軍人から凄惨な拷問を受けてゆっくりと絶叫しながら死んでいくのを目の当たりにした間宮中尉が、砂漠の深い穴の底に逃げて絶望を覚えながらある時救出されるまでを、山手線上野―目黒駅間で読み、ハードカバーを抱えて立ったまま切なくぎゅうぎゅうと胸を締めつけられた記憶があります。

著者
村上 春樹
出版日
1997-09-30

 

二度目の離婚を経て大岡山で一人暮らしをしていたある日曜日、『1Q84』を読んでいて、逃亡中のヒロインの青豆が高円寺で一人暮らしをしている時、NHKの集金人がやってきて居留守を使う彼女に対して、ドアの向こうから「あなたが今そこで息をひそめているのは分っています」などと言う言葉に続いて、今で言えばモラハラのような言葉を投げつけ続けられる場面。一人住まいをしている自分の状況と絡めて、本筋とは関係ないのに胸を掻きむしられるような思いがしました。

著者
村上 春樹
出版日

翻って短編『午後の最後の芝生』。

村上春樹と言う人は、自分が書いた小説をほとんど読み返さない、内容もほとんど覚えていない、などとよく言います。川上未映子によるインタビュー本『みみずくは黄昏に飛びたつ』の中で、川上から「『午後の最後の芝生』はどうですか?」と問われて「あれは全く読み直す気がありません」などと答えていて、きっとこう言う絶妙の外し感が、また春樹ファンを魅了するのだろうなと思いました。

やっぱり「取り返しのつかなさ」みたいなことが、この人の本を僕自身もつい読んでしまう最大の理由なのかもしれません。

完璧とほめられる芝刈りをして、その家の女主人に、不在の娘の部屋を見せられて、でもそれ以上その女主人に無粋な質問などは何もしようともしないスタンス。何なのか。やっぱり僕にはできない芸当だと思いつつ、再読を終えました。

著者
["川上 未映子", "村上 春樹"]
出版日
2017-04-27

 

冒頭に書いた助監督事件は、その後、セカンドとサードの二人が最後までこのドラマをやり切りたいので残ると僕に言い、それを受けてそのチーフまでが回りまわって「僕も最後までやらせていただきます」と言ってきて、あんな啖呵を切られたけど、最後までやってもらったほうがいいのは確かなのでそれを認めてやってもらいました。

しかし当然のことながら、その彼と僕がこれから二度と仕事をすることはないわけですが。

「ハードボイルド・ワンダーランド」の最後のページに、カーステレオからボブ・ディランの『激しい雨』という曲が流れる場面があります。彼と訣別した夜、僕はサブスクでその歌を探して音を大きくして聴いたのでした。


※「ハードボイルド・ワンダーランド」に登場する曲『激しい雨』については、原題『A Hard Rain's A-Gonna Fall』、邦題『激しい雨がふる』を指すと推測されます。

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