ボブ・ディランが、ポップカルチャー史上、最重要人物である50の理由

ボブ・ディランが、ポップカルチャー史上、最重要人物である50の理由

更新:2021.12.14

「アメリカ音楽の伝統の中で、新たな詩の表現を創造した」としてノーベル文学賞を贈られた歌手、詩人、小説家のボブ・ディラン(75歳)。2011年、英インディペンデント紙では70歳の誕生日を迎えたディランが、なぜポップカルチャー史上最も重要な人物であるのかという50の理由を挙げた。

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ノーベル賞を受賞したロックの殿堂ボブ・ディラン

ノーベル賞を受賞したロックの殿堂ボブ・ディラン

ボブ・ディランは1941年5月24日生まれのシンガーソングライターです。

1962年にアルバム『ボブ・ディラン』でデビュー、翌1963年には「風にふかれて」を収録した『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』を発表し、全英アルバム・チャートで1位を飾ります。

フォークの貴公子として支持を集めますが、1965年に発表した『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』でエレクトリックへの転換をはかりました。同年、「ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500」で1位に選出された名曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」を収録した『追憶のハイウェイ61』を発表。オリジナリティ溢れるサウンドを確立しました。

その後もライヴ活動、楽曲制作を精力的に続け、2015年の最新作『シャドウズ・イン・ザ・ナイト』までに計36枚のスタジオ・アルバムを発表しています。

今回は、ノーベル賞を受賞したロックの殿堂ボブ・ディランが、ポップカルチャー史にその名を刻む理由をご紹介いたします。

人生そのものがロックだから

人生そのものがロックだから

1.1959年、高校の卒業アルバムに将来の夢を「リトル・リチャードに倣うこと」と書いたから。

2.1963年5月、『フリーホイーリン』発売の2週間前、「エド・サリヴァン・ショー」から風刺曲「ジョン・バーチ・パラノイド・ブルース」を却下されると、検閲に屈するよりスタジオを後にするほうを選んだから。当時のディランはまだ無名に近く、同番組はTV界最大の販促ツールだった。

3.1965年のニューポート・フォーク・フェスティヴァルのステージにエレクトリック・ブルース・バンドと共に立ち、ボリュームを思い切り上げるという勇気を持っていたから。この行動はその後、ロック史上屈指の画期的出来事に数えられることに。ロック音楽とフォークの文学性を一つにしたディランの手法は、当時のカウンター・カルチャー全体を盛り上げるサウンドトラックの完璧な青写真になった。

4.6分長のシングルを発売する大胆さがあったから。「ライク・ア・ローリング・ストーン」以前、ジュークボックスの売上を最大限にするため、シングルは3分以下が当たり前だった。

5.「ユダ(裏切り者)!」事件があったから――この野次を飛ばさせたからではなく、その場のディランの対応が格好良すぎるから。「おまえの言うことなんか信じない」(「アイ・ドン・ビリーヴ・ユウ」は持ち歌のタイトルでもある)とぴしゃりと返し、ザ・ホークスの面々に「くそでかい音でいけ」と吐き捨てるように指示した。

音楽に革命を起こしたから

音楽に革命を起こしたから

6.フォークロック、カントリーロックを発明したから。『ナッシュヴィル・スカイライン』以前、カントリーはロック界からがちがちの保守派と見られていた。

7.ポップ歌唱における、何がOKで、何が可能なのかの定義を刷新したから。調子っ外れのめそめそ声だと、当時は鼻で笑われたが、実は極めて明瞭な、感情に訴えかけるブルース歌唱だった。

8.ハーモニカを流行らせ、その豊かな表現力をポップカルチャー界に知らしめたから。

9.ディランがプロテスト・ソングを書くと、何かが変わったから。公衆の面前で黒人ウェイトレスをただの気まぐれから殺害したボルティモア社交界の若者は、不当にもごく軽い刑罰しか受けなかった。その理不尽な事実をディランが詳細に歌った1964年の強力な一曲「ハッティ・キャロルの寂しい死」(『時代は変る』収録)のおかげで、その推定殺人者ウィリアム・ザンジンガーは残りの人生を恥辱にまみれて送ることになった。

他アーティストに多大な影響を与えたから

他アーティストに多大な影響を与えたから

10.ビートルズにポット(大麻)を教えたから。大麻がなかったら『ラバー・ソウル』も『リボルバー』も『サージェント・ペパーズ』もなかったかもしれない。

11.ボブ・ディランがいなければ、バーズはいなかったから。

12.「見張塔からずっと」を書き、ジミ・ヘンドリックスに最強のレパートリーを提供したから。同じことは、曲は違うが、ザ・バーズ(何度か)、マンフレッド・マン、ピーター・ポール&マリー、ジュリー・ドリスコール・ブライアン・オーガー&ザ・トリニティなどにも言える。

13.依然、最も数多くカバーされた現代のソングライターだから。1997年の「メイク・ユー・フィール・マイ・ラヴ」はビリー・ジョエル、ガース・ブルックス、アデルのカバーがヒットし、早くもクラシックの称号を手にしている。

『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』を作ったから

『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』を作ったから

14.まじめと笑いを独自の感覚で一つにしたから。「戦争の親玉」や「はげしい雨が降る」といったシリアスな曲が収められたアルバムにさえ、シュールなジョーク混じりのブルースを1、2曲入れる余地を残していた。

15.1枚目から2枚目までのわずかな期間に、“ハモンドの愚行”から“時代の代弁者”へと、自身の評価を一変させたから。1作目の売上が伸びないと、コロンビア社員の多くがプロデューサーであり、ディランを見出したジョン・ハモンドを嘲った。そのわずか1年後、ディランは「風に吹かれて」「はげしい雨が降る」「戦争の親玉」「くよくよするなよ」を収めた2作目を発表した。

16.『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』がビートルズに多大な影響を与えたから。「とにかくかけた、すり切れるまで」とジョージ・ハリスン。「歌詞の中身、そしてあの姿勢――独自性が半端じゃない、すごかったね」。ジョン・レノンいわく、「3週間(中略)ノンストップでかけ続けた。みんなディランにポッティだった(イカれた)んだ」

17.まだ20歳そこそこで「はげしい雨が降る」を書き、その一連の黙示録的イメージによってプロテスト・シンガーの曲作りを一変させたから。当時ディランはこの曲について、歌詞の一行一行は自分が書く前に死んでしまうかも知れないと不安でならない一曲一曲の出だし、と語っていた(当時はキューバ危機の時代)。

フォーク・ミュージックがロック・ミュージックへと変貌を遂げたアルバム『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』を作ったから

フォーク・ミュージックがロック・ミュージックへと変貌を遂げたアルバム『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』を作ったから

18.「ミスター・タンブリンマン」を書いたから。

19.社会を鋭く批評するキャッチフレーズやスローガンが泉のようにわき出てくる名曲「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」を書いたから。同曲は録音史上屈指の説得力を有するラップの一つ。

20.サヴォイ・ホテルの前で撮影した「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」のPVで、フリップカードを次々にめくって落とす演出を発明したから。今やポップカルチャー界の定番となったこの手法は、パロディにすること自体がパロディになるほど、何度もパロディ化されている。

『追憶のハイウェイ 61』を作ったから

『追憶のハイウェイ 61』を作ったから

21.史上最高のシングルにたびたび挙げられる名曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」を書いたから。同曲は1965年のポップ界に莫大な衝撃を与え、のちのシーンの幕を開けた。

史上最高のスタジオ・アルバム『ブロンド・オン・ブロンド』を作ったから

史上最高のスタジオ・アルバム『ブロンド・オン・ブロンド』を作ったから

22.史上最高の一曲「ジョアンナのヴィジョン」を書いたから。元桂冠詩人アンドリュー・モーションは同曲の詞を史上最高の歌詞と称えた。

歴史的名盤『血の轍』を作り上げたから

歴史的名盤『血の轍』を作り上げたから

23.70年代、大半のファンや批評家に、あいつはもうだめだ、終わったと思われるなか、ボブ・ディラン史上指折りの名曲をいくつか収めた歴史的名盤『血の轍』を作り上げたから。実際、ディランはこうした離れ業を何度もくり返している。

1980年代にも試行錯誤の末、名曲を残しているから

1980年代にも試行錯誤の末、名曲を残しているから

24.悲惨な80年代を経て、ディランはもう終わったと(またもや)誰からも思われていたまさにその時、何とも趣のある、忘れがたいアルバム『オー・マーシー』を作り上げたから。特に「エヴりシング・イズ・ブロークン」は名曲。

25.人々の予想を、なかでも自身の作品に対するそれをいとも簡単に覆すから。たとえば80年代、自身史上随一の休閑期に、過去数十年でも屈指の名曲「フット・オブ・プライド」と「ブラインド・ウィリー・マクテル」を残した。どちらも同じアルバム(『インフィデル』)から漏れたもので、後者は現在、ライヴの定番。

還暦を過ぎても最高だから

還暦を過ぎても最高だから

26.ショービズ界随一の働き者だから。ネヴァー・エンディング・ツアーは現在も文字どおり延々と続行中。ディランは毎年100~200回のギグを世界中で粛々と行なっている。

27.疑問の余地なく、自らも大の音楽ファンだから。ディランのラジオ番組『テーマ・タイム・ラジオ・アワー』は20世紀の西洋音楽界が監督した何よりもためになる(そして楽しい)歴史の授業と言える。

28.『トゥゲザー・スルー・ライフ』で、全米アルバム・チャート初登場1位の最年長記録と、全米・全英両チャート同時首位の最年長記録を打ち立てたから。

29.同世代の他のアーティストたちが若い頃の創造力に少しでも近づこうともがくなか、ディランは新たな力と発想を手に入れ続けているから。最近の3部作――『タイム・アウト・オブ・マインド』『ラヴ・アンド・セフト』『モダン・タイムズ』――は60年代半ばの“電化”3部作以来となる傑作群であり、アーティストとしての無尽蔵の潜在力を世に知らしめた。

歌詞に革命を起こしたから


30.ティーンエイジャーの目を再び詩に向けたから。ランボー、ヴェルネール、ボードレールなどの象徴派や、ギンスバーグやコーソ、ファーリンゲティといった、シティ・ライツ・ビート勢にのめり込むきっかけを若者に与えた。
(シティ・ライツ・ブックストア:ファーリンゲティが設立したサンフランシスコの書店で、ビート文化発祥の地)

31.辛辣であけすけな歌詞を世間に認めさせたから。ディランが「ライク・ア・ローリング・ストーン」や「寂しき4番街」を発表するまで、ポップ・シングルの歌詞といえば、甘ったるい愛の台詞が定番だった。だが、ディランの登場を機に主題は多様化し、表現の幅もぐんと広がった。その最たる例がジョン・レノン。レノンは以降、内に潜んでいた皮肉屋の一面を解き放った。

32.一般に安物と見なされるポップ・ソングの歌詞に哲学的、芸術的深みを加え、アレン・ギンズバーグいわく、シュールな「瞬くイメージの連なり」の中で、大量の文学的、宗教的、歴史的言及を合体させるという、当時も今も誰にもできないことをやってのけたから。しかも模倣者らと違い、その詞に何らかの意味を持たせたから。

音楽以外にも幅広く活動しているから

著者
ボブ・ディラン
出版日
2005-07-16

33.70年代半ば、世界中がディスコ化するなか、吟遊詩人や劇作家、シンガーらを率い、旅芸人一座といういにしえの概念を復活させ、ローリング・サンダー・レヴューと名付けたその様子を撮影し、世界一高額なホーム・ムービー『レナルド&クララ』として発表したから。

34.自身の才能および技術不足に臆することなく、絵画を描き、“小説”(『タランチュラ』)を書き、映画(『イート・ザ・ドキュメント』『レナルド&クララ』)を製作したから。

35.初の自叙伝第1部『ボブ・ディラン自伝』を通じて、自身の芸術と仕事の進め方の一部を説いたから。

ザ・バンドとのセッションから名盤を生み出したから

ザ・バンドとのセッションから名盤を生み出したから

36.最強のバックバンド、ザ・ホークスを率い、彼らをおそらくは史上最高のロックバンド、そして紛れもなくポップ&ロック界での“アメリカーナ”=ルーツ復興運動の種を蒔いた5人組、ザ・バンドへと変貌させたから。1966年のワールド・ツアー中、ディランに文字どおり付いて回ったことで、リーダー格のギタリスト、ロビー・ロバートソンは自作曲に鋭い視線と深みを加えられるようになり、おかげでザ・バンドは『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』と『ザ・バンド』という時代を象徴する名盤2枚を生むに至った。

37.ザ・ホークスを引き連れての1966年ワールド・ツアーで、ロックンロールとは一線を画すロック・ミュージックを事実上発明したから。あれほどラウドな、あれほどパワフルなものがステージ上でくり広げられたことは、いまだかつてなかった。

ノーベル賞以外にも多くの賞を受賞しているから


38.ソングライターの殿堂、ロックの殿堂、ナッシュヴィル・ソングライターの殿堂入りを果たしているから。

39.アカデミー賞、ゴールデン・グローブ賞、グラミー賞を獲っているから。

40.タイム誌の20世紀で最も重要な100人に選ばれた際、「匠の詩人、痛烈な社会批評家、カウンター・カルチャー世代の勇敢な導き手」と評されたから。

41.2008年、「卓抜な詩力にあふれる歌詞群により、大衆音楽と米文化に深遠な影響を与えた」として、ピューリッツァー賞特別賞を贈られたから。

常に変化を求め続けているから

常に変化を求め続けているから

42.自身の古典的作品をライヴ用にくり返し改訂するから。一部の怒りは買っているが、こうした一連の改訂は、おなじみの曲に対して自らを、そしてファンを飽きさせないために不可欠。したがって、ディランのステージが毎回、遺産的曲群をなぞるだけのものになる危険性はない。

43.文化の最新トレンドを素早く回避するから。西洋の若者たちがプロテスト・ソングに夢中になるなか、ディランはひとり、よりパーソナルな、シュールな世界へと入っていった。その数年後、西洋の若者たちが色とりどりの目映いペイズリー柄で彩られたカウンター・カルチャーと、その誕生に寄与したシュールな曲群にハマるなか、ディランはひとり、サイケデリアを後にし、ザ・バンドの友人らと田舎に引きこもり、ルーツィーな曲群の練習に励んだ。その結果生まれた『地下室(ザ・ベースメント・テープス)』は、一風変わった新曲群の宝庫として多くのカバーを生むとともに、世界的な海賊盤現象を起こし、いわゆる“アメリカーナ”への関心に火を付けた。

他アーティストのリスペクトを集めているから

他アーティストのリスペクトを集めているから

44.ロックの殿堂入りを祝う式典で、プレゼンターのブルース・スプリングスティーンから「エルヴィスが君の身体を解き放ったように、ボブは君の心を解き放った――元来フィジカルなものだからというだけで、音楽が反知性的とは限らないと僕たちに教えてくれた」と絶賛されたから。

45.トム・ウェイツから、いわば「探査すべき惑星(中略)。大工に金槌と釘とのこぎりが欠かせないように、ソングライターにとってディランは不可欠」と評されたから。

チャリティーにも影響を与えているから

チャリティーにも影響を与えているから

46.ライヴ・エイド出演者の多くが“飢えに苦しむかわいそうなアフリカ人”を助けている自分に酔いしれるなか、米国民に事の重大さを多少でも実感させようと、集まった金の一部は経営難に苦しむ自国アメリカの農夫たちのために使ってもいいのでは、と発言する向こう見ずさがあったから。ウィリー・ネルソンはこの発言に刺激を受け、ファーム・エイドを始めた。

47.クリスマス・アルバム『クリスマス・イン・ザ・ハート』の売上をすべて、未来永劫、家のない子どもたちのために寄付すると宣言したから。同アルバムは毎冬に売れるはずだから、子どもたちにくり返し届く贈り物になるのは必至である。

ボブ・ディランの名言


48.いわゆる“電化”期、自らが創りたい音楽を言い表すのに、「あの水のように自由気ままな水銀的サウンド」という名表現を思いついたから。大半のソングライターには生涯かけてもまずひねり出せない、簡潔で的を射た言葉。

49.メディア対応といううんざりさせられる仕事に類い希な機知と知性で臨んだから。あるロンドンの記者会見では、「頭脳は常に明晰に、電球(ひらめきの意)を忘れずに」との当意即妙な助言を与えた。別の時には、「奥底には確信がありますよね?」と訊いたオーストラリアの記者を「違うね、奥底にあるのは臓物、腸だけさ」と一蹴した。

50.米国の裁判絡みの法律文書にどのソングライターよりも多く引用されているから。2007年の調査によれば、その数は実に186回。ビートルズの74回など取るに足らない。それも無理もないだろう。「何もないってことは、失うものも何もないってこと」や、「法の外で生きていくには、正直じゃなくちゃならない」といった金言の魅力には、誰も逆らえない。

Photo:(C)WENN / Zeta Image
Text:(C)The Independent / Zeta Image
Translation:Takatsugu Arai

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著者
湯浅 学
出版日
著者
["みうら じゅん", "みうら じゅん"]
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    バンドマンやソロ・アーティスト、民族楽器奏者や音楽雑誌編集者など音楽に関連するひとびとが、本好きのコンシェルジュとして、おすすめの本を紹介します。小説に漫画、写真集にビジネス書、自然科学書やスピリチュアル本も。幅広い本と出会えます。インタビューも。

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