数々の傑作を残した小説家・武田泰淳の妻である武田百合子は、夫の死後にエッセイストとしてデビューしました。その珠玉の作品たちは、女性を中心とした幅広い層の読者に親しまれています。
武田百合子は、第一次戦後派作家として『司馬遷』や『ひかりごけ』『富士』などの傑作小説を発表した武田泰淳の妻です。作家の集う喫茶店で夫と出会い、1951年に結婚。彼の死後、1977年に『富士日記』で、エッセイストとしてデビューします。独特な視点と特徴的なスタイルで大きな評価を集め、「田村俊子賞」を受賞します。
夫の作家生活において、妻は決して欠かせない重要な存在でした。『めまいのする散歩』や『上海の蛍』を発表した頃、泰淳が脳血栓の盛況で右手に障がいを残していました。そんな彼に代わり、代理の執筆と清書を、妻の百合子が担っていたのです。
1993年、肝硬変で亡くなる前の彼女は「自分の死後、日記や原稿、メモなどの一切は処分するように」と娘に言い渡していました。その潔い生き様も含め、多くのファンを獲得している著者の作品から、特にチェックしておきたい代表作をピックアップして紹介していきましょう。
夫婦が週の半分を過ごしたという、山梨県富士桜高原の山荘が完成した日から、夫の死までの日常を淡々と綴ったエッセイです。独自の視点とスタイルが持ち味で、「東京」と「富士」2つの土地の空気に触れることが出来るでしょう。
作中では、夫との日常のちょっとしたやり取りなどの何気ない出来事を自然に描いており、まるで情景が思い浮かぶようです。夫婦の時間や、娘を含めた家族の時間を、13年余り追いかけた珠玉のデビュー作となっています。
- 著者
- 武田 百合子
- 出版日
- 1997-04-18
本作は元々、雑誌『海』の「武田泰淳追悼号」に寄稿された作品でした。彼の通夜に際し、雑誌の編集長が百合子に依頼したものだといわれています。
東京での出来事や、仕事をはじめとしたさまざまな場所での交流はもちろん、富士の草木や動物の様子など、たくさんの場所の日常が描かれています。
別荘の管理人である老夫婦や、近くに別荘を構えていた作家の大岡昇平・春枝夫妻との交流など、心温まるふれあいの様子も必見です。
タイトルに「食卓」とある通り、本作に収録された14本のエッセイは、すべてが何らかの食べ物に関係しています。食べ物についての思い出や出来事を、書き手ならではの感性豊かな文体で綴っていく、独自の存在感を持った1冊です。
「枇杷」では、枇杷の味はもちろん、したたる果汁の鮮烈な描写が印象に残るでしょう。「花の下」では、うなぎの小田巻蒸しが好きな老婦人として、自らの好きなものについて語ります。「誠実亭」では、自らの最も好むお重のスタイルや、逆に思わしくないオムレツのお店についてが綴られています。
- 著者
- 武田 百合子
- 出版日
食べ物と、その思い出をリンクさせたエッセイ集。誰もが連想する懐かしい雰囲気から、書き手だけが持っているエピソードまで、たくさんの人の気配を感じさせる作品です。
闇ルートで手に入れた牛乳について語る「続 牛乳」では、当時の物品不足の背景を知ることも出来るでしょう。そのほかの作品でも、食べ物そのものが持つ味や食感、香りなどから、一緒に食べた人との思い出、環境に関する記憶などのたくさんの情報が絡み合い、読者はまるで「食卓」に誘われているかのような気持ちになるでしょう。
夫とその友人・竹内好と共に、ソ連時代のロシア旅行について記したエッセイです。横浜から船に乗ってナホトカに向かい、ここからハバロフスクまでを鉄道に乗り、次に空路を取りイルクーツクへ。ウズベキスタン、グルジアを経て、ヤルタ、レニングラード、モスクワまでを20日間かけて移動した、大旅行の記録です。
日常の細やかな出来事の記録に長けていた武田百合子は、目玉となる観光スポットよりも、ちょっとした食事や、現地の人々との交流についてを掘り下げています。彼女ならではの観察眼により、賑やかな旅の風景が読者にも伝わってくるでしょう。
- 著者
- 武田 百合子
- 出版日
- 1982-01-10
本作は、武田夫妻によるロシア諸国や北ヨーロッパ旅行の思い出がベースになっています。夫はすでに、これが自らの生涯最後の旅行になると予感しており、友人も交えて各所をじっくりと1ヶ月間かけて回りました。異国情緒溢れる建造物や、当時ならではの食べ物や飲み物の描写は必見です。
当時の、決して豊かではなかったソ連の情勢を感じさせる内容もありますが、メニューのひとつひとつや、旅行中の魅力溢れるシーンをいくつも切り取り、美しくユーモラスに描き出しています。
本作は武田百合子が「Hさん」という聞き手と共に、都内をはじめとしたさまざまなスポットに出かけたことを綴るエッセイ集です。訪れた場所の名前をタイトルにした、まさに遊覧の日記だと言えるでしょう。何気ない雰囲気を隅々まで切り取った1冊となっています。
当時からすでにうら寂れた雰囲気があった「浅草花屋敷」や「浅草蚤の市」。知らぬ間に、恩師からどんどん食事をごちそうされてしまう「京都」。雪景色の美しさを思い出す「世田谷忘年会」など、著者の視点を通してさまざまな風景を眺めることができるでしょう。
- 著者
- 武田 百合子
- 出版日
作中に登場する、聞き手であり、あちこちの遊覧の同行者であるHさんは、百合子の娘である花です。写真家として活躍しており、母の著書のカバー写真を担当したこともあります。母と娘の飾り気のないやり取りや、それぞれの遊覧先での過ごし方なども、本作の見どころです。
「青山」で語られるおばあさんの家や、「あの頃」で綴られる戦争の終わりなど、ノスタルジックな雰囲気もポイントとなっています。夫との過ごし方を語った活き活きとしたエッセイ作品と比較すると、どこか落ち着いた淑やかな空気感が楽しめるかもしれません。
2017年に刊行された本書は、武田百合子が生前あちこちの雑誌に寄稿していたエッセイの中から、これまで単行本としてまとめられていなかったものを集めた作品集です。見逃していたかもしれない作品を楽しめる極上の1冊と言えます。時代や媒体が異なっているため、多種多様なテイストを堪能できるのもポイントです。
100編以上のエッセイをまとめたのは、一人娘である武田花。当時の映画館への思い入れや、夫と過ごした日々の記録、富士の山荘での生活や、島尾敏雄・ミホ夫妻との交流についてなどが綴られた、盛りだくさんの作品集です。
- 著者
- 武田 百合子
- 出版日
- 2017-03-21
武田百合子は、各雑誌に掲載されていたエッセイを単行本として収録する際、非常に細かく修正を重ねていました。本作は、書き手の死後に未収録作品を集めたという都合上、その修正の手が加わっていないため、ありのままの作品として読むことができます。
どの作品においても、特筆すべきこともない風景を飾り立てない言葉で、美しく描き出す作風は健在です。夫が亡くなったことへの悲しみや、姉夫婦との思い出など、これまでのエッセイ集では触れられることの少なかった、著者の内面に深く切り込んだ作品もあるので、ぜひ手にとってみてください。