19世紀アメリカの作家ナサニエル・ホーソーンは、17世紀アメリカの暗い歴史、とりわけ保守的社会の闇をテーマに描いた作品を多く書きました。その他にも独特の短篇を多数残しており、実はとても幅の広い作家です。
ホーソーンは、ニューイングランドのピューリタン社会を深く見つめるテーマが得意で、清純で繊細な作品を書いた、19世紀を代表する作家のひとりです。
出身地のマサチューセッツ州セイラム村は、イギリスからの漁業植民で古くから栄え、ピューリタンの公式な植民地が早くからありました。瀟洒なゴシック建築の街並みの旧家に生まれましたが、ホーソーンにとっては戒律と貴族主義の、息苦しい場所だったようです。
セイラム村はかつてクエーカー教徒迫害や魔女狩りの悲劇が起きた土地柄で、ホーソーンの父や祖父はそれに加わっていました。そんなホーソーンが書く、本当の正義を問いかける作品には、どれも説得力とリアリティがあります。
学校を卒業後、定職に就かず、母方の実家にこもりたくさんの短篇を書いていた時期は、かなり精神的にプレッシャーがあったようです。その後税関に勤務しながら書いた、代表作の『緋文字』で世に出ました。
17世紀のボストン、処刑台に見物人が集まるなか、乳飲み子を抱いた美しいへスター・プリンは毅然とした態度で現れます。
子の父親の名を明かせば赦すと言われても、へスターは一向に口を割りません。そこで判事たちは、処刑台で3時間さらし者にし、更に姦通罪のしるしである、大きな赤いAの字のある服を一生着ることを命じたのでした。
名を言えと何度も責められるへスター。群衆の中に、彼女は言いますまい、と話す牧師ディムスデールがいました。
獄中のへスターを、名医であるロジャー・チリングワースが訪ねます。この老人は名を変えた元夫。胸には未だ思うところがあるようです。
- 著者
- N. ホーソーン
- 出版日
- 1992-12-16
ホーソーンが、自身の生い立ちと重ねつつ、本当の善とはなにかを読者に問うてくる作品です。この場所では宗教戒律は法律そのもの、或いはそれよりも重いのです。当時の保守的な厳しい社会にあって、へスターは最低の待遇を強いられてしまいますが、全てを受け入れただひたすら耐え続ける姿が胸を打ちます。
彼女は晒し台に立たされる前からとっくに覚悟を決めていて、そこからますます逞しくなっていきます。一方自分の評判を気にして隠れて立ちまわっている人物たちは、どんどん追い詰められていき、冒頭の劇的なシーンを超えて緊迫感迫るラストを迎えます。
読む人によって、どの登場人物に感情移入するかが別れる作品です。報われない恋愛をしている女性は励まされるかもしれません。
暗く重いムードの中で、唯一光を放っているのがへスターの子である、少女パール。子どもには罪がないと感じられることが救いです。
ホーソーンが『緋文字』で人気作家となる前に書いた12篇が収録されています。
「ヤング・グッドマン・ブラウン」の主人公ブラウンは新婚で、出かける前には愛する妻フェイスと、主の恵みをお互いに祈り合います。
しかしブラウンがこっそり出かけた先は、悪魔崇拝の儀式。いけないと思いながらも森の中を進んでいくと、そこには普段尊敬していた信徒や、牧師までもいて、思わず信仰の基盤が揺らいでしまいます。
そして今宵、改宗の儀式に姿を見せたのは、なんと妻フェイスだったのです。
- 著者
- ホーソーン
- 出版日
- 1993-07-16
ホーソーンならではの、戒律や集団心理に翻弄されるニューイングランドをテーマとした作品はじめ様々な短篇が並び、短いながらもホーソーン作品の醍醐味を味わえる一冊です。
歴史や宗教観等に詳しくなくとも、閉塞的時代の保守的な社会ということさえ踏まえれば無理なく読むことはできるでしょう。
識者の間でも今日までさまざまに解釈が分かれるほどの、読み手によって印象が異なる作品が多く収められています。しばらくしてもう一度読み返してみるとまた新たな側面が見出せるかも知れません。
ロンドンに住む、仮にウェイクフィールドと呼ばれるその男は、妻に、旅行に行くと偽り、自宅の隣の通りに部屋を借りて、さしたる理由もなく20年以上そこで過ごしたのでした。しかも毎日家を見て、気を病む妻や、失踪と処理された自分の葬儀などを黙って覗いていました。
そしてまた突然、ある日何食わぬ風情で家に戻り、その後は死ぬまで愛情深い夫となったそうです。
- 著者
- ["N・ホーソーン", "E・ベルティ"]
- 出版日
- 2004-10-28
非常に短い作品ですが、あまりに奇妙で不条理なストーリーです。当人の心情など詳細が一切分かりません。それだけにとても強いインパクトが残ります。
事実は冒頭十数行で語られてしまい、あとは筆者の考察です。一体ウェイクフィールドはなんのためにこんな行動を取ったのか。失踪処理をされ、自分の葬儀が行われる様子をどう見ていたのか。妻は日頃、夫の不審な様子を全く感じなかったのか。真相は全く分からないままです。
ベルティが「ウェイクフィールド」を題材に妻の視点から書いた「ウェイクフィールドの妻」も収録されており、続けて読むと、一つの作品のように楽しめます。
遠い昔のこと。青年ジョヴァンニはイタリアの遥か地方から学業のため出てきました。間借りした屋敷には、まるで楽園のような植物庭園があり、なかでも大理石の鉢に植えられた見事な灌木は、いくつもの輝くばかりの紫の花をつけています。
世話をしに現れたラッパチーニ博士の娘ベアトリーチェは、若くて美しく、高い学識を持っています。「紫の宝石」と呼ばれるこの花には猛毒があることがわかりますが、なぜかベアトリーチェは恐れる素振りがありません。
なぜベアトリーチェはこの毒が平気なのか。恐ろしい秘密が徐々に明らかになります。
- 著者
- ホーソーン
- 出版日
- 2016-03-28
イタリアを舞台にした、耽美的な魅力の、ホーソーン作品の中ではやや珍しい作品です。
ベアトリーチェは、男性の非情なエゴイズムの結果であるとも、男性を不幸にしてしまうの女性ともとれます。秘密を知り、安易な対策を講じるジョヴァンニに、そもそもその恋にどれほどの覚悟があったのかを疑うこともできます。
ホーソーンの作品には、身勝手な男性たちと、その犠牲になる女性という共通点はしばしば見られます。この作品でも、ただ犠牲として生まれ生きたベアトリーチェが、不幸を一身に背負います。
5篇の名作が収録されています。
表題作「七人の風来坊」では、主人公の男が、ある夏の午後、はるかボストンを目指して旅をして歩いていると、巨大な四輪馬車を見つけます。
中からは陽気な音楽が聴こえ、声をかけてみると見事な影絵舞台をする人形師の老人が迎えいれてくれました。他にも、馬車の一角で移動本屋をする者や、ヴァイオリンを持った外国人など、それぞれユニークな特技を持った6人の男女が乗っていました。
彼らはスタンフォードの野外集会へ向かう途中だというので「私」も同行しますが、到着したころには既に終わっており、散り散りに解散、「私」はまた旅を続けるのでした。
- 著者
- ホーソーン
- 出版日
- 1952-10-15
同行を願う「私」に老人が問う、「ここにいる我々はみんな、れっきとした稼業がありまさあ。人間は一人前になるためには稼業がなくっちゃいけない。旦那は見たところ、用なしで、ただぶらぶらしていらっしゃる。」という質問がどきりとします。
6人はみな明るく親切で、一人旅をしていた「私」が図らずも7人目の仲間になったような気分になったのも束の間、「私」とは決定的に違いがありました。
そこで語る「私」の職業を得たいという思い。「でなきゃ生れた甲斐が無いんだ。」と言い切る台詞は切実で、文学者としてなかなか世に出られなかった時代の、著者自身の決意の投影のようです。
ホーソーンは『緋文字』がとても有名ですが、その他にも魅力ある短篇がたくさんあるので、一作品で終わってしまってはもったいないです。自分の過去や宗教観と日々真剣に向き合って書き上げた作品は、ホーソーンならではでなかなか類を見ない、まさに人生が詰まった名作揃いです。