ドイツで2ヶ国語の詩集を出版してデビューするという異例の経歴を持つ芥川賞作家、多和田葉子。言語の垣根を超えて活躍する彼女のおすすめ5作品をご紹介します。
1960年に東京で生まれた多和田葉子は少々変わった経歴を持つ作家です。彼女は22歳でドイツに渡り、書籍取次会社に勤務しながらハンブルク大学で修士課程を修了。その後創作に没頭し、1987年にドイツの出版社から日独2ヶ国語で書かれた詩集『Nur da wo du bist da ist nichts:あなたのいるところだけ何もない』を出版しました。日本語の作品としては1991年に『かかとを失くして』で群像新人文学賞を受賞し、小説家としてのデビューを華々しく飾っています。
1993年に『犬婿入り』で芥川龍之介賞を受賞し、その後も精力的に多言語を用いた作品を発表し続けているため、海外での評価も非常に高い作家です。今回は言語の垣根を超えて活躍する彼女のおすすめ5作品をご紹介します。
1993年に刊行された多和田葉子の芥川龍之介賞受賞作。沖縄中部の読谷村に伝わる民話「犬婿入り」をもとにして執筆された本作は、彼女の実力を世間に知らしめることとなった、衝撃の作品です。
物語の舞台は多摩川べりの町にある学習塾「キタナラ塾」。そこで先生をしている北村みつこのところに、ある日突然怪しい男が訪ねてきます。飯沼太郎と名乗る彼は、犬のような男でした。みつこは彼を拒むことなく受け入れ、2人はともに暮らしはじめます。
- 著者
- 多和田 葉子
- 出版日
- 1998-10-15
「昼さがりの光が縦横に並ぶ洗濯物にまっしろく張りついて、公団住宅の風のない七月の息苦しい湿気の中をたったひとり歩いていた年寄りも、道の真ん中でふいに立ち止まり、斜め後ろを振り返った姿勢のまま動かなくなり、それに続いて団地の敷地を走り抜けようとしていた煉瓦色の車も力果てたように郵便ポストの隣に止まり、中から人が降りてくるわけでもなく、死にかけた蝉の声か、給食センターの機械の音か、遠くから低いうなりが聞こえてくる他は静まりかえった午後二時。」(『犬婿入り』より引用)
上記の部分は句点がなく長いことで有名な、小説冒頭の1文です。異類婚をモチーフにした民話「犬婿入り」をベースとした本作は、ドイツで語学を学んだ多和田葉子によってまるで言葉遊びをするような日本語の連続で展開していきます。
彼女独特の文体で描き出される、欲に従順で人間離れした犬のような男と平気で共に暮らすみつこの不気味さや、キタナラ塾の生徒・扶季子が失踪した事件の真相。様々な要素が絡み合い、物語はユーモラスに進んでいきますが、多和田葉子はその内容と文体による相乗効果で読者を不思議な言葉の世界へと連れ去ります。
また併録された短編小説「ペルソナ」もドイツを舞台にした大変個性的な作品です。多和田葉子ワールドを堪能できる必読の1冊。是非読んでみてください。
本書は多和田葉子が日本語で書いた長編小説『雪の練習生』をドイツ語に自作翻訳する作業を行なった2013年1月1日から4月15日までの間に翻訳作業と並行して付けられた「自分の観察日記」です。
彼女は各地を旅する日常を送りながら、言語についての考察をこの日記に記していきます。日記をつけるに至ったそのきっかけは、毎日言語について考えている彼女がいざ言語についての本を書こうとすると何も書けないことに気付いたことからなのだそう。彼女にとって言語とは、一体何なのか。言語の垣根を超えて活躍する多和田葉子が自分自身を観察し、理解しようと思考する、非常に興味深い内容となっています。
- 著者
- 多和田 葉子
- 出版日
- 2013-12-21
彼女が愛するドイツ語という言語は、多くの日本人読者にとってあまり馴染みのないものでしょう。しかし本書では有能な翻訳者である彼女によって、読者は「多和田葉子」というフィルターを通したドイツ語の面白さを知ることができます。2つの文化と言語を知る彼女の見解は日本人にとって理解しやすく、また大変面白いため、読み終わる頃にはまったくの未知だったドイツ語を少し身近に感じられることでしょう。
またドイツに魅せられベルリンに住み、世界を旅しながら創作を行う彼女の日記には旅行に関する記述がとても多いため、旅行記としても楽しめる本書。そこに記された暮らしぶりからは、不思議な世界観の小説を生み出す多和田葉子の素顔を垣間見ることができます。ファン必読の1冊です。
多和田葉子がドイツの修道院に滞在したときの経験をもとに書かれた小説『尼僧のキューピッドの弓』本作は紫式部文学賞を受賞した意欲作です。
主人公である日本人の「わたし」は1000年の歴史を持つドイツの尼僧修道院を訪れます。そこで出会ったのは家庭を離れて第2の人生を送る個性的な老尼僧の面々。主人公は彼女たちと共同生活を送り交流を深めていくうちに、ある噂を耳にします。それは「わたし」を招いてくれた元修道院長の不在の理由が、彼女が引き起こした「駆け落ち事件」によるものだということでした。熟年の尼僧の禁断の恋愛。そこに「わたし」は興味を惹かれていくのです。
- 著者
- 多和田 葉子
- 出版日
- 2013-07-12
尼僧たちとの交流を描く第1部と元修道院長の半生を振り返る第2部で構成された本作では、著者によって読者が物語全体を俯瞰して見るしくみが作られており、多和田葉子が描く独特の世界にどっぷりと浸ることができます。
まず第1部で「わたし」が出会う沢山の老尼僧たちはそれぞれに1人の女性として生きた過去を持っており、修道院での役割やキャラクターが設定されています。作中、著者は主人公に憑依するようにしてそれを描き出していくのですが、その手法が大変チャーミング。尼僧侶たちそれぞれに漢字の渾名を付けるのです。「透明美」「老桃」「陰休」などと名付けられた彼女たちは、魅力的な言動で次々にストーリーを展開していきます。
そして迎える第2部では、1部で不在を貫いた元修道院長が語り手となることで、鮮やかに秘密が解き明かされていく様子が描かれます。老尼僧の愛と性。美しく収束してゆく多和田葉子の不思議な物語。ぜひ読んでみてください。
野間文芸賞を受賞した本作は「不思議な」世界観を持つ作品を多数発表している多和田葉子の著作中でも群を抜いて「不思議な」仕上がりの物語です。読み進めるうちに読者は次々に生まれてくる疑問を解き明かせないまま美しく詩的な文章の濁流に流されるような感覚に陥りますが、ひとまず素直に受け入れ、考えるよりも感じてほしい1冊です。
本作の主人公はホッキョクグマの「わたし」とその娘の「トスカ」そのまた息子の「クヌート」。本書には3匹のホッキョクグマの人生がユーモラスに描かれており、これは彼らが書いた自伝と形容するべき物語だと見受けられます。多和田葉子は人間ではなく、3代のホッキョクグマに自身の言語感覚を織り交ぜた不思議な自伝を書かせたのです。
- 著者
- 多和田 葉子
- 出版日
- 2013-11-28
第1章にあたる「祖母の退化論」は膝を痛めてサーカスの花形から事務職に転身し、自伝を書き始めた「わたし」の物語です。第2章「死の接吻」では娘の「トスカ」を主人公としており、彼女はサーカスで女曲芸師と伝説の芸を成し遂げます。第3章ではベルリンに移ったトスカの息子である「クヌート」が動物園で飼育員の愛情に育まれ、世界的なアイドルへと成長する姿が描かれているのです。
彼らは人間ではなくホッキョクグマという設定ですが、作中では時たま人間のように見え、それぞれが社会と関わり懸命に生きる姿は読者の目に大変美しく映ります。自伝とは、その人が生きた証の物語。多和田葉子が描いたこの不思議な小説は、私たちがうまく言葉にすることのできない、生の喜びや哀しみを巧みに表現しているように思われます。3代のホッキョクグマの人生を、是非、感じてみてください。美しい雪景色が見られるはずです。
伊藤整文学賞、並びに谷崎潤一郎賞を受賞して高い評価を得た『容疑者の夜行列車』は、13の物語からなる連作短編集です。
物語の舞台は夜行列車。主人公はダンサーとして世界を旅する女性である「あなた」です。各小説は「パリへ」に始まり「モスクワへ」「ウィーンへ」「ボンベイへ」など、「あなた」がこれから向かおうとする土地の名前がタイトルになっていますが、「あなた」は夜行列車に乗り込むたび、車内で奇妙な出来事に出くわします。
- 著者
- 多和田 葉子
- 出版日
本書は全体を通して2人称で書かれており、読者は「あなた」と繰り返し呼びかけられることで「あなた」に起こる奇妙なできごとを追体験させられます。多和田葉子によるユーモアに溢れたこの仕掛けは、読者を巧みに物語の世界へと引き込んでしまうのです。
「駅の様子がちょっとおかしい。ホームに人が嫌に少ないのである。それに、駅員たちがそわそわとして、何か秘密でも隠しているようである。駅員をつかまえて、どうかしたんですか、と尋ねるのも妙であるから、黙って観察しているしかない。駅全体が化けの皮をかぶっているのに、あなたはそれを剥がすことができずにいる。」(『容疑者の夜行列車』より引用)
上記引用は「パリへ」の冒頭部分です。出発する駅の様子についての状況説明が淡々となされた一段落ですが、すでに読者は「あなた」の旅のはじまりに不安を覚えていることと思います。「あなた」は、この旅で誰に出会い、何を見るのでしょう。無事、目的地にたどり着けるのでしょうか。多和田葉子に演出される、幻想的で不思議な「あなた」の旅。未知の読書体験が待っています。ぜひ、出発してみてください。
いかがでしたでしょうか。言語の垣根を越え、自由な感性で不思議な言葉の世界を織り成す多和田葉子の珠玉の作品。ぜひ読んでみてくださいね。