ハンガリーに生まれながらも戦争で国を離れざるを得ず、移住後に一から言葉を学び、小説家として名を成したアゴタ・クリストフ。故国への思いや、戦争下の残酷さを描いていますが、簡素で飾らない作風で、作品はどれも読みやすくて面白いものばかりです。
アゴタ・クリストフは、1935年、ハンガリーに生まれ、読書が大好きな子供時代を過ごしました。14歳のとき、家族と離れて寄宿学校に入学した頃から詩や戯曲を書いていました。仲の良かった一歳違いの兄と引き離されたことは非常に辛い体験だったそうです。
進学を希望していましたが、18歳で歴史の教師と結婚、母となり工場に働きに出ます。21歳のときにハンガリー動乱がおき、夫と乳飲み子とともに国境を越え西側へ事実上の亡命、フランス語圏であるスイスのヌーシャルテルへ移住することになりました。
安全は保証されましたが、毎日工場で働きづめで、フランス語を学ぶ機会もなく、大好きな読書も、日常会話にも困る日々を強いられます。26歳でついに語学講座へ行くことができ、5年ぶりに読書の自由を手に入れ、執筆活動をスタートさせました。
1986年、『悪童日記』で小説家としてデビューを果たし、一躍話題を呼びます。その後、2011年に亡くなるまでいくつもの名作を生みだしました。
命の危機を乗り越えたあとも、さらに語学的困難と闘ったクリストフの作品は、戦時下での荒れた暮らしなど重いテーマを扱いながらも、簡素を極めた読みやすい文体で、時間を忘れて没頭できるような魅力的なものがたくさんあります。
幼い双子の男の子「ぼくら」は疎開のため優しい父母のもとを離れ、田舎にある祖母の家に預けられました。
しかし祖母は、村人からは魔女とあだ名され、不潔でけちで意地悪でした。「ぼくら」を牝犬の子と呼び、ぶったり蹴ったりして畑仕事や家事にこき使います。二人は村人たちからも魔女の子と散々さげすまれ、言葉は頭に喰い込み足は震える思いです。
やがて二人は、生き抜くために様々な訓練を始めます。泣かない訓練、痛みに耐える訓練、暖かな思い出を捨てる訓練。そして二人には最後に越えねばならない訓練がありました。
- 著者
- アゴタ クリストフ
- 出版日
全編が少年二人の書く日記の体裁をとっています。アゴタ・クリストフがスイスに移住して数年後、現地語であるフランス語を苦労して学び初めて書いた小説で、一躍脚光を浴びた出世作です。著者本人の、いつも一緒だった一つ上の兄と過ごした日々や、町の人々の思い出もモデルとされています。
子供の文章でありながら、日々書く訓練をしているという設定により、淡々としていながら写実的で読みやすい独自の筆致を誕生させました。それがかえって、幼気な少年の孤独と戦争の残酷さを浮き立たせ、胸をえぐるように訴えます。
生き抜くために悪童にならざるを得なかった兄弟たちが下す、最後の決断が衝撃的です。
『悪童日記』の二人のその後が描かれています。
双子の一人リュカは今も同じ家に留まり、国境を越えていった兄弟クラウスを思いながら、家畜の世話をして暮らしています。
ある夜リュカは、凍てつく川を見つめて立ちすくんでいる若い女と身体障害のある赤ん坊を見つけ、家に招き、住まわせることにしました。リュカはその赤ん坊マティアスに愛情を注ぎますが、成長したマティアスは強いコンプレックスと孤独を抱えています。
- 著者
- アゴタ クリストフ
- 出版日
『悪童日記』では日記形式でしたが、この作品では一般的な小説の体裁で書かれています。抑制のきいた文体はそのままに次々と展開が進み、いくつもの謎が重なるミステリー風の趣もあり一気に読める作品です。
戦争、貧困、無知などの恵まれない環境が様々に不幸を呼び、人々の人生や命が非常に軽く翻弄されていきます。生きるとは、愛するとは、そして圧制下の困難な状況にあってもそれは普遍のものか、考えさせられます。
ラストで更にリュカやクラウスたちの謎が残り、三部作の最後である『第三の嘘』もきっと読まずにいられなくなるでしょう。
「わたし」が4歳だった頃から今までを振り返ります。
本を読むことが大好きな少女だったこと、1歳違いの兄とはいつでも一緒だったこと、14歳で家を離れて寄宿舎で厳しい生活を送ったこと。そして人生において最も重大な出来事の一つである、その大事な兄弟や、秘密の日記、そして初期の詩篇を残したまま、故郷への帰属を永久に失った日のことについて。
そして、4歳で本を読むことのできた「わたし」が、創作活動どころか、ゼロからフランス語の読み書きを学ばねばならなくなった辛さにも言及します。
- 著者
- アゴタ クリストフ
- 出版日
- 2014-09-23
食文化が異なるためほとんど食が進まない、親切にはされるがどうにも動物園に捕らえられたような居心地の悪さを感じる、安全すぎて何も考えることがなくただ時間が過ぎるのを待つだけといった、実際に経験していないと分からないリアルな体験談が、淡々と綴られています。
母国では読書好きで詩も書いていたアゴタ・クリストフでしたが、移住後は、フランス語で話すようになっていく娘との会話にも苦労する日々を強いられました。数年後、外国人向けのフランス語講座に通い、再び読むことができるようになった喜びは、危機を乗り越えた著者独自の価値を持っていることを想像させます。
トビアスは、ある国の名もなき村で生まれました。唯一の家族である母は、生きるために村人に物乞いをし、娼婦をしています。ある日トビアスは刃物を手にし、村を出て国境を越え、戦争孤児と偽って保護施設に入りました。
やがて工場労働者となり、流れてくる部品に穴を開け続ける仕事に就きます。耐えられなくなり大声を出す人をこの工場ではたびたび見かけます。
彼の暗く単調な人生にとって、詩を書くことと、幻想の中に生きる女性リーヌだけが唯一の光でした。
- 著者
- アゴタ クリストフ
- 出版日
双子三部作の後に書かれたこの作品は、登場人物は異なるもののとても近い雰囲気を持っており、ぜひ続けて読みたい作品です。アゴタ・クリストフにとってはそれだけ重大なテーマであったことが改めて感じられます。
三部作の後半の二作は徹底して主観を排した第三者の視点で書かれていましたが、本作では主人公自身が語り、そして事実とも幻想ともつかない抽象的文章も挿入されており、冷たさと暗さはそのままに三部作とはまた違った静謐(せいひつ)さと柔らかさを持っています。
暗く思い雰囲気ですが、幻想的美しさもあり、結末には微かな希望が感じられるのではないでしょうか。
表題作「怪物」は、ある架空の世界の、ほとんど裸で暮らす未開の原住民が暮らす村での話です。
村の男ノブは、仕掛けていた罠に、見たこともない大きくて恐ろしい獣がかかっているのを見つけました。武器でも殺すことができず、村に恐怖が訪れます。
その怪物は背中から幻覚が見える毒を放っており、それで倒れた人間を怪物は食べてしまうのです。しかし村人たちはその幸福感のある幻覚効果に魅了されてしまいます。
- 著者
- アゴタ クリストフ
- 出版日
スイス移住後、小説家デビューの前に書かれた、とても短い戯曲5作品が収録されています。
様々な時代や場所を舞台に、鋭い短剣のようなどきりとするようなストーリーが並び、どれも寓意的で示唆に富んでいます。小説においては、もっぱら戦争と亡命をテーマにして書かれましたが、この戯曲集を見ればアゴタ・クリストフの非常に多彩な世界観や構成力に驚かされるはずです。
著者の他の作品を読んでいない方や、戯曲が苦手だという方なども含め、読者の好みをほとんど問わず誰にでも幅広くおすすめできる、とても読みやすい面白いストーリーが並びます。
一つの強い思いに駆られ書かれたであろう作品たちですが、人生、愛、エゴ、障害、仕事、貧困、文化についてなど、実は非常に幅広い思索のきっかけを提供してくれます。読むほどに、世界中で様々な人々に読まれている理由と魅力が分かることでしょう。