1969年に発行された「くまの子ウーフ」シリーズは、シリーズを通して長く愛され続けている、日本児童文学界の傑作シリーズの1つです。世代を超えて愛され続ける人気の理由に迫ります。
著者神沢利子と言えば、数々の賞を受賞してきた日本児童文学界の巨匠の1人です。
中でも「くまの子ウーフ」シリーズは、小学校低学年の国語の教科書にも幾度となく採用され、海外でも6ヶ国語に翻訳、出版されている彼女の代表作。
児童文学なのに、シリーズ累計発行部数90万部超、100を軽く超える重版数という数字を見れば、その異様なまでの人気がお分かりいただけるでしょう。
絵本化、アニメ化もされているので、そちらでご存知の方も多いかもしれませんね。
今回は、そんな「くまの子ウーフ」シリーズの世界を、児童文学の視点でご紹介していきます。
『くまの子ウーフ』の物語は、遊ぶこと、食べること、色んなことを考えることが大好きな、くまの男の子ウーフを中心に、その友だちのキツネのツネタ、ウサギのミミちゃんなどとの、ありふれた日常を描いたお話です。
とはいえ、ただ日常を描いているだけではありません。ウーフは考えることが大好きで、子どもらしい、しかし物事の本質に迫ることに疑問を感じます。
当然のこと、と深く考えたこともなかったことを子どもに訊かれ、回答に困ってしまうこと、たまにありますよね。ウーフの質問は、まさにそういう類の質問なのです。
- 著者
- 神沢 利子
- 出版日
例えば、「ウーフは おしっこでできているか?」というお話では、ウーフは物を形作る素材に疑問を感じます。
卵は黄身と白身、スプーンはステンレス、イスは木……じゃあ、卵を産むめんどりは?
ウーフは、めんどりは卵でできていると考えますが、それを聞いたツネタが、「ウーフはおしっこを出すからおしっこでできているんだ」とからかいます。
怒ったウーフですが、ツネタを追いかけて転んでしまい、涙が溢れ、足からは血も出て……そこで気づくのです。「ウーフの身体から出てくるものは、おしっこだけじゃない。涙も、血も出てくるんだ」と。
そして、家に帰ったウーフは、お母さんに言うのです。「ぼくはぼくでできてるの。ウーフは、ウーフでできてるんだよ。」
物の素材という実存を問いていた話が、ツネタのいじわるな質問で「自己の定義」という難問に変わり、「自己は自己により成り立つ」という本質に帰結するという流れは、見事と言うほかありません。
日常生活で、ありふれたことだから深く考えもしなかったことというのは、大概が答えが出るまで考えていたら生活できなくなってしまうような、人生の中でも答えが変遷していくような命題です。それは人が生きる上での根源的な問題といえます。
子どもたちの、子どもたちらしい可愛いやりとりから唐突に繰り出される難問は、大人の感性からすると実に哲学的な命題なのです。
そんな難問を提示するのですから、中には考えさせること自体が目的で、提示された問題に模範解答も無く終わってしまうお話もあり、読後感がすっきりしないままになってしまうお話もあります。
しかし、そうやって難しく捉えるのは大人だけ。子どもたちはその素直な感覚でサラリと模範解答を言い当ててしまったり、感覚的に善悪だけを判断し回答をスルーしてしまったりするのですから、子どもたちの「生きる才能」には、ただただ驚かされるばかりです。
『くまの子ウーフ』は、そんな子どもたちの「生きる才能」を再確認させてくれる作品といえます。
さて、ここまでお読みになって、「何だかウーフって小難しいお話なのね……」とちょっと尻込みしてしまったあなた。「くまの子ウーフ」シリーズの魅力は、何も哲学的なテーマだけではありません。
神沢利子は、本作を執筆するにあたり、「ストーリーに頼らず、もっと詩的な形で物事の本質に迫りたい」と考えていました。
それは、既にファンタジー児童文学作品で名を知らしめていた神沢にとって、新たな試みでした。
哲学的テーマも、「物事の本質に迫る」という試みの中で自然と表現されたものですが、神沢の狙いは本作品では、もっとわかりやすい形で表れています。
- 著者
- 神沢 利子
- 出版日
詩的な表現を試みている部分は、作中の擬音表現が特に顕著です。
ハーモニカの音色を「りら るら すいー」と表現したり、キツツキが木を突く音を「こんこん ころろろーん ころろろーん」と表現したり、一般的な表現からかけ離れているのに、何となく音が脳内で再生されませんか?
音の本質を語感のみで表現するという試みは、中原中也の詩を想起させられます。
こういった語感に頼った表現というのは、翻訳作品ではなかなか味わえません。擬音や動物の鳴き声の表現が言語によって違うことからもわかる通り、日本の作家が日本語で表現し、日本人が受け止めるからこそ通じる表現なのです。
詩的な表現というのは、そういう表現技法に限ったことではありません。
1話のお話を通して、まるで童謡のように記憶を揺さぶり、頭の中に映像が浮かび上がるような表現もまた、詩的表現といえます。
「おひさまはだかんぼ」では、なんてことのない夏の1日を描いたお話にも関わらず、日本の夏の風景が頭の中いっぱいに広がるのです。
それは、ある夏休みの一日へ、皆さんをタイムスリップした気分にさせるでしょう。
哲学的で難解な問いを定義するだけでなく、そういった詩的表現もまた、「くまの子ウーフ」シリーズの傑作たる由縁なのです。
『くまの子ウーフ』が評価されている点に、「大人が答えに詰まるような哲学的、根源的命題を、子どもらしい素直な疑問としてぶつけてくる」ところがあります。
多くの書評や読者感想でその話題が挙がるということは、ウーフの魅力の大きな部分を占めているのは確かでしょう。
しかし、それは物語として物事の本質に迫っているともとれ、神沢利子が目指した「物語に頼らない、詩的な形で本質に迫る表現」とは矛盾する表現だったともいえるのです。
だからなのか、ウーフのシリーズ最終巻にあたる本作では、哲学的な印象が極端に薄れているのです。
- 著者
- 神沢 利子
- 出版日
- 2001-09-01
「くまの子ウーフ」シリーズは、元々2冊で完結していました。1つ前にご紹介した『こんにちはウーフ』は、当初『続 くまの子ウーフ』として刊行されていたのです。
それが、2001年の改訂で『続 くまの子ウーフ』を再編成。『こんにちはウーフ』として編成した際に残ったお話に書き下ろし3話を加えて3巻目にまとめたのが本作『ウーフとツネタとミミちゃんと』です。
実は、神沢利子は『続 くまの子ウーフ』を書き上げた際、あとがきで「わたしはもう卒業するつもりで『ぴかぴかのウーフ』を書きました」と語っています。
ウーフが小さくなったズボンから卒業するお話を、自分の卒業にかけていたのでしょうか。神沢にとって「ぴかぴかのウーフ」は、「物語によらず、物事の本質に迫る」挑戦からの卒業でもあったのかもしれません。
しかし、完結したはずの「くまの子ウーフ」は、2001年の改訂の際、実に17年の時を経て新作エピソードが書き下ろされたのです。
本作に収録されたエピソードは、どれもそれほど哲学的な命題をテーマとしているわけではなく、淡々と子どもたちの日常を描いているにとどまっています。
しかし、物語を通して哲学的なテーマを描いていた過去作は、ある意味で物語に頼っていたともいえ、それは、神沢が目指していた表現とは明らかに矛盾しています。
17年の時を経て描かれたウーフのお話は、どれもありふれた日常の中で感じることばかりです。
親の愛情、子の成長、楽しく一緒に食べれる幸せ……食を通して気づく、ありふれた日常に散りばめられた小さな幸せたち。いつも当然のようにそこにあるが故に忘れがちな小さな幸せを、ただ素直に感じとれるように表現する。
神沢の目指した「物事の本質に迫る」表現というのは、本当はそういう表現だったのかもしれません。だって、ウーフはウーフでできているのですから。
いかがでしたか?今回は児童文学の視点から、神沢利子が描きたかった「本質」とは何かをテーマにご紹介しました。
児童文学ですから、読者である子どもが子どもとして自然に共感できる何かこそ、本来神沢が追い求めた本質なのではないでしょうか?哲学的な部分も大いに魅力ですが、それよりも、お子様がどこに目を輝かせるか、どこに共感するかをよく見てあげてください。