日本文学史上、これほど知られた作家はいないのではないかと思われる文豪のひとり夏目漱石。『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』『こころ』と数々の名作を世に送り出しました。漱石が晩年描いた夢物語が『夢十夜』です。幻想的で怪奇的な10篇の物語。そんな『夢十夜』という作品を紐解いていきます。
日本でいちばん売れている文庫本は、夏目漱石原作の小説『こころ』と言われています。それくらい日本人なら誰もが知っている文豪・夏目漱石。死後100年以上経った今もなお、多くのファンに愛され続けています。
中学校教師、イギリス留学、東大講師などの経験を活かし、『吾輩は猫である』で作家デビュー。好評を博し、次々に作品を発表し話題となる漱石。そんな漱石が『夢十夜』という小品を発表したのは1908年のこと。東大を辞め、創作に専念するため新聞社に入社した頃でした。
漱石は、若い頃から神経衰弱に悩まされてきました。留学中は、孤独の中の研究だったためか特に悪化したそうです。心のリハビリのために書き始めたのが小説だったのです。
『夢十夜』は第一夜から第十夜までの短編集。漱石の心にある不安や恐怖などが凝縮され、「夢」という形で表現された不思議な物語が連なっています。ほかの長編小説とは明らかに異なる作品です。
この記事では、そんな『夢十夜』を第一夜から第十夜まで1篇ずつ紹介。それぞれの夜に潜む意味を考察していきます。
- 著者
- 夏目 漱石
- 出版日
夏目漱石の描く10篇の夢の物語『夢十夜』。その中で最も美しい物語といわれているのが、この第一夜です。
『夢十夜』は「こんな夢を見た」という出だしが有名で、この第一夜もそこから始まります。男が枕元に座っていると、その前で横たわっている女が、「自分が死んだら埋めてほしい。墓の傍で待っていたら逢いに来ますから」と言い残し死んでしまいます。
男は墓を掘り、その中に女を埋めます。そこへ女の願い通り星の欠片を乗せました。それから苔の上に座り、百年待ち続けるのでした。
1人の女を想い待ち続ける男。もしかして女にだまされたのではと思う頃、真白な百合の花が男の目の前で咲きます。これこそが女の生まれ変わり。その白い花びらに接吻する男のなんとも幻想的なこと。
最後の「百年はもう来ていたんだな」というセリフに、一途に人を愛する気持ちの無垢さ、強さが感じられる素敵なお話です。
舞台はある臨済宗の寺院。禅問答にて、悟りを認めてもらうため必死の侍でしたが、なかなか悟れずにいました。もし悟れぬ時は、自刃しようと座布団の下に短刀を入れてあります。無とは何か必死に考え、悟ろうとする侍の姿を描いたお話。
この「無」とは何なのか。終盤「行燈も蕪村の画も、畳も、違棚も有って無いような、無くって有るように見えた」とあります。禅の教えのひとつにある「無」。
その教えでは、この「無」という一字に全身全霊を集中させて、大きな心境の変革をもたらすものだそうです。私たちが持っている思い込みやとらわれから殻を破るということだそう。
集中することで、今まで当たり前と思っていたことが当たり前でなくなる、自分が分け隔てていたものが消え去る体験ができるのだと。侍はこの境地まで行きつくことができたのでしょうか。
ただ、この侍「とはいっても無はちっとも現世しない」というのが、また何とも可笑しいところ。無を悟ろうとしつつ、無が目の前に現れることがないという矛盾が大変愉快ですね。
『夢十夜』の中で、人気の高いお話がこの『第三夜』。10篇のお話の中でも、最もホラーテイストが濃くなっています。
子供を背負いながら田圃を歩いていた自分。その子は6才にも関わらず、言葉つきは大人のようで対等に話しかけてきます。盲目でありながら、周りの状況をやけに把握している我子が次第に怖くなっていき、どこかに捨ててしまおうと考えるのでした。
そうして、杉の木の根元までやってくると、「百年前文化5年のこんな闇の晩に」起きたことを思い出す自分。その内容とは......。このお話は、怪談話として知られる「六部殺し」をモチーフにしたのではないかという説もあります。
背負っていた我子から、100年前の罪深い出来事を聞かされる自分。その事実に気付いた途端、背中の子が石地蔵のように重くなります。その重さは、自身の罪の重さ故か。しかし、最も恐ろしいのは、自分の罪を自覚し向き合うこと。本当の自分を知ることが恐怖そのものなのではないでしょうか。
広い土間の真中で、一人で酒を飲んでいる爺さんと神さんが問答をしています。それを聞いていた自分。その爺さんが、河原の方へ向かい出すと自分も追いかけます。柳の下まで来ると、爺さんは腰から浅黄の手拭を出し、地面の真中に置きました。
そうして、今にこの手拭が蛇になると笛を吹き出します。笛をやめると、手拭を箱に入れ、そのまま河の中へ入っていくのでした。
『夢十夜』という作品の多くは、生まれ変わりを描いています。そこで、この第四夜もまた生まれ変わりをポイントに読み解いてみました。
気になるのは、御爺さんの家は何処かねという質問に対し、「臍の奥だよ」と答えているところ。臍の奥といえば子宮があります。爺さんは、これから生を受ける赤ちゃんに生まれ変わろうとしているのではないでしょうか。
ただ、河の中へ入ったきりという状態が生を表しているのか、死を現しているのかは謎です。蛇の意味が重要で、読み手に解釈を委ねているのかもしれません。そもそも夢のお話ですから解釈はいかようにもできますよね。
『夢十夜』第五夜は神代に近い昔という設定。軍に負けた自分は生捕になり、敵の大将の前に引き据えられました。死ぬことを選んだ自分でしたが、最後に思う女に逢いたいと願い出ます。
そこで、夜が明けて鶏が鳴くまで待つという大将。それを知ってか知らずにか、女は白い馬を出して急いで駆けていきます。しかし、邪魔者が入ってしまうのでした。この邪魔者が天探女。
このお話のポイントはやはりこの天探女でしょう。「天探女」とは、天の動きや人の心などを探るシャーマンのことです。そこから現代では、人の心を読み取りイタズラをする小鬼や妖怪といった位置づけの「天邪鬼」となりました。
第五夜での天探女は、好きな男に逢いに行く女を騙して邪魔をしました。これは現代の天邪鬼と同じこと。「天探女は自分の敵である」ということから、漱石自身も恋路を邪魔された経験があるのかもしれませんね。
平安時代から鎌倉時代に活躍した仏を彫る彫師である運慶。なぜか明治時代にも存在しており、護国寺の山門で仁王を刻んでいると聞きつけ、自分も行ってみます。すると多くの人で賑わっていました。
見物人は、その見事な技巧を口々に称えます。自分も感心して「思うような眉や鼻が出来るものだな」とつぶやくと、見物人の1人から「運慶は眉や鼻を作るのではなく、木の中から掘り出してるのだ」と聞きます。家に戻って自分もやってきましたが、掘り出せませんでした。
このお話は、作中の「運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った」が注目すべき点。「刀の入れ方が如何にも無遠慮であった。そうして少しも疑念を挟んであらんように見えた」と運慶を描写しています。運慶は見物人などに目もくれず、ひたすら自身の仕事に向き合っているのです。
一方、漱石は神経症や胃弱を抱えながらの創作活動です。運慶の仕事ぶりには程遠いことでしょう。
鎌倉時代には、運慶という天才を生み出すような芸術性が存在していました。しかし、漱石の生きた明治時代には、すでに喪失してしまっていることを自分と比較し訴えているように感じます。
何処へ向かうとも知れない大きな船に乗っている自分。水夫に問うてもわかりません。いつ上陸できるかもわからず、何処へいくかもわからず心細くなっていきます。多くの乗合客がいましたが、みな外国人ばかりでした。しきりに泣いている女性を見かけ、悲しいのは自分だけではないのだと思います。
その後、サロンで若い女と背の高い男が音楽を奏でているのを聞き、無性に孤独を感じた自分はついに海の中へ飛び込んでしまいます。その途端、急に命が惜しくなり、心の底から後悔するのでした。
漱石の人生の大半は、神経衰弱を抱えながら生きていました。特に国からの要請で、イギリス留学をしていた時は酷かったようです。その頃の事をモチーフにしたのが、この第七夜ではないかと推測できます。
乗合の客が異人ばかりということや船の上での孤独感は、イギリスで知らない異国人だらけの中、たった1人で研究を行っていた漱石の生活そのものではないでしょうか。留学中に自殺するまでには至りませんでしたが、それくらい辛い日々だったことが窺える第七夜です。
床屋に入る自分。鏡越しに窓の外を通る往来の人たちが見えます。
庄太郎のパナマ帽に喇叭を吹く豆腐屋、御化粧をしていない芸者などなど。そんな自分のところへ、白い着物を着た大きな男が来ました。男に思わず、「さあ、頭もだが、どうだろう、物になるだろうか」と聞いてしまいます。その問いには答えずひたすら鋏を動かす白い男。何故か表の金魚売を見たか自分に問います。
その後も、鏡に映らず、声だけが聞こえる自転車と人力車、粟餅屋。帳場格子には、大柄な女が札の勘定をしていました。
床屋という空間と外の世界というのが第八夜の注目点。自分がいるのは床屋という限られた空間です。そこから見える鏡越しの世界は、まさに現実世界そのもの。漱石の生きた時代がそのまま映し出されています。
ここで、さらに注目すべきは、鏡に映るものと映らないものがあるということ。ざっくり言ってしまえば、映るもの=外国文化やそれに影響されたもの、映らないもの=日本の文化と読み取れます。そんな中、文明開化にも唯一動じない存在が金魚売でした。
この時代、新旧や内外のものが混在し、その中で生きることに漱石なりの難しさがあったのでは。そんな漱石の複雑な状況を描いたお話なのでしょう。
「世の中がなんとなくざわつき始めた」と始まる第九夜。「今にも戦争が起こりそうに見える」と続きます。漱石の時代にも戦争が起きていました。明治時代の戦争といえば、日清、日露戦争があります。
このいずれかの戦争におそらく徴兵されたこの家の父。家には若い母と3歳になる子供が残されました。夜になると、母は帯を締め直して、夫の遺したであろう鮫鞘の短刀を帯の間へ刺して、子供を背負い出かけていきます。
行く先は古い拝殿の八幡神社。夫の無事を祈り、お百度参りをする母がいました。その間、子供は拝殿に括りつけられ、暗闇の中、時に泣きながら、時に這い廻り母を待ちます。
母と子のお話というと、漱石の幼少期が思い起こされます。名家の末っ子に生まれた漱石は、すぐに里子に出されることに。一度、実家に戻されるものの、またもや別の家へ養子として出されてしまいます。そこでの養父母の離婚により、再度、実家へと戻るのでした。
そんな状況下でも、実母だけは漱石を可愛がったといいます。しかし、漱石が14歳の頃、亡くなってしまうのでした。母に取り残される子供が描かれる第九夜。ふと漱石の幼少期の寂しさと重なるような気がするのは筆者だけでしょうか。
『夢十夜』の第十夜。ラストのお話です。ここでは、第八夜に登場する庄太郎が再度登場。お話の中心人物であります。
そんな庄太郎は行方不明になってから七日目の夜に帰ってきました。その途端、急に熱が出て床に就いていると健さんが自分に知らせにきます。そこから、庄太郎がみなに語った不思議な体験が語られていきます。
庄太郎には道楽がありました。パナマ帽子を被り、夕方になると水菓子屋の店先に腰かけて、往来の女の顔を眺めるというもの。そこで庄太郎は、身分があり、顔の好みの女性に出会います。
その女の荷物を運ぶ名目でついていく庄太郎。そのまま帰って来ませんでした。その間、庄太郎は女と豚の大群にひどい目に遭っていたのでした。さて、この女と豚とはどんな意味があるのでしょうか。
庄太郎は好男子で正直者。さらに、パナマ帽子にみられるように目新しいものも興味を持つ普通の市民です。外国から多くのものが入ってきた時代に敏感に反応し、上辺だけ興味を示すような群衆の象徴ともとれます。同じように、豚もその群衆のひとつ。漱石からしたら、この群衆が最も恐ろしい存在だったのかもしれませんね。
豚に舐められるとは、自分の作品が受け入れられないということでは。その群衆から何度も何度も逃れようとする漱石の心を反映した作品なのではないでしょうか。
『夢十夜』とは夢のお話です。夢とは荒唐無稽で、意味のわからないことが多いものです。しかし、夢辞典や夢占いなどにみるように、潜在的な真理が隠されていることもあります。『夢十夜』以前に書かれた長編小説とは明らかに異なる小品。だからこそ、そこに漱石の潜在的な内面が表れているとも言えます。
文化の混在や明治という時代の持つ問題など、漱石が抱える漠然とした不安が見え隠れしています。わざと「夢」という括りにすることで、言葉にするには難しい事柄を多少難解だとしても表そうとしているのではないでしょうか。
難解すぎてきっとわからないだろうと、読者への挑戦状的な意味合いも含まれているのかもしれません。そんな漱石の夢の挑戦状。ぜひ一度は読んでみてください。そして、自分なりの解釈で楽しんでみることをおすすめします。
『夢十夜』は、夏目漱石作品を無料で読むことのできる青空文庫や出版社各社から出ている文庫本で読むことができます。出版社によっては、本文だけでなく解説や注釈付きのものもありますので、お好みで選んでみてください。
青空文庫『夢十夜』 https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/799_14972.html
- 著者
- 夏目 漱石
- 出版日
- 著者
- 漱石, 夏目
- 出版日
- 著者
- 夏目 漱石
- 出版日
- 1986-03-17
夏目漱石の『夢十夜』は多くのクリエイターにも多大なる影響を与えています。この『夢十夜』を原作とする漫画や映画なども多数あります。それらの作品と原作小説を比べてみても面白いかもしれませんね。
- 著者
- ["近藤 ようこ", "夏目 漱石"]
- 出版日
- 著者
- ["桟敷 美和", "夏目 漱石"]
- 出版日
- 著者
- ["夏目漱石", "バラエティ・アートワークス"]
- 出版日
この記事と連動した企画記事、「【ホンシェルジュ連動企画】文豪・夏目漱石原作 映画『ユメ十夜』を徹底紹介!」は犬猫文映館で読むことができます。
原作版と映画版、それぞれの魅力はどこにあるのか。比較しながら作品を楽しんでみるのもまた別の味わいがあっておすすめです。