大胆かつ緻密な理論に裏付けされた世界観。自分が何者かを解き明かすハードSFの大家グレッグ・イーガン。これまで彼を知らなかった人ものめり込める作品をご紹介します。
オーストラリアのSF作家、グレッグ・イーガン。彼は星雲賞を三年連続、ローカス賞を二年連続で受賞するなど、SF作家として確固たる地位を築いている作家です。
一方で、著作物に著者近影を載せず、メディアに顔を出さないなど、謎多き覆面作家でもあります。
そんなイーガンの作風の特徴は数学的・物理的理論が前面に出ているところでしょう。これは、彼が数学の理学士号をもっていることと、病院付属の研究施設でプログラマーをしていた経験が色濃く反映されています。
今回はグレッグ・イーガンを知らなかった方も楽しめる5作品をご紹介します。
肉体を捨て、自らの精神をソフトウェア化した人類が存在するポリス。主人公ヤチマは、そのなかで生まれた人工知性です。
銀河系スケールで迫る危機に瀕し、宇宙に進出する「ディアスポラ」計画の発動。ヤチマは大宇宙を移動し、時に次元を超え、別宇宙に飛びながら、自分が何者であるかを探していきます。
- 著者
- グレッグ・イーガン
- 出版日
- 2005-09-22
タイトルとなっている「ディアスポラ」とは、離散を意味する単語です。そして、本書における「ディアスポラ」は、もとの言葉の意味である離散、すなわち地球からの離散だけでなく、もう一つ重要な意味を持ちます。
それは、一つの人格が自分のコピーを1000体作り、その1000体の意識がそれぞれ別の方向へ宇宙船で旅立つということです。これは、人類がその精神を肉体から分離させ、存在がソフトウェア化している世界ならではの展開であり、本書の核となる部分です。自分とは何者か、という問いが様々な角度から思考されます。
「ディアスポラ」計画により、人格のコピーが複数作成され様々に離散する場面では、オリジナルとコピーの差がない状態で、人は自己同一性をどのように捉えるべきかという思考が繰り返されます。
そして、ラストシーンでは、精神体であるがゆえに寿命を失い、永遠の生を得たポリス市民がどのように自分の生を画定するのかという問いへの答えが出されます。そしてこれにより、死が、自分が何者であるかを定めるのに必要不可欠であると示されるのです。
『ディアスポラ』は簡単な物語ではありません。もっとも、必要最小限の用語解説は巻末に記載されているため、単語や概念の理解につまずいたときは巻末を参照するのも手です。しかし、わからない単語があったとしても雰囲気を大切にして読みすすめ、その世界に浸ることをおすすめします。
それでも難しそうな方は、後述の短編集『しあわせの理由』『プランク・ダイヴ』から読んでみてください。グレッグ・イーガンの世界観に慣れたあとなら、宇宙も進みやすくなるはずです。
人間が全身をスキャンして、人格を含めた身体をコンピュータ内にシミュレートできるようになった世界。大富豪たちは、そうやって作成された「コピー」を維持することで不死を手に入れます。
しかし、「コピー」はコンピュータというハードウェアが壊れたり使用不可能となった場合には失われ、不死ではなくなってしまいます。そんな死をおそれる大富豪(のコピー)たちの前に現れたのが主人公ダラム。
彼は大富豪たちに、たとえ宇宙が終わろうとも永遠に存在し続けるコンピュータ機構を提案します。
- 著者
- グレッグ イーガン
- 出版日
主人公ダラムが提案したのは、「塵理論」に基づくコンピュータ機構です。
「塵理論」とは、世界の無限性を前提として、その無限の組み合わせを用いることですべての事象を存在させることができる、という理論です。そしてそこでは、因果関係とは、様々な事象の結びつきを観測者が選び取ることで成立しているにすぎないとします。
塵のように散在する事象を組み合わせることで、無数の代替世界が存在することが可能となり、因果関係という時間の流れと存在を切り離すことで、存在は永遠を手に入れるのです。
インターネット上のクラウドを利用したバックアップ。今でこそ当たり前であるその概念は、『順列都市』が発表された1990年代にはまだ存在していませんでした。現在のインターネットシステムが、著者グレッグ・イーガンの描く世界の通過点であると考えることで、また別の楽しみ方ができる作品です。
上巻を読み始めるときは是非下巻もお手元にどうぞ。この区切りどころはズルい!と思わず唸りたくなるラストに上巻がなっています。そのまま下巻になだれ込む快感に酔いしれてください。
理論で固められたSFが読みたい、けれど長編を読むのは大変というときはこちら、『しあわせの理由』をどうぞ。
本書は9つの作品をおさめた短編集であり、重ための内容ながら親しみやすいテーマなので、イーガン作品初心者の方の入門本としてうってつけです。
- 著者
- グレッグ イーガン
- 出版日
理性があまりに強く働きすぎるようになった結果、愛や情欲といった熱い感情を失ってしまった主人公の独白が切ない作品、「適切な愛」。
光や音でさえも一方通行の動きしかできなくなる、暗闇へ巻き込まれた住民たちを助けに行くレスキュー隊員の物語「闇の中へ」。
絵画の世界を現実に再現しようとする思想集団に狙われた、警察官とキメラの物語「愛撫」。
不義や同性愛を忌避する科学者の、理論の穴と最悪の結末を描く「道徳的ウイルス学者」。
読めばわかる緩やかな恐怖「移相夢」。
高額で落札された聖母画をめぐる殺人事件を描いた、ミステリーとして楽しめる「チェルノブイリの聖母」。
死が失われた世界で、他者の死を知っている世代と、死を知らない世代の間で意思疎通を図ろうとする「ボーダー・ガード」。
幼い時分、互いの傷口を重ね合わせることで「血をわけた姉妹」の契りをした一卵性双生児の、人生の分岐を描く「血をわけた姉妹」。
無意識に生み出される好み。それを意識的に変更した場合、それは好みと言えるのか……。表題作でもある「しあわせの理由」。
どれも楽しめる作品です。
アインシュタイン没後100年。それを機に世界の法則全てを説明する「万物理論」の発表が行われることになり、ジャーナリストである主人公は発表の地へ向かいます。
「万物理論」国際会議の会場はバイオテクで太平洋の人工島に独自の体制を維持する無政府共同体「ステートレス」。そこで起きる死後復活、そして反科学カルトの陰謀。
混沌が収束するときは来るのか――。
- 著者
- グレッグ・イーガン
- 出版日
- 2004-10-28
本書の特徴は、万物理論という物理学のテーマをメインに置きながらも、政治や宗教、人間模様といった社会学的なテーマが多い点にあります。その特徴を端的にあらわすフレーズがこちら。
「ひとつの精神が、それひとつきりで、別の精神を説明することで存在させられるものだろうか?」
(『万物理論』より引用)
自分とは何か、という問いを他者の存在と関係性の存在から解き明かす本書。
主人公は国際会議の地でカルト集団の起こす事件やバイオテク企業の陰謀に巻き込まれ、しまいには奇病に感染し、毒を発射されるなど、泥臭い危険に遭遇していきます。ビッグバンでさえも「万物理論」により再構築され、人間がすべていなくなる可能性がある――。
そんな無機質で一種の清潔感のある理論が交わされるのと並行して、死者が最期に見たものを露光する「死後復活」や生理的欲求からの脱却を望み外科的手術を受ける人々など、有機的な事象が並びます。
社会学あり、物理学あり、SF要素もてんこ盛りの『万物理論』。
最後、万物理論を得た主人公が世界を再構築するシーンは必見です。うすら寒いほど美しい世界の描写に、徹夜明けに見た朝日を思い出す方もいるのでは。
表題作「プランク・ダイヴ」を含む7つの作品がおさめられた短編集です。宇宙への旅、他種の進化への干渉、不老不死の実現など、宇宙多めのSFらしいテーマが揃っています。
特に「ワンの絨毯」は長編『ディアスポラ』に組み込まれていることもあり、ディアスポラで宇宙の藻屑になりかけた方はこちらで肩慣らしをするのもおすすめです。
- 著者
- グレッグ・イーガン
- 出版日
- 2011-09-22
宇宙の外に何があるかと、その宇宙を支配することについて、ヴァーチャル宇宙を通して思考した作品「クリスタルの夜」。
自分の脳をクローンに移植することで若く健康な身体を手に入れたはずの主人公に生じた手術の欠陥、「エキストラ」。
数学SF「ルミナス」の続篇であり、抽象的な存在であるはずの数学が現実世界に影響を与える世界で自分の世界の維持をかけて戦う「暗黒整数」。
知識の探求を進めた結果、文明が退廃し知識も喪失される「グローリー」。
宇宙における自分の意味を問う、後に『ディアスポラ』の中に組み込まれた「ワンの絨毯」。
承認欲求を一切満たすことのない情報を探求する意味を問いかける「プランク・ダイヴ」。
未知を追い求め、自分たちが子孫の探求のための礎になることを望む主人公たちが熱い「伝播」。
どの作品も、ハードな理論と概念で魅了してくれる作品です。
普段はSFを読まないという方、読んでも軽いSFだけという方も、イーガンの書く重いSFはクセになること間違いなし。まずは短編からでも、ハードSFの世界に浸かってみてはいかがでしょうか。
この記事をきっかけにグレッグ・イーガンファンになっていただければ幸いです。