日本の文学史のなかで大きな転換期となった平安時代。この時代を象徴する作品が、紀貫之が作者の『土佐日記』です。今やお菓子の名前に使用されるほど、日本を代表する有名な作品のひとつとなっています。それまでの中国を模した漢文による表現ではなく、当時としては異例の仮名文字を使った日記形式の文学作品で、後の日本文学に多大な影響を与えました。そんな『土佐日記』の作者や内容についてわかりやすく解説していきます。
平安時代の西暦935年頃、紀貫之によって執筆された『土佐日記』。当時の日本は天皇親政から摂関政治へと移行し、藤原氏による権力の独占が始まった頃です。
京の貴族のあいだでは、国風文化と呼ばれる日本独自の文化様式が生まれました。寝殿造の貴族邸宅、衣冠束帯と呼ばれる朝廷内の独特な服装、仮名文字による文学作品がその最たる例です。
『土佐日記』は紀行文と似ており、日々起きたことが日記のような形式で綴られています。こうした自由な書き方は、それまでただの記録でしかなかった物書きに、「文学」という新しい価値を与えることとなりました。
室町時代までは紀貫之自筆の原本を見ることができたようですが、現在は散逸。しかし藤原定家らの写本が原典をそのまま写筆していることから、『土佐日記』は原本の姿をほぼそのまま今でも読むことができる貴重な一冊です。
作者の紀貫之は生没年がはっきりしていませんが、平安時代前期の人物であることは間違いありません。紀氏はヤマト王権のなかで対朝鮮関係において特に活躍してきた一族ですが、この時までに政変に巻き込まれて没落しています。
そんな没落貴族に生まれた彼ですが、若い頃から歌人として名が知られており、905年には醍醐天皇の命令で初の勅撰和歌集『古今和歌集』の編纂に参加しました。当時推定30代の彼は、巻頭に付録する2つの序文のうち仮名序を担当しています。
この序文にて、和歌を「人から生まれた高尚な芸術である」と定義し、その後も歌の世界で功績を挙げます。しかし彼の官位は生涯を通じてそれほど高くはありません。
930年、紀貫之は土佐守に任じられ、土佐に赴任することになります。この時期に私撰の『新撰和歌集』を編纂しています。本来は醍醐天皇に献上することが目的でしたが、天皇が赴任中に崩御したため勅撰にはなりませんでした。
934年12月、5年の任期を終えた彼は土佐から京に帰るまでの道中を日記のようにして記します。これが『土佐日記』です。わずか2ヶ月ほどの出来事の話であり、その変遷については後述します。
その後の人生は、官僚としてそれほど大きな役目を与えられることなく、著作や和歌作りに専念していたようです。
この後に生まれてくる日記文学の女流作家は、いずれも『土佐日記』を参考にしたといわれています。彼が後世に与えた影響は非常に大きいといえるでしょう。
原文
人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香に匂ひける(『百人一首』第35番より引用)
現代語訳
(人の心はよくわかりませんが、ふるさとの花の匂いはいつまでも変わらないですよ。)
紀貫之が京へ帰り、昔よく宿泊していた宿に顔を出したときに、皮肉を言われてしまいます。その時に自分の気持ちは変わらないよ、という意味を込めて返したのがこの歌であるといわれています。彼は歌人らしく繊細な心を持った人物だったのでしょう。
原文
手に結ぶ 水に宿れる 月影の あるかなきかの 世にこそありけれ(『拾遺和歌集』第1322番より引用)
現代語訳
(手ですくった水に映る月のように、あるのかないのかわからないような世の中に生きていたのだなあ。)
辞世の句として伝わるこの一句には、彼の悟った精神が見て取れます。貫之が亡くなったのは945年とされており、墓は比叡山中腹の裳立山にあります。京都御所には今も彼の邸宅跡が残されていて、そこには桜が植えられていたことから桜町と呼ばれていました。
紀貫之が土佐から京へ戻るまでの実録を日記風に綴ったもので、フィクションやユーモアも交えた完全な創作。ありのままの感情を記すため、当時は女言葉といわれ男性が使うことはなかった仮名文字で記されました。
『土佐日記』に記された旅程はおよそ2ヶ月間で、決して長くはありません。現在出回っている版本および電子書籍でも200ページ程度で、1日あれば読み切れるほどの分量です。日記なので章立てがしてあるわけではなく、日にちに沿って読みすすめることになります。
序文はあまりにも有名な「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」で始まる「門出」。挨拶もそこそこに、12月21日に国府を出発するところから始まります。
12月26日に、1週間逗留していた大津を出港し、浦戸、大湊、宇多の松原、奈半の泊、羽根、室津と渡り、船旅を経て1月29日に阿波の土佐泊浦に到着しました。その翌日から海賊に溢れる鳴門海峡を渡り、本州に向かいます。
ほんの短い区間に過ぎない徳島から大阪間の船旅も、当時は危険なものでした。「承平天慶の乱」の真っただ中にあった当時の日本。瀬戸内海では「藤原純友の乱」が勃発していました。その影響を受けてか土佐にも海賊がいて、通行するのは命の危険にかかわることだったのです。
貫之の旅程は女子どもを連れた一行だったことから、船旅がメイン。海賊に襲われないよう真っ暗な夜中にこっそりと航海を始め、兵庫県の沼島を経由して大阪にある和泉の灘に到着します。幸い波浪の心配もなく渡航は無事に終わったようです。
ところで貫之は、土佐で娘を亡くしていました。苦労してようやく京の自分の屋敷に着いた時、彼の屋敷は聞いていたよりもはるかに悲惨な状態で、家を預けていた人の心も荒んでいました。そこに新しく生えていた松を見つけます。
うまれしも かへらぬものを 我がやどに 小松のあるを 見るがかなしさ(『土佐日記』「帰京」より引用)
(生まれても帰ってこない子供を思うと、ここにある小松を見ることが悲しい。)
見し人の 松のちとせに 見ましかば とほくかなしき わかれせましや(『土佐日記』「帰京」より引用)
(亡くなったあの子を松のように100年見ることができたのなら、こんな悲しい思いはしなかったのに。)
家に着いても娘は帰ってこない、そして忘れがたいことは書き尽くせない……今この日記を破り捨ててしまおうと言って、『土佐日記』は終わります。
文体こそ女性的ですが、明らかに男性が書いたとわかるようないわば下世話な内容もあります。そうした男性的な記述を公式記録の漢文ではなく古文を用いたことで、心情に迫ったリアルな内容を記すことができたのです。
ここでは古典のテストにも頻出の『土佐日記』の冒頭部分、「門出」を解説します。
【序文(背景)】
貫之は930年に土佐守となり、土佐国に出向を命じられます。5年間の任期を終えて京へ帰ることになりますが、諸々の手続きを終えて船旅につくまでのとりとめもない出来事を、彼に付いた女性の立場から口語体で叙述します。
【原文】
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。
それの年の十二月の二十日あまり一日の日の戌の刻に、門出す。
そのよし、いささかにものに書きつく。
ある人、県の四年五年果てて、例のことどもみなし終へて、解由など取りて、住む館より出いでて、船に乗るべき所へ渡る。
かれこれ、知る知らぬ、送りす。
年ごろよく比べつる人々なむ、別れがたく思ひて、日しきりに、とかくしつつ、ののしるうちに、夜更けぬ。
二十二日(はつかあまりふつか)に、和泉の国までと、平らかに願立つ。
藤原のときざね、船路なれど、馬のはなむけ(※1)す。
上中下、酔ゑひ飽きて、いとあやしく、潮海のほとりにて、あざれ(※2)あへり。
二十三日(はつかあまりみか)。
八木のやすのりといふ人あり。
この人、国に必ずしも言ひ使ふ者にもあらざなり。
これぞ、たたはしきやうにて、馬のはなむけしたる。
守柄にやあらむ、国人の心の常として、「今は。」とて見えざなるを、心ある者は、恥ぢずになむ来ける。
これは、物によりて褒むるにしもあらず。
二十四日(はつかあまりよか)。
講師、馬のはなむけしに出でませり。
ありとある上下、童まで酔ひ痴しれて、一文字をだに知らぬ者、しが足は十文字に踏みてぞ遊ぶ(※3)。
【解説】
(※1)はなむけ=別れの儀式。本来は陸路を行く人におこなうのが普通ですが、ここでは海を渡る貫之に対しておこなわれ、そのおかしさを表しています。
(※2)あざる=鯘る(腐るという意味)、戯る。こうした表現を掛詞といいます。今でいう駄洒落に近いもので、このような言葉遊びが『土佐日記』ではあちこちに散りばめられており、漢文では同様の表現はできません。
(※3)1文字も知らないのに10文字を書く子供を見て、面白いと感じた貫之はこう表現します。これも彼が考えた言葉遊びの一種だと考えると面白いです。
【現代語訳】
男もするという日記を、女の私もしてみようと思ったところだ。
この年の12月21日、夜8時に出発した。
その折に思いついたことを少しだけ書き留めておく。
ある人が4、5年の国司の任期を終えて、いろいろな手続きをすべてし終えて辞令を受け取り、住んでいた館から出て船に乗るべき所に行った。
知る人も知らない人もみな彼を見送りにやってきていた。
この数年よく親しくしていた人は、別れを惜しんで日ごとにあれこれと嘆きながら夜が更けてしまった。
22日、和泉まで無事につきますようにと願掛けをする。
藤原のときざねという人が、船旅なのに馬のはなむけをしてくれた。
国の人々は身分の上下に関係なく酔っ払って、まことおかしなことに、潮海だから塩で魚が腐ることはないのに、腐った魚のようにふざけ合っている。
23日。
八木のやすのりという人がいた。
この人はどうも必ずしも国の使いではないようなのだが、厳粛な様子で馬のはなむけをしてくれた。
職業柄なのだろうか、国の人との心の常としては、「今は顔を見ることもできない。」と顔を合わせることもなかったが、心遣いがある人は恥じずにやってきた。
贈り物で褒めるわけにもいかない。
24日。
国分寺の高僧が馬のはなむけにおいでになった。
身分の上下に関係なく、子供までもが酔っ払って、1文字さえも知らない人が足で10の文字を書くように遊んでいる。
多くの人に研究された『土佐日記』は、原文も翻訳も多数存在します。電子書籍では古い形式のものを無料で読むことも可能です。しかし、古典と聞くだけでハードルが高いと感じる方も多いでしょう。文学に精通していない人は敬遠してしまいがちです。
本書の特徴は、原文と翻訳を両方載せた、読みやすい構成であること。ビギナーズとあるように誰でも簡単に読めるように作られているので、古典に興味を持ちだしたばかりの方に適しています。
- 著者
- 紀 貫之
- 出版日
- 2007-08-01
日記文学はボリュームが少なく口語体で書かれているので、現代人にもなじみやすくなっています。面白おかしく実娘の死の悲しみを振り返るなど、人間味溢れた貫之の文章に引き込まれていくことでしょう。
男性によって書かれた女性風の文学、非常に平易な文体で中学生でも読めるくらいの難易度になっています。古典の世界へ踏み出すはじめの1歩として読むのにおすすめの一冊です。
正岡子規に「下手な歌詠み」と評され、そのイメージが先行してしまいがちな紀貫之。近代の人々は、平安時代に当時最高の評価を与えられた彼をどこまで理解できていたのでしょうか。
本書の著者は日本文学に一家言持つ、大岡信。正岡子規が作り上げた貫之像を崩して新たな評価を与えることによって、彼の真の姿と『土佐日記』の本質に迫ります。
- 著者
- 大岡 信
- 出版日
- 2018-02-07
日本が明治維新によって大きく変化し、西洋文化を持ち上げるようになったのは周知の事実です。正岡子規の紀貫之に対する評価も、明治時代の風潮に影響されたものであると著者はいいます。
彼の女性を模した表現方法は、確かに「ますらをぶり」といわれる男性的な力強さとは程遠く見えます。しかしそれはあくまでも技法の話であり、内容にまで迫ると実はそのような力強さは失われていないという説もあります。本書はその説を後押しする内容だといえるでしょう。
タイトルに紀貫之とありますが『土佐日記』についての記述も数多くありますので、貫之だけでなく日記の内容についての理解も十分に深められる一冊です。
和歌や屏風歌の名手で、芸術史に多大な功績を残したとされる紀貫之。彼の作品の具体像は、実は意外にも知られていないことが多いのです。
本書の内容は、多角的な視点から貫之の作品ひとつひとつに迫った文学論で、彼について書かれた著書としては異質の切り口となっています。仮名文字表現に隠された意図の解説は一読の価値ありです。
- 著者
- 神田 龍身
- 出版日
- 2009-01-01
本書の最大の特徴は、フィクションとしての貫之の作品ではなく、ノンフィクションな貫之自身の姿に迫ったことです。細かい技法の解説が中心となっており、『古今和歌集』から時系列で特徴に迫ります。
『古今和歌集』の編纂に関わったことで、彼に自分で歌集を作ろうという意欲が生まれます。当時からすればオーソドックスな和歌集でしたが、彼はその既存のスタイルに疑問を持っていたようで、『貫之集』や『土佐日記』など、彼独自の人生観が反映された、人間味に満ちた作品の数々が生まれました。
また貫之は、文学中の性別をかなり意識していたようにも思えます。『貫之集』でも男同士の和歌交換を題材にしていました。男性だけのものであった文学を女性にも広めようという彼の思想と作品は、文学の歴史を大きく変えることとなったのです。
平安時代に男女を問わず楽しめるような文学が生まれ、『土佐日記』はその象徴ともいえるものです。現在でも文学、地理、歴史の各方面から研究されています。また紀貫之自身を知ることで、本作に限らずさまざまな日本文学についての理解を深め、より楽しむことができるでしょう。深くて広い古文の世界へ、ぜひ1歩踏み出してみてください。