教科書でもおなじみの『山椒魚』。でも、意外と謎の多いお話です。「身動きの取れなくなった」彼は何を表しているのか、蛙の「おこってはいないんだ」という発言の本当の意味は何?そして「書き換えられたラストシーン」とは? 今一度この名作を読み直して解釈の幅を広げてみませんか。
『山椒魚』は井伏鱒二の代表作で、国語の教科書に掲載されたり読書感想文の課題として選ばれたりと、文学の教養として学校で習うことの多い作品です。
- 著者
- 井伏 鱒二
- 出版日
- 1948-01-15
登場人物は主人公の「山椒魚」と「蛙」。
山椒魚はある時、ねぐらにしていた岩屋の中から出られなくなっていることに気づきます。2年間岩屋にこもっているうちに、体が大きくなってしまったのです。動き回ることもできない岩屋の中から、「物思いにふける小海老」や「群れでしか泳げないメダカ」を嘲笑して暮らします。
それでも山椒魚は何とか外に出ようと試みますが、すべて徒労に終わります。初めは外の世界で自由に動きまわる水すましや蛙の姿を感動の目で眺めていましたが、やがてそれらからも目をそらし、唯一自由にできるまぶたを閉じて暗闇の中に閉じこもりました。
そんな岩屋での生活は、山椒魚を「よくない性質」に変えてしまいました。岩屋に入り込んできた一匹の蛙を閉じ込めてしまうのです。そこから、悲しく、どこかおかしい幽閉生活が始まります。
『山椒魚』は短い話ですが、その解釈はよくテスト問題でも出題されているようです。
井伏鱒二はこの物語の主人公を「頭でっかちになってしまった知識人」に例えたという解釈があります。知識を詰め込みすぎたばかりに融通が利かなくなり、身動きが取れなくなった知識人を、体が大きくなりすぎた山椒魚に例えた比喩表現とする説です。
岩屋にこもっていれば、せわしない外界に関わることなく、自分からは外界を見ることができます。しかし、そこに安住してしまうと、二度と元の世界には戻れないのです。
だとすると、蛙の役割はなんでしょうか。
蛙は山椒魚に岩屋の中に閉じ込められてしまいますが、最後には「今でもべつにお前のことをおこってはいない」と言います。そんな蛙は、自由に動き回れる「若者」だと解釈することができるのではないでしょうか。
「知識人」は、対抗してくる「若者」を閉じ込め、可能性を封じてしまう。もしくは、「若者」の方から知識人の世界に飛び込んでしまい、出てこられなくなる。そんな姿を表現したものだと考えることもできそうですね。
小説の中で蛙の心情はほとんど描かれません。蛙が単に「捕まった」のではなく、「自分から危険な穴に入ってしまった」と思っているのだとしたら、「おこってはいない」の意味も分かりますね。
「ああ、寒いほど独りぼっちだ!」
(『山椒魚』より引用)
これは「山椒魚は悲しんだ」から始まる身動きの取れなくなった山椒魚を描いた場面です。主人公は山椒魚であり、その生態もこの生物そのものなのですが、心理描写がひたすらに細かく、人間らしいため、読者は彼を自然と擬人化してとらえてしまいます。自分勝手でわがままに見える彼ですが、誰もいない岩屋で寒いほどの孤独を感じていたのです。
「ああ神様! あなたはなさけないことをなさいます。
たった二年間ほど私がうっかりしていたのに、
その罰として、一生涯この窖(あなぐら)に私を閉じこめてしまうとは横暴であります。
私は今にも気が狂いそうです」(『山椒魚』より引用)
同じく主人公の嘆きのセリフです。しかし、「たった二年間ほどうっかりしていた」というのはかなり自分のことを棚に上げた言葉のように感じるのではないでしょうか。
「今でも別にお前のことをおこつてはゐないんだ」(『山椒魚』より引用)
長い間議論が続くラストシーンの蛙のセリフです。一見すると「和解」のセリフとも取れます。しかし、実際には怒っていたが、孤独を感じていた彼の悲しみを理解して気を遣っている、という解釈や、「そもそも自分からこの岩屋に飛び込んだのだ」と自分の行動に責任を感じている、ともとらえることができます。いずれにしても単純な「仲直り」ではない何かを感じさせる言葉です。
山椒魚には複数のラストがあります。井伏鱒二の手によって書き換えられたのです。蛙が「今でも別にお前のことをおこつてはゐないんだ」と言うシーンは丸ごとカットされ、以下のように終わるラストも存在していました。
更に一年の月日が過ぎた。
二個の鉱物は、再び二個の生物に変化した。
けれど彼等は、今年の夏はお互い黙り込んで、
そしてお互いに自分の嘆息が相手に聞こえないように注意してゐたのである。
(『山椒魚』より引用)
つまり、2匹は緊張状態のまま終わってしまうのです。この改変については、井伏鱒二が「2匹が和解した」と受け取られるのを嫌がった、とも言われています。というのも、2匹がどんなことを考え、どんな会話をしたのか、そしてどんなふうに死んでいったのか、完全に読者の想像に任せたかったのではないでしょうか。
しかしこの改変は大きな物議を引き起こし、「ラストを削除するとまったく別の話になってしまう」「作者だからといって、一度発表したものを改変するのは許されるのか」と議論になりました。井伏自身も迷いがあったのか、後年のインタビューで「(ラストは)直さないほうがよいようだなあ」と話すなど、悩んでいたようです。
教材としてももよく使われる『山椒魚』ですが、ユニークな授業が行われたこともあります。
それが、「『山椒魚』の寓意性を考える」という授業です。
「寓意」とは、それとなく、ある意味をほのめかすことです。「寓意小説」というと、物語のなかに教訓や意見を仮託した小説のことをいいます。『山椒魚』にも、現代に通じる教訓が含まれているのでしょうか。
「主人公は知識人のメタファーである」という解釈を紹介しましたが、現代風にとらえると、「主人公は引きこもりのことである」とも考えることができます。初めは現状から抜け出す努力をしていたが、それがうまくいかないとわかると一転して周囲を馬鹿にするようになる……出口のない悩みを抱えた現代の引きこもりと重なる部分があります。
- 著者
- 井伏 鱒二
- 出版日
- 1948-01-15
「暗黒の浴槽(あなぐら)」に閉じ込められ、「よくない性質」になってしまった山椒魚は、蛙を岩屋に閉じ込めました。岩屋の出入り口をふさがれた蛙は外に出ることができません。初めは安全なくぼみの中で息をひそめていた蛙ですが、ある時、岩屋の中での杉苔が花粉を散らすのを見て思わず「ああああ」とため息を漏らします。それを聞いた山椒魚は、初めて友情を込めて、「もう降りてきてもいい」と呼びかけます。
ところが、その時すでに蛙は空腹で動けず、死を待つばかりになっていました。
「お前は今何を考えているようなのだろうか」と尋ねる山椒魚に、蛙は「今でも別にお前のことを怒ってはいないんだ」と答え物語は終わります。
本作はさまざまな解釈が生まれている作品です。学校で習った答えが正解だとも限りません。もう一度本を開いて、あなたなりの解釈を見つけてみませんか?