日本の古典のなかでもっとも有名なのは『源氏物語』でしょうか。その作者といわれている紫式部が残した『紫式部日記』というものがあります。その内容は愚痴や悪口などが多く、雅な平安時代のイメージとはかけ離れたもの。この記事では、紫式部が日記内でライバルだった清少納言をどのように評価していたのかや、作品の構成などをわかりやすく解説していきます。あわせて、もっと理解の深まるおすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。
平安時代の1008年秋から1010年正月までのおよそ1年半の間、紫式部が宮中での様子を中心に書いた日記を『紫式部日記』といいます。紫式部が仕えた中宮彰子の皇子出産や、その祝賀の様子、貴族や宮中の人々の人間関係などを活き活きと描いているのが特徴です。
残念ながら原本は残っておらず、宮内庁書陵部が所蔵する写本「黒川本」がもっともよい状態だとされています。ちなみに写本の表紙には「紫日記」と記されてあり、いつから『紫式部日記』と呼ばれるようになったのかは定かではありません。
構成は全2巻で、1巻は記録的内容、2巻は手紙と記録的内容。『源氏物語』の作者が紫式部であるというのは通説ですが、その論拠として『紫式部日記』内の1008年11月1日の欄に、歴史上初めて『源氏物語』が登場するのです。
紫式部は平安時代中期の女性作家、歌人として活躍した人物です。同時代の清少納言、和泉式部、赤染衛門(あかぞめえもん)とともに、国風文化を代表する「四才女」と呼ばれています。
父親は藤原為時(ためとき)。下級貴族でありながら花山天皇に漢学を教えるなど、高い学識を有した人物でした。紫式部の「式部」は、為時が務めた官位「式部丞」に由来しています。
998年、紫式部は藤原宣孝(のぶたか)に嫁ぎ、一女をもうけます。しかし結婚後わずか3年ほどで宣孝が病気で亡くなってしまい、その辛い現実から逃れるために『源氏物語』を書き始めたそうです。彼女が夫の死にともない詠んだ「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」という歌からも、期間は短いながらも夫を愛していたことがうかがえるでしょう。
『源氏物語』は当初、仲間うちで読んで楽しむ程度のものでした。しかししだいに評判となり、時の権力者である藤原道長の目に留まることとなります。そして道長は紫式部に、自身の娘である彰子の家庭教師を務めることを要請するのです。
当時の彰子は、一条天皇の中宮。紫式部は宮仕えをしながら、藤原道長の庇護のもとで『源氏物語』を書き続け、完成させることとなります。そして宮仕えの時期に記していたのが、『紫式部日記』なのです。
本作には、宮中生活の愚痴や偏見、思い出などが書かれていて、とても『源氏物語』を書いた人と同一人物とは思えないほどの生活感が滲み出ています。
たびたび記される、紫式部の周りにいた先輩や後輩、ライバル、男性らの名前やその人物評は「消息文」と呼ばれ、彼女が同僚に送った手紙だと考えられています。面と向かって口にするのではなく、仲間内で手紙を送りあっていわゆる「陰口」を言う様子は、平安時代の女官も現代とそう変わらないのかもしれません。
そんな人物評のなかから、紫式部のライバルといわれていた清少納言、後輩の和泉式部、そして先輩の赤染衛門に関するものを現代語にしてご紹介しましょう。
まずはライバルの清少納言です。
「清少納言は偉そうに定子に仕えていた人。頭がいい風を装って漢字を書きまくっているけれども、よく見たら幼稚な間違いもしている。男性の前ではちょっと頭が悪い感じに見せた方がいいのに、清少納言が私ならわかると得意気にしているのを見ると腹が立ってしょうがない。自分は特別だと思ってるのかもしれないけれど、そういう人に限って偽の教養しかもちあわせていないもの。いつも気取っていて、あんな薄っぺらい態度をとるような人がいい人生を送れるだろうか、いや送れるはずがない。」
酷評をしていることがわかるでしょう。一方の清少納言も著書『枕草子』のなかで、紫式部の夫である藤原宣孝について、「質素な服で行くべき場所に豪華な服を着ていくものだから、みんな呆れている」「歌の読み合わせで、歌が思いつかずに冷や汗をだらだらかいて、なんて情けない男」とけなしています。
続いて、後輩の和泉式部に対する評価です。
「和泉式部と私は親しい仲だ。和泉式部はおしゃれな手紙を書くし、歌もさりげない言葉の美しさが目に止まる。ただ、男癖が悪い。おしゃれな歌を詠むけれど、知識や理論はあまりわかっていなそうなので、本物の歌人とはいえない。とにかく口任せに歌を詠んでいるようで、言葉自体が美しいので素晴らしく聞こえるけれど、立派な歌人ではない。」
仲がいいとして褒めておきながらも、後半はずっと悪口です。
最後に、先輩にあたる赤染衛門に対する人物評です。
「夫の大江匡衡と仲のよいおしどり夫婦で、中宮様や道長様からは「匡衡衛門」なんてあだ名をつけられている。格調高い歌風で、歌を詠み散らかしたりすることはない。私が知っている限りでは、ちょっとした時に詠んだ歌こそ、素晴らしい詠みっぷりだ。」
さすがの紫式部も周囲の人物全員を酷評していたわけではなく、お世話になった先輩に対しては高い評価をしています。
『紫式部日記』が書かれてから約200年後の鎌倉時代初期に、本書をもとにした「紫式部日記絵巻」が作成されました。
人物評を除くほぼ全文を適宜分割して絵画化し、説明文である詞書が添えられています。もともとは絵と詞書がそれぞれ50~60段、全10巻程度の大作だったとされていますが、現在残っているのは絵24段、詞書24段の4巻分だけで、『紫式部日記』の25%ほどだそうです。
蜂須賀家本、藤田家本、旧森川家本、旧久松家本が伝来していて、そのいずれもが国の重要文化財や国宝に指定されています。
制作者が誰なのかは明らかになっていませんが、鎌倉幕府4代将軍だった藤原頼経の父、九条道家の依頼で作られたと考えられています。
- 著者
- 紫式部
- 出版日
- 2009-04-25
「ビギナーズ・クラシックス」シリーズは、原文に加えて、話し言葉のように流麗でわかりやすい現代語訳やコラム、解説がついていて、あまり古典に馴染みのない人でも読みやすいのが特徴です。
夫を失い、寂しくて孤独な未亡人生活を送っていた紫式部。中宮彰子に使えることになり、宮中に入って生活は一変しました。なかなか周囲に馴染めないなかで、彼女はどんなことを感じていたのでしょうか。
『紫式部日記』はを執筆していた当時、紫式部は30代だったと考えられています。現代に生きる私たちと似た感覚もちあわせていたこともわかり、他の古典よりも親しみを感じながら読むことができるでしょう。初心者におすすめの一冊です。
- 著者
- ["小迎 裕美子", "紫式部"]
- 出版日
- 2015-03-27
『紫式部日記』を漫画にした作品。小難しさは取り払い、紫式部の周囲の人間関係や愚痴、嫉妬などをおもしろおかしく描いています。
定子と彼女に使えた清少納言の2人に比べると、やや地味に見られていた彰子と紫式部のコンビ。本書では、控えめで目立ちたくはないけど、評価はされたいというこじらせたネガティブな感情が見え隠れしています。
肩ひじ張らずに楽しく読めるので、身構えずにお手に取ってみてください。