『ねじまき鳥クロニクル』は、村上春樹の8作目の長編小説です。飼い猫の失踪を機に日常が狂い始めた主人公が、姿を消した妻を取り戻すため、密かに世の中の「悪」と対峙する物語。完結までに約4年半かかった「村上春樹の最高傑作」とも言われる作品です。今回は、2020年に舞台化される予定の本作を、ネタバレを交えて解説していきます!
1980年代中盤の日本。失業中の主人公・岡田亨(おかだとおる)は、雑誌編集で働く妻のクミコと2人暮らし、そして1匹の猫を飼って世田谷の家に住んでいました。
結婚して6年経つ夫婦関係は、表面的には問題ありませんでした。しかし、猫がいなくなったことをきっかけに少しずつズレていき、やがて妻の失踪につながります。
そして、岡田の身の回りには、妻の失踪と前後して「不可解なこと」がつぎつぎと起こります。岡田を知っているという謎の女からの電話や、女性霊能者・加納マルタの出現……。
じつはこれらの事柄は、クミコの実兄・綿谷昇(わたやのぼる)につながっていました。
- 著者
- 村上 春樹
- 出版日
- 1997-09-30
クミコはどこへ行ったのか?綿谷昇はどう関わっているのか……?ごく個人的な問題だったはずが、やがて歴史的な事件の「ノモンハン事件」と関係して、物語は大きく動き出していきます。
本作は、1986年に書かれた短編『ねじまき鳥と火曜日の女たち』がベースとなっており、1994~1995年にかけて発表された全3部作の長編小説です。
2020年2月11日~3月1日に、東京芸術劇場プレイハウスで舞台化が決まっており、2019年10月からチケットの先行販売が開始される予定です。
なお長編では、後の話につながる描写が変更されていますが、短編は長編第1部の冒頭に相当しており、基本的には同じものになります。
村上春樹(むらかみはるき)は、1949年1月12日生まれの70歳、京都市出身の小説家・翻訳家です。
早稲田大学演劇科を卒業後は、在学中に開いたジャズ喫茶「ピーター・キャット」を経営していました。1978年、野球観戦中に小説の執筆を思い立ち、翌1979年に『風の歌を聴け』で、第22回群像新人文学賞を受賞し、作家デビュー。
- 著者
- 村上 春樹
- 出版日
- 2005-09-15
代表作は、「男女の青春」と「生と死」をテーマにした哲学的な物語『ノルウェイの森』、2つの世界の移り変わりを描く『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』など。
村上春樹の作品は、非常に作り込まれた世界観と、そのなかで丹念に語られる物語が魅力です。異界や無意識の暗喩として「井戸」を用いることが多いのも特徴で、本作においても重要な役割を果たします。
物語は、作中時間にして約50年前に起こった「ノモンハン事件」と密接に関わっていきます。それまで現代のフィクションを扱っていた村上春樹が、本作で「はじめて歴史的事実を取り上げた」というのは注目すべき点でしょう。
ノモンハン事件とは、1939年に満州国とモンゴル人民共和国との間で発生した国境紛争のこと。当時の満州とモンゴルは、それぞれ日本とソ連の実質的支配下で、紛争も日本軍とソ連軍でおこなわれました。結果は、日本軍の大敗です。
作中では、ノモンハン事件の日本軍の当事者として本田と間宮が登場し、彼らの壮絶な体験談が語られます。一方的な敗北、自害の強制、そして虐殺……。これらは、本作執筆にあたって村上春樹が取材したことが反映されており、作者自身も非常にショックを受けたそうです。
この取材から、ノモンハン事件をはじめとする戦争を、概念的「悪」と位置付け、人が「悪」に立ち向かう物語として、本作を書き上げたとされています。
本作は、30歳の岡田亨の視点が中心になって物語が進みます。全編を通して妻・クミコを取り戻すために奔走しながら、概念としての「悪」と対峙する運命にあります。彼の心境の変化がうかがえるモノローグは、心に響くものがあるでしょう。
クミコは本作のヒロインで、彼女の失踪によって、物語は急激に動き始めます。彼女に対して何か負い目があるような岡田。それは出生と関係が……?
「悪」の象徴にして、岡田が挑むべき存在なのが綿谷昇。多くの登場人物にとっても「敵」となります。カリスマ性のある若手国会議員であり、特別な力を利用して密かに影響力を伸ばしていきます。
加納マルタ・加納クレタは、綿谷の紹介で岡田に接触してきた霊能力姉妹です。妹・クレタが綿谷に汚された過去があるため、岡田には協力的。2人との接触が物語のキーポイントになってきます。
岡田家の近くに住む女子高生・笠原メイは、人間の生死に興味があり、何かと岡田に影響を及ぼします。数少ない未成年者として、善悪の戦いの先の「希望」のように描かれる存在です。
赤坂ナツメグ・赤坂シナモンは親子で、家系的に「悪」と因縁があり、後半で岡田をサポートする重要人物。とくにシナモンは、『ねじまき鳥クロニクル』という物語を、第三者視点でまとめる語り部にもなります。
そして、本田伍長(本田大石)と間宮中尉(間宮徳太郎)。ノモンハン事件の関係者で、根源的な「悪」と出会ってしまった人達です。後に「悪」との戦いを、岡田に引き継ぐことになります。
また、ほかの村上春樹の作品を読んだ人にとって、ちょっと目を引くのが議員秘書の牛河でしょう。綿谷昇の代理人として、岡田と橋渡しをこなす食えない男です。『1Q84』に登場する牛河とは同一人物のようです。
登場人物が多い本作ですが、紹介したキャラクターは全て重要人物です。読んでいて混乱してきたら、ぜひ参考にしてみてくださいね。
村上春樹作品の面白さは、謎めいた展開と奥深い物語、そして一見すると難解なセリフ回しにあります。ここからは、とくに印象的な名言を3つピックアップして紹介します。
「流れに逆らうことなく、上に行くべきは上に行き、下に行くべきは下に行く。(中略)流れがないときには、じっとしておればよろしい。流れにさからえばすべては涸れる。すべてが涸れればこの世は闇だ」(『ねじまき鳥クロニクル』第1部泥棒かささぎ編より引用)
大事なのは「タイミング」だと受け取れる名言。この言葉は、物語のラストまでの出来事を暗示しています。発言者は、岡田とクミコの仲を取りもった占い師の老人・本田です。占い師だけに、とても含蓄のあるセリフとなっており、人間の生まれ持った宿命や運命を考えさせられるでしょう。
- 著者
- 村上 春樹
- 出版日
- 1997-09-30
「それは遅かれ早かれいつかは起こらなくてはならないことだったのではないかと私は思うのです。(中略)早く起こった方がかえってよかったのではないでしょうか?(中略)もっとひどいことにだってなったのです」
(『ねじまき鳥クロニクル』第2部予言する鳥編より引用)
加納クレタが、綿谷昇とのつながりを岡田に告白した際、岡田の身に起きた不運をフォローしたセリフです。すでに起こってしまった出来事について、「ベストではないにしても、最悪を免れたベターだった」と前向きにとらえる大切さを伝える名言といえるでしょう。
「ここは血なまぐさく暴力的な世界です。強くならなくては生き残ってはいけません。でもそれと同時に、(中略)静かに耳を澄ませていることもとても大事なのです。(中略)よいニュースというのは、多くの場合小さな声で語られるのです」
(『ねじまき鳥クロニクル』第2部予言する鳥編より引用)
これを発言したのも、加納クレタ。綿谷昇との決着を望む岡田に、一緒に新天地に行くことを提案するも拒否されたクレタは、このアドバイスを送りました。
このセリフは、物事を成し遂げるには「巨視的な視点が必要な反面、見落としがちな些細な出来事に本当に重要なものが含まれている」と諭しているのでしょう。
行方不明の妻を巡るストーリーは、やがて黒幕の綿谷昇との対決に向かっていきます。特殊な力を持つ綿谷に対して、当初の岡田は何も持たない普通の人間でした。
しかし、間宮中尉の述懐と井戸での追体験、マルタやクレタとの関わり、ナツメグとシナモンの導きによって、岡田は「人の無意識下にある精神世界」に入れるようになります。
そして、別世界にあるホテル「208号室」で、謎の電話の女と接触を果たしますが、じつは彼女こそが「ある存在」だったのです。
- 著者
- 村上 春樹
- 出版日
- 1997-09-30
すべての登場人物・すべての出来事が、結末に向けて一挙に収束します。本作は、人類が戦争により普遍的に抱える歪み「悪」と、それを正す正義の物語。
ノモンハン事件で正されなかった「悪」は、巡り巡って綿谷となり、現代においてそれを修正する「正義」が岡田となったのです。
3部作で張り巡らされた伏線は回収され、最後に村上春樹なりの「善悪の決着」として描かれています。それがどのような結末となるかは、ぜひ実際に読んでみてください。
『ねじまき鳥クロニクル』に限らず、村上春樹の作品には「明確な答え」はありません。だからこそ、自分なりの答えをあれこれ考えるのが楽しいのでしょう。実際に読んでみて、ぜひあなただけの結末を見つけてみてください。