小説『ベル・カント』は、実際に起きた事件をモデルにしており、2018年には映画化もされています。主軸となっているのはサスペンスではなく、音楽と人間模様……。音楽は人に癒しをもたらす効果があり、それは「緊迫した状況下」でも変わりません。今回は、美しい音楽とともに味わえる本作の魅力を、ネタバレ解説していきます。
『ベル・カント』は、米国の作家アン・パチェットが書いた小説です。2001年の出版当時、実際の事件をもとにした本作は、大きな話題となりました。日本では、2003年に山本やよいが翻訳を手掛け、早川書房より出版されています。
物語の舞台は、南米のとある小国。日本最大のエレクトロニクス企業「ナンセイ」の社長、カツミ・ホソカワの誕生日を祝うパーティーから始まります。
これは副大統領の官邸で開催され、工場誘致のために招かれていました。ホソカワは工場建設に乗り気ではありませんでしたが、とあるゲストに惹かれ、誘いを受けます。
じつは、彼は大のオペラ好き。誕生日を祝うために、世界的なオペラ歌手のロクサーヌ・コスが招かれていると聞き、断ることができなかったのです。なお、パーティーには世界中の要人が招かれ、とても賑わっています。
そんななか、突如テロリストが官邸内に侵入し、その場を占拠してしまいます。彼らの狙いは……大統領。しかし、大統領は好きなテレビを鑑賞するため、パーティーを欠席していたのです。
- 著者
- アン パチェット
- 出版日
まだあどけなさの残るテロリストたちと、人質となったパーティーの参加者たち。息の詰まるような攻防や、駆け引きが展開されると思いきや……そんな展開はありません。
副大統領の官邸は無人島にあり、きれいで住み心地は抜群。まるでリゾートホテルです。ロクサーヌの歌をきっかけに、ホソカワやテロリストたちだけでなく、世界の要人たちの人間模様が物語を彩ります。
本作は、2018年9月14日にアメリカで映画が公開されました。監督はポール・ワイツ。ジュリアン・ムーワやセバスチャン・コッホ、エルザ・ジルベルスタインといった俳優陣が出演。
日本からはホソカワ役に渡辺謙、通訳のゲン役で加瀬亮が出演しています。ロクサーヌの歌唱部分は、ソプラノ歌手のルネ・フレミングが担当。日本では、2019年11月15日より公開が予定されています。 詳しい情報は、映画『ベル・カント 〜とらわれのアリア〜』公式サイトからご確認ください。
迫力の動画も公開されていますので、気になった方はこちらもおすすめです。作品の情景をイメージしやすくなるでしょう。
アン・パチェットは、1963年12月2日生まれ。アメリカ合衆国のカルフォルニア州ロサンゼルスの出身です。サラ・ローレンス大学創作学科在学中から、文芸誌に作品が掲載されるなど、早くから頭角を現した作家です。
2001年に発表された、長編第4作目となる本作は、米国の主要文学賞のひとつ「PEN/フォークナー賞」と、その年、英国で刊行された最も優れた女性作家の長編作品に贈られる「オレンジ賞」を受賞しています。
- 著者
- アン パチェット
- 出版日
- 2014-09-10
作風の魅力は、人間を主軸にした物語を描いているところ。
本作のように、事件や冒険が発生しそうな舞台設定ではありますが、物語の本筋はそこにはありません。事件の展開を描くのではなく、あくまでもその場にいる人間の「心理」や「人生」を描いているのです。
日本では、芹沢恵の翻訳で『密林の夢』が早川書房より出版されています。言葉は平易でありながら、巧みな心理・情景描写が魅力です。
日本語で出版されている作品は数少ないですが、著者ならではの鋭い洞察力の光る作品で、多くの読者を魅了しています。
本作は、南米のとある小国で発生する「テロリストによる官邸占拠事件」を描いています。じつは、ペルーの首都・リマで実際に発生した「在ペルー日本大使公邸占拠事件」をもとにした物語なのです。
1996年12月17日、日本の特命全権大使が主催の「天皇誕生日の祝賀レセプション」が開催されていました。午後8時すぎ、空き家になっていた大使公邸の隣家の塀を爆破し、覆面をした一団がレセプション会場に乱入。瞬く間に公邸を占拠したのです。
ペルーにある左翼組織が、日本の大使館員やペルー政府の要人、そして日本企業のペルー駐在員など約600人を人質にした、実際に起きた事件です。
1997年4月22日、ペルー警察が突入したことにより人質は救出されます。最終的な人質は70人ほどだったそうですが、じつに4か月以上という長期間にわたり、占拠され続けました。
当時の人質たちは、ひまつぶしに言語のレッスンやトランプ、麻雀やオセロなどに興じており、食事もリマ市内の日本料理レストランが提供……と、劣悪な環境ではなかったそうです。
本作でも、人質たちの生活は劣悪なものではなく、ロクサーヌの存在もあってか、どちらかといえば「文化的な生活」が描かれています。
タイトルにもなっている「ベルカント」とは、声楽用語のひとつ。イタリアのオペラでは、理想的な歌唱法を指す言葉として用いられていましたが、一般的には「美しい歌・美しい歌唱」という意味があります。そう……本作は、美しい歌が奏でられている物語なのです。
もちろん、歌唱するのは世界的なオペラ歌手であるロクサーヌ。ホソカワは仕事ひとすじに生きるなか、オペラに癒されています。
2人の間には恋物語も展開されますが、それだけではありません。殺伐とするであろう占拠生活のなかで、ロクサーヌの奏でる音楽がよい影響を与えるのです。
事件を企てたテロリストたちは、音楽に親しむ自由も余裕もなく育ちました。じつは、指揮官となる大人のほか、構成員の多くは少年・少女。
彼らがロクサーヌの音楽に触れて、衝撃を受ける姿がとても印象的でしょう。人を癒し、心の変化ももたらしていき、いつの間にか拠り所となっていく「芸術の力」を感じます。
くさい・汚い・危険と想像しがちな人質生活ですが、本作では占拠している官邸が豪華であること、テロリストが過激派ではないこともあり、心理的に追い詰められるほど過酷なものではありません。
むしろロクサーヌの音楽の効果もあってか、人質生活でも心に余裕があるという「不思議な状況」が描かれています。
先述したロクサーヌとホソカワのほか、通訳のゲンにもロマンスがあり、恋模様も見所のひとつ。しかし、注目点は各国の要人たちの変化や、テロリストたちとの心の交流です。
要人たちは、自分たちを官邸に監禁しているテロリストに、言語をはじめとした知識を与えます。犯人としてではなく、子どもと教師……そして親のような不思議な関係を築いていくのです。
突然訪れた休息の時間を、戸惑いながらも受け入れ、安らぎさえ感じて、テロリストの少年・少女は「洗練された大人たち」に憧れを抱くのです。優しくも刹那的な関係に、読者の心も温まるでしょう。
また、誕生パーティーのホストである副大統領が、責任感からなのか「家事に目覚める」描写は、くすりと笑わせてくれるエピソードです。
ロクサーヌの音楽を中心に、人々の心は癒されて安らぎ、突然始まった占拠生活は「楽園」のようになります。奇妙な共同生活のなかで、恋や友情、親子愛などさまざまな感情が育まれていきますが、それぞれに心の変化が……。
子どもたちは終わりを予感しておらず、大人たちは終焉を肌に感じながらも、みて見ぬふりを続けます。たとえ、そこが楽園であっても、官邸の外では「占拠事件」という扱い……。事件ということもあり、共同生活が長く続くことはありません。
- 著者
- アン パチェット
- 出版日
幸せで穏やかな生活が長く続いたからなのでしょう。終わりはあっけなくやってきます。濃密な占拠生活を見続けたせいか、読者もあっけない幕引きに拍子抜けすることでしょう。
突然始まったからこそ、突然終わりは来る……。終焉の空気を肌で感じていたからこそ、物語の終幕には切なさと物悲しさがつきまといます。
気になるテロリストたちが迎えた結末は、涙を誘われるもの。だからこそ、通訳のゲンが手を伸ばし続ける姿に胸打たれるでしょう。ぜひ実際に手に取って本作を読んでみてください。
美しく、そしてどこか物悲しい物語。文字の間から美しい音楽が流れるようで、この楽園のような空間をともに体験している気分を味わえます。映画では、音楽を実際に耳にできるというのが大きな魅力。奇妙な共同生活をお楽しみください。