テレビの報道番組で毎年2回、大きく取り上げられる芥川賞。世間でもっとも注目される文学賞のひとつです。今回はそのなかでも世紀末である90年代、その世相のなかで選ばれた作品を厳選してご紹介したいと思います。
一般的に「芥川賞」と呼びならわされていますが、正式には「芥川龍之介賞」です。いうまでもなく、かの大正の作家・芥川龍之介を指しています。この作家の業績を記念して、菊池寛が1935年に創設した、純文学の新人賞です。
芥川龍之介が短篇の名手であったため、芥川賞の対象作品も短篇、中篇に限られていますが、そこに明確な基準はありません。
同時に大衆小説を直木賞が発表されるためか、大衆小説と純文学の違いを問う声を多く聞きますが、はっきりとした区別は存在しないのです。一般的に、純文学は芸術性が高く、個人的なものの多い、劇性(形式)にこだわらない作品であり、大衆小説は読者を強く意識した娯楽作であり、ドラマの起伏が激しく、読みやすい文章の作品、という印象です。並べて定義づけしようとするとどうしても相反するもの、二項対立の図式になってしまいますが、お互いの要素が混ざり合った作品がほとんどであり、純文学と大衆小説という分け方それ自体に疑問を呈する声もあります。
芥川賞は新人賞のなかでもっとも権威ある賞であり、新人作家にとって、自分を世間に認知させる絶好の機会となる登竜門のようなものです。それまで生活もままならなかった作家が、一気に人気作家の仲間入りを果たす機会となります。
今回選ばせていただいた作品の作者たちも、この芥川賞をきっかけに大きく知名度をあげ、キャリアを活性化させた方たちがほとんどです。では、前置きはこれくらいにして、さっそくその作品を案内してゆきましょう。
姉の妊娠を見守る妹の立場からたんたんとつづられる日常風景のなか、姉妹の微妙な心理の揺らぎを描き第104回芥川賞を受賞した本作品。現在、人気作家となった小川洋子の出世作です。書籍としては表題作と「ドミトリイ」、「夕暮れの給食室と雨のプール」の3編が収録されています。
妊娠の発覚した姉が選んだ病院は、幼い頃に祖父の家の近くにあったM病院でした。妹は静かに姉の生活に寄り添います。毒薬に漬けられたジャムを食べさせて、胎児の破壊された染色体を思い浮かべながら……。
- 著者
- 小川 洋子
- 出版日
文章が柔らかく読みやすいです。食べ物がたびたびモチーフとして登場し、その料理の情景、食する様子が静かに描写されてゆき、生理感覚をともなった文体が不思議なグロテスさを帯びていきます。妹の微妙な心理が投影されるジャムのなかに、悪意というには頼りない感情が孕まれてゆき、出産のクライマックスまでに発酵してゆくのです。
「私の妊娠体験なんて、スーパーで買ってきた新鮮な玉ねぎそのもので、何の書かれるべき要素も含んでいない。その玉ねぎが床下収納庫で人知れず猫の死骸になってゆくところに、初めて小説の真実が存在してくると、私は思う」(『妊娠カレンダー』あとがきより引用)
補足すると、上記文章の前に作者は床下収納庫で腐っていた玉ねぎを猫の死骸と間違える、というエピソードが語られています。この独特であいまいな身体感覚がこの作家の魅力ともいえるでしょう。ここで作者はこの作品が自身の妊娠経験からつくられたものではない、ときっぱり否定しています。
とにかく静かで読みやすい作品です。そして女性的な機微に富んだ、やわらかいストーリーのなかに仄かな毒素を感じさせ、まさに「純文学」が薫り立ちます。
郊外の新興大学に入学した沙月はちょっと変わった性格の真穂とルームメイトとなります。真穂の勝手気ままな振る舞いに2人の気持ちはすれ違ってゆきます。そんな中、真穂の構想する戯曲に登場する古代ギリシアの夢治療の場「至高聖所」に込められた彼女の孤独に沙月は気づきます。鉱物質に強い愛着をみせる沙月と、戯曲の完成に執着する真穂の心は徐々に近づいてゆきますが……。
- 著者
- 松村 栄子
- 出版日
作品当時の大学の風景が目に浮かぶような描写が小気味よい文体で表現され、ぐいぐいと物語を引っぱってゆきます。モチーフとして描かれた鉱物の質感がストーリーの細部を彩り、ひとつの雰囲気を生み出してゆきます。そのなかで、2人の少女の境遇や恋愛、家族関係などの悩みが真穂の描く戯曲を通してつまびらかになってゆくのです。作品全体のテーマが真穂の戯曲に連動して組み立てられていきます。
青春小説としての軽さと、登場人物たちのアイデンティティに関わる苦悩がどこか甘く切なく、現代に通用する普遍性と賞を獲るに値する個性が感じられます。クライマックスに向かう舞台装置は大がかりで劇的。青金石のひんやりとした静謐な質感がそのまま読後感になったよな作品といえるでしょう。
詩人で小説家の多和田葉子が描いた不可思議な世界。いわゆる「異類婚姻譚」と称される人と人以外の種の結ばれる話です。書籍では表題作と「ペルソナ」の二編を収録しています。
新興住宅地に越してきた北村みつこは39歳、身なりも構わない変わった雰囲気のこの女性の開く「キタムラ塾」は、子供たちに愛される学習塾です。
- 著者
- 多和田 葉子
- 出版日
- 1998-10-15
「君たちは動物と結婚する話と言えば〈つる女房〉しか知らないかもしれないけど、〈犬婿入り〉っていうお話もあるのよ」(『犬婿入り』より引用)
あるとき子供たちにむかって話したこの物語は、母親たちの間でも話題に上ります。そんなおり、北村みつこの家に野性的で犬のような習性をもつ、謎の男が転がり込んで来たのです。
風変りな空気感をもつこの作品ですが、息のながい、ゆったりとした文章と魅力的なキャラクターにいつしかその作品世界に引き込まれてゆきます。作者の視点もどこか俯瞰的で、他人事のような、ある距離感を提示しています。寓話までの意味を持たないストーリーはまるで、その文体そのものが物語の意味を生み出してゆくかのようです。
主人公の北村みつこの「犬婿入り」の話に符合するように現れる、犬のような男の背景は徐々に明らかにされてゆきますが、探ればさぐるほど、その謎は深まってゆきます。そこに「扶希子」といういじめられっ子の女の子が物語の重要なファクターとしてその存在感を顕してゆきます。現実とファンタジーの境目にあるかのような「お話」に、どのような結末がおとずれるのでしょうか?
言葉とストーリーの不思議な蜜月をぜひ味わっていただきたいです。
将棋ファンであり、バンド活動もし、フルートも吹く、2012年以降は芥川賞選考委員でもある才人、奥泉光の力作『石の来歴』は太平洋戦争のレイテ島での凄惨な情景と、石に対する奥深い学術的考察、それに1968年以降の学生運動、家族の死や離散というモチーフをブレンドし結晶化させた、作者の力量を感じさせる作品です。
石に深い執着を見せ、その魅力にとりつかれた真名瀬剛。きっかけはレイテ島での死にゆく戦友の言葉でした。
- 著者
- 奥泉 光
- 出版日
「河原の石ひとつにも宇宙の全過程が刻印されている」(『石の来歴』より引用)
戦後、真名瀬は実家の古本屋を継ぎ、経営も安定しますが、ビジネスよりも石への興味が強くなる一方です。妻に半ば呆れられながらも石の蒐集を続けます。妻との初めての子も父親の趣味に影響を受け、石への愛着を見せるようになります。
喜ぶ父親と、その息子の英気にまんざらでもない母親。そして真名瀬が親睦会に向かうため家を空けていた折、長男が行方知れずとなり、近くの石切り場で凄惨な事件が起こります……。
戦争での目を覆いたくなるような光景や、殺人、それに岩石への博識が次々に披露され、全体として劇的であり、物語の展開としては派手です。文章も漢語が多く、硬質で隆々とした印象を受けます。作者は96年の作品『吾輩は猫である「殺人事件」』において、漱石の文体を模倣して高い評価を得ているという経緯もあります。
大衆文学のドラマ性と純文学の荘重なテーマが重なったような、間口の広さと敷居の高さを同時に併せ持つこの作品。夢と現実、時間と空間が交錯するクライマックスは一見の価値ありです。
自らをアヴァン・ポップ作家と称する笙野頼子の芥川賞受賞作「タイムスリップ・コンビナート」。地名が頻出し、主人公の移動に言葉が引きずられ、景色は夢と現実をさまよい、ときにユーモラスに読み手の思考をあざ笑います。それは90年代の日本の様相を的確に表現した作品のようでもあります。
書籍では「下落合の向こう」、「シビレル夢ノ水」と「あとがきに代わる対話」が収録されています。
- 著者
- 笙野 頼子
- 出版日
「私」は誰からともわからない電話で起こされ、その相手に半分が海である海芝浦駅に行くように言われます。とりあえずそこに向かう「私」は各駅の70年代を思わせる建築に妄想を浮かべ、時に祖母の思い出や過去の記憶を思い出します。たどりつくのは果たして、オキナワカイガンでしょうか?
ほとんどストーリー性というものは無視されています。自動筆記を思わせるようなとりとめもない文章が、時に突飛なメタファーとともにつづられてゆきます。ポストモダン文学というひとつの流れでくくり、この作家の作品を理解しようとする方向性もあるくらいです。
イメージの奔流のなかに巻き込まれ、快感を得る読者も多く、意味よりも感覚でとらえる作品ということが言えそうです。作風や文体は大きく異なりますが、高橋源一郎や村上春樹もデビュー当時はよくポップ文学と形容されていました。
主人公の「私」はマグロに恋をしていますが、このポップさは、現代のクールジャパン、アニメやマンガなどのサブ・カルチャー、世界に誇るTokyoの独自の思想的背景に通ずる部分があるのではないでしょうか。感覚で愉しむ物語の波を体感してみてはいかがでしょうか。
とても静かに進んでゆくストーリーです。大きなドラマは起こらず、ただたんたんと何気ない日常の風景が描かれてゆきます。
「ぼく」は空いてしまった時間に、大学の一年先輩の友人である真紀さんの家に行こうと不意に思い立ちます。十年ぶりの真紀さんは主婦としてすっかり「おばさん」になっています。「ぼく」は家の庭掃除を手伝ったり、ビールをご馳走になりながら、彼女の日常生活にふれ、昔のことを思い浮かべます……。
- 著者
- 保坂 和志
- 出版日
大学時代に映画サークルに所属していた「ぼく」と真紀さんの会話は落ち着いていて知的です。映画や本の話がたびたび出てきます。真紀さんの家に飼われているゴールデン・レトリバーのニコベエや、長男で小学五年生の洋平のサッカーの話がほほ笑ましく、善良です。毒がありません。しかし、決して退屈な小説ではないのです。そこにこの作者の非凡さが伺えます。
真紀さんの主婦像がとても繊細に描かれ、その夫や息子との関係性もきめ細かに表現されています。主婦の先輩と「ぼく」との話ですが、決して恋愛のストーリーではなく、その匂いすらありません。そんなところもまた、爽やかな読了感につながる理由でしょう。
川上弘美の第115回芥川賞受賞作である『蛇を踏む』。「蛇」という文学的にはおなじみの聖性のモチーフ、そして変身譚という神話の領域において用いられることの多いストーリーで、90年代後期の芥川賞において高い評価を得ました。
書籍では表題作と「消える」、「惜夜記(あたらよき)」の二編を収録しています。
- 著者
- 川上 弘美
- 出版日
- 1999-08-10
数珠屋「カナカナ堂」につとめるサナダヒワ子は藪で蛇を踏んでしまいます。
「踏まれたらおしまいですね」(『蛇を踏む』より引用)
そういうと蛇は姿を変えて人間になりました。この50歳ぐらいの女性はヒワ子の家に住み着き、おいしい料理をつくってくれます。
「ああ。わたし、ヒワ子ちゃんのお母さんよ」(『蛇を踏む』より引用)
正体を問うヒワ子に蛇である女性は答えます。しかし、ヒワ子の実の母親は故郷の静岡に健在です。そうしてヒワ子と蛇の奇妙な共同生活が始まります。
どこか女性性の奥深さを感じさせる作品の雰囲気です。幻想的な物語のなかに女性の神秘的な秘密がちりばめられているかのようです。文章もやわらかく音楽的で脱力しています。物語の意味を問うまえに作品世界に吸いこまれてゆきます。
「自分の書く小説を、わたしはひそかに「うそばなし」と読んでいます」(『蛇を踏む』あとがきより引用)
作者の描く幻想的な「うそばなし」の世界にぜひ足を踏み入れていただきたいです。
太平洋戦争での沖縄戦から生き残った主人公の痛烈な罪責感を真っ向からとらえた第117回芥川賞受賞作『水滴』。自身も沖縄出身の作者、目取真俊は、この後も戦争を題材にした小説を発表しつづけています。
突然、右足が冬瓜のように腫れ、親指から水が噴き出した徳正。その水を夜な夜な死んだ兵隊たちが吸いに現れます。そのうちに徳正は兵隊たちのなかに見知った顔を見つけます。それは50年前、沖縄戦で壕におきざりにした友人の石嶺でした……。
- 著者
- 目取真 俊
- 出版日
異常な病にかかった主人公は重苦しい意識の中で、過去に置き去りにした戦友たちに足の親指から滴る水を吸い続けられるという、怪談話めいた異様な光景が繰り広げられます。しかし兵隊たちは恨んでいる様子もなく、彼に敬礼しては壁のなかに消えてゆきます。
毎夜訪れる兵隊たちは、50年経っても風化することのない「自分だけ生き残ってしまった」という罪責感とともに彼を苦しめます。仲間を置き去りにした彼は果たして悪いことをしたといえるでしょうか?小説は読者に語りかけてくるようです。
深刻な題材ですが、作者は時にユーモラスな描写で緊張をやわらげます。徳正の従兄弟の清裕はずるがしこく世俗の垢にまみれ、滑稽な人物です。また他の村人たちも生きいきと描写され、生命感にあふれています。
果たして徳正の足は治るのでしょうか?そして彼の深い悔悟は浄化されてゆくのでしょうか?ぜひその目で確かめてみてください。
性と暴力は文学的に普遍のテーマです。人間の本質を描こうと思えば、避けることのできない命題と思われます。
殺人を犯した朧は、外国人の院長の性的欲求をみたすことを条件に、自分の育った修道院兼教護院に逃げ戻ってきました。しかし彼は修道女を犯し、院内の少年を暴力で支配し、神へ挑戦するかのような背徳行為を繰り返します。果たして朧はそんな行動に神の回答を得ることができるのでしょうか?
- 著者
- 花村 萬月
- 出版日
- 2008-10-04
物語では刺激的な描写が続きます。生理的に不快を感じる読者もいるかもしれませんが、これが文学のひとつの側面ということも言えます。背理、悪徳、頽廃……そこに悪魔的な魅力が宿ることもまた真実です。破滅型の主人公、朧はある意味で求道者としての道を突き進んでいるかのように自分の欲望と暴力衝動に対して、真摯です。
とにかく力のある作品で読ませます。純文学の枠を逸脱しているととるか、より本質を捉えた作品ととるか、読者の文学観しだいといえそうです。
マスコミがこぞって大きく報道した第120回芥川賞は、弱冠23歳の現役学生平野啓一郎が当時最年少で受賞しました。
擬古文で描かれたその作品世界は難解であり、賛否両論を巻き起こしましたが、内容自体はエンターティメント精神にあふれた冒険小説です。
- 著者
- 平野 啓一郎
- 出版日
1482年フランス、神学僧の二コラは『ヘルメス選集』の完本を求めてパリから旅立ちます。そこで出会った錬金術師ピエェルは魔法のような「賢者の石」の創生について語ります。ピエェルの家の蔵書を読むことを許された二コラですが、悪魔が出現するといわれる森にしばしばピエェルが出かけて行くことに気がつくのです。二コラはピエェルのあとをこっそりとつけてゆきますが……。
モチーフが夢のような、魔法の国のような幻想的なもので、その魅惑的な世界観にページをめくる手も早まります。賢者の石、魔女、全裸の両性具有者、幻の巨人……。
通底しているのが作者の当時のフランスの宗教や文物、思想に対する透徹したまなざしです。一部の作家や批評家に衒学的と揶揄されるきらいもありましたが、素直にその知識の深さに感嘆します。難解といわれる文章も、この世界観を表現するための一手段と考えれば絶大な効果を表しているでしょう。
神話と現実が混淆する古い異国の物語のなかで、キリストにまで話の向かうスケールの大きさに、他の小説にはない新世代の書き手の高い志を感じるようです。