現代の悩みを小説形式で考える哲学シリーズ。 今回は「転職は逃げではないか」と悩む、社会人3年目になる女性の物語。 何気なく就職した会社を辞めて、本当にやりたいことに進みたい。 その気持ちは「逃げ」なのだろうか。 ニーチェの「ニヒリズム」を手がかりに「逃げ」という言葉の呪縛を解きほぐしてみたい。

日曜日の午後、電車に揺られていたときのことだった。
真帆の隣に、母親と小さな女の子が座っていた。女の子は膝の上に絵本を広げ、母親が静かに読み聞かせている。
「それでね、くまさんは言いました」
女の子は絵本に顔を近づけ、次のページをめくろうとする手を母親がそっと止める。
真帆はその様子を横目で見ながら、不意に胸の奥が温かくなるのを感じた。
小さい頃、祖母がよく絵本を読んでくれた。両親は共働きで忙しく、平日の夜はほとんど顔を合わせなかった。
その代わり、近くに住んでいた祖母が夕方になると家に来て、夕飯を作り、お風呂に入れてくれた。
そして寝る前には必ず一冊、絵本を読んでくれた。
祖母の声と、ページをめくる音。布団の中で絵本の絵を目で追いながら、いつの間にか眠りに落ちていく。
あの時間だけは、静かで、安全で、平和な世界だった。
電車を降りてからも、あの感覚がずっと残っていた。
真帆は今年で社会人3年目になる。
就職活動のとき、特にやりたいことはなかった。内定をもらえた会社の中から、なんとなく安定していそうなところを選んだ。
メーカーの事務職。仕事に大きな不満があるわけではないが、やりがいを感じることもない。毎日が静かに過ぎていく。
絵本に関わる仕事がしたい。その思いが浮かんだのは、いつ頃からだっただろう。
最初はぼんやりとした憧れだった。だけど気がつくと、休日に絵本専門店を巡ったり、児童書の出版社について調べたりするようになっていた。
先月、大学時代の友人に会ったとき、思い切って打ち明けてみた。
「転職を考えているんだけど…絵本の出版社に行きたくて」
友人はコーヒーカップを置いて、少し首をかしげた。
「ふうん。でもさ、今の仕事がそんなに嫌なの?」
「嫌というか、なんか違う気がして」
「それってさ、逃げじゃない?」
友人に悪気はなかったと思う。純粋な疑問だったのかもしれない。
でも、その一言が胸に刺さったまま、抜けなくなっていた。
「逃げ。」という言葉が頭の中で何度も繰り返される。
たしかに今の仕事が嫌だという気持ちがないわけではない。でも、絵本に惹かれる気持ちは本物だと思う。
どちらが本当の理由なのか、自分でもわからない。わからないから、動けないでいる。
翌週、真帆は大学のキャリアセンターを訪ねた。
学生時代、就職活動で何度も通った場所だ。当時担当してくれた村田さんという職員がまだいると聞いて、思い切って連絡を取ってみた。
「久しぶりですね、真帆さん。元気にしていましたか」
村田さんは50代半ばの女性で、穏やかな笑顔は3年前と変わっていなかった。
真帆は促されるまま椅子に座り、近況を話し始めた。
「実は、転職を考えていて」
「そうですか。今の会社は3年目でしたっけ」
「はい。仕事自体に大きな不満はないんです。でも、どうしても気になることがあって」
真帆は絵本のことを話した。
祖母との記憶。電車で見かけた親子。児童書の出版社への興味。
そして、友人に言われた言葉。
「逃げじゃないか、って言われたんです。それからずっと、考えがまとまらなくて」
村田さんは静かに聞いていた。
話し終えると、少し間を置いてから口を開いた。
「中村さん自身は、どう思っていますか。逃げだと思いますか」
「正直、わからないんです。今の仕事が嫌だという気持ちもあるし、絵本に惹かれる気持ちもある。どっちが本当の理由なのか、自分でも整理がつかなくて」
「なるほど」村田さんは窓の外に目をやった。
「『逃げ』という言葉は、不思議な力を持っていますね。一度貼られると、なかなか剥がせない」
「そうなんです。何をしても、どこかで『これは逃げなんじゃないか』って思ってしまって」
「では、少し考えてみましょうか。そもそも『逃げ』って、何なのでしょう」
村田さんは机の引き出しから一冊の文庫本を取り出した。
「学生時代に読んだ本なんですけどね。フリードリヒ・ニーチェというドイツの哲学者がいます」
「ニーチェ。名前は聞いたことがあります」
「19世紀の思想家で、『神は死んだ』という言葉が有名ですね。彼は『ニヒリズム』という考え方について、深く掘り下げた人です」
「ニヒリズム、虚無主義ですか」
「ええ。ただ、ニーチェはニヒリズムを一種類ではなく、二種類に分けて考えました。『受動的ニヒリズム』と『能動的ニヒリズム』です」
真帆は身を乗り出した。
「受動的ニヒリズムというのは、こういう態度です」と村田さんは続けた。
「世の中に意味なんてない。何をしても無駄だ。だから流されるままに生きよう。あるいは、何も選ばずにいよう。これが受動的ニヒリズムです」
「流されるままに、ですか」
「一方、能動的ニヒリズムは違います。確かに、世の中にあらかじめ決まった意味はないかもしれない。でも、だからこそ自分で意味を創り出していこう。自分の価値は自分で決めよう。これが能動的ニヒリズムです」
真帆は言葉を頭の中で反芻した。
「つまり、同じ『意味がない』という出発点から、違う方向に進むということですか」
「そうです。ニーチェにとって重要だったのは、虚無を前にしてどう振る舞うかでした。立ちすくんで動けなくなるのか、それとも自分で一歩を踏み出すのか」
真帆はふと気づいた。
「でも、私の場合、今の仕事が嫌だから辞めたいという気持ちも確かにあるんです。それって、嫌なことから逃げているだけで、受動的なんじゃないですか」
村田さんは穏やかにうなずいた。
「そう考えるのは自然ですね。でも、もう少し考えてみましょう。動機というのは、一つだけとは限りません」
「人が何かを始めるとき、きっかけは一つではないことが多いんです」
村田さんは言葉を選ぶように話した。
「今の場所から離れたいという気持ち。新しい場所に惹かれる気持ち。その両方があっていい。最初のきっかけが『嫌だから』であっても、その先で何を創ろうとするかで、意味は変わってきます」
「その先…」
「ええ。ニーチェの言葉を借りれば、『逃げかどうか』は出発点では決まらない。そして到着点でも決まるわけでもない。歩き続けるかどうかで決まる、と言えるかもしれません」
真帆は黙って聞いていた。
「中村さんは、絵本の出版社について調べているんですよね」
「はい」
「それは『嫌だから逃げる』だけの人がすることでしょうか」
真帆は答えられなかった。
「今の仕事が嫌だという気持ちがあっても、いいんです。問題は、その先で何を選ぶか。どう歩いていくか。それを決めるのは、他の誰でもない、中村さん自身です」
村田さんは真帆の目をまっすぐ見た。
「『逃げ』という言葉は、他人が貼るラベルにすぎません。友人の方は悪気なく言ったのでしょうが、その基準はあくまでも友人の基準です。中村さんの人生を、他人の基準で裁く必要はありません」
窓から差し込む光が、少しずつ傾きはじめていた。
「ニーチェの思想は、優しいものではありません」と村田さんは言った。
「自分で選べ、自分で意味を創れ、と言っている。それは自由であると同時に、重荷でもあります」
「重荷ですか」
「誰かに決めてもらえたら楽ですよね。『これが正解だ』『こうすれば間違いない』と言ってもらえたら…」
村田さんは強い眼差しを向けた。
「でもニーチェは、そういう保証を与えてくれません。その代わり、自分の足で立つ方法を教えてくれます」
真帆は深く息を吸い込んだ。
「『逃げかどうか』を考え続けても、答えは出ないかもしれない。でも、その言葉にそもそも縛られる必要があるのか。それを問い直してみてもいいのかもしれませんね」
村田さんはそう言って、穏やかに笑った。
真帆は立ち上がり、頭を下げた。
「ありがとうございました。少し、整理がついた気がします」
「いつでも来てください。話を聞くくらいしかできませんけれど」
キャリアセンターを出るとき、真帆は空を見上げた。
まだ答えは出ていない。転職するかどうかも決めていない。
でも、胸の奥で何かが少しだけ軽くなっていた。
「逃げかどうか」という問いは、まだ頭の片隅にある。でも、その問いに支配されなくてもいいのかもしれない。
数日後、真帆は仕事帰りに書店へ立ち寄った。
児童書のコーナーで足を止める。色とりどりの背表紙が並んでいる。
祖母に読んでもらった絵本を探そうとしたが、タイトルが思い出せなかった。
その代わりに、一冊の絵本が目に留まった。見たことのない絵本だ。
表紙には、夜空を飛ぶ小さな鳥が描かれている。
手に取ってページをめくると、鳥が暗い森を抜けて、少しずつ空へ上っていく物語だった。
最後のページで、鳥は朝焼けの中を飛んでいた。どこへ向かっているのかは描かれていない。ただ、翼を広げて飛んでいる。
真帆はその絵本を買った。
帰り道、電車の中でふと考えた。あの友人に「逃げじゃない?」と言われたとき、自分はどう答えたかっただろう。
反論したかったのか。それとも、自分でも「逃げかもしれない」と思っていたから、何も言えなかったのか。
きっと、両方だ。逃げたい気持ちも、向かいたい気持ちも、どちらも本当だった。
どちらかだけを選んで、もう一方を捨てる必要はなかった。
アパートに帰り、テーブルの上に絵本を置いた。祖母に読んでもらった本ではなく、自分で選んだ一冊だ。
明日、何かが劇的に変わるわけではない。転職を決めたわけでもない。
だけど「逃げかどうか」に縛られていた自分は、もういない。
絵本を開く。夜の森を飛ぶ鳥の絵。
物語は、ここから始まる。どこへ向かうかは、まだわからない。
でも、翼を広げることは、逃げることとは違うはずだ。
ニーチェ(2018年)『ツァラトゥストラ』(手塚富雄訳)中公文庫
- 著者
- ["ニーチェ", "手塚 富雄"]
- 出版日
今回の記事に登場する「超人」の思想、およびニヒリズムを克服する試みが展開されるニーチェの主著です。「神は死んだ」と宣言したツァラトゥストラが山を下り、民衆に語りかけるという物語形式で綴られています。
本書は格調高い文体と丁寧な訳注が魅力的で、初めてニーチェに触れる方にも読みやすい一冊になっています。
巻末には、訳者である手塚富雄と三島由紀夫の対談「ニーチェと現代」(1966年)も再録されており、さらに理解を深めることができるはずです。
全4部を1冊にまとめた改版で、ニーチェの世界に浸るための最適な入口となるでしょう。
永井均(1998年)『これがニーチェだ』講談社
- 著者
- 永井 均
- 出版日
「ニーチェは世の中の役に立たない。だからこそすばらしい」という衝撃的な書き出しで始まる、ニーチェ研究の第一人者による入門書です。今回の記事で扱った「ニヒリズム」や「力への意志」といった概念を、著者独自の視点から鮮やかに描き出しています。
俗っぽい自己啓発的な解釈を排して、ニーチェ思想の危うさと真の価値に正面から向き合う姿勢が、本書が長く支持される理由になるでしょう。
新書ながら読み応えは十分で、原著に挑む前の準備としても、読後の理解を深めることもできる稀有な一冊です。
ニーチェ(2009年)『道徳の系譜学』(中山元 訳)光文社
- 著者
- ["フリードリヒ ニーチェ", "Nietzsche,Friedrich", "元, 中山"]
- 出版日
今回の記事で村田さんが語る「逃げという言葉は、他人が貼るラベルにすぎません」という視点は、本書で示される「ルサンチマン」という概念と深く響き合っています。
弱者が強者を恨み、道徳によって復讐を果たす心理のメカニズムを、ニーチェは容赦なく暴いていきます。
『ツァラトゥストラ』のような詩的な文体ではなく、論文形式で書かれているため、ニーチェの主張を論理的に追いやすいのが魅力的です。
訳者である中山元先生の解説も丁寧で分かりやすく、ニーチェの理解を大きく助けてくれるはずです。