5分でわかるインパール作戦!真実は?経過と結果などをわかりやすく解説

更新:2019.3.26 作成:2019.3.26

参加した日本兵の多くが亡くなったことから、「史上最悪の作戦」と呼ばれる「インパール作戦」。調べてみると、いかに無謀な戦いだったがわかります。この記事では作戦が決行されるまでの経緯や結果などをわかりやすく解説。あわせておすすめの関連本も紹介します。

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「インパール作戦」とは。指揮官や死者数など概要を簡単に解説

 

太平洋戦争の後期の1944年3月から7月まで、インド北東部の都市インパールを攻略するために日本軍がおこなった作戦を「インパール作戦」といいます。日本軍における作戦名は「ウ号作戦」です。

インパールはイギリス軍の拠点となっていて、日本軍はここを征服できれば敵の戦力を大幅に弱体化できると考えていました。

しかし、2000m級の険しい山岳地帯を転戦する過酷さに加え、重い装備、大量の雨、マラリアや赤痢などの感染症の蔓延などにより、約10万人いた戦力のうち戦死者が約3万人、怪我や病気で後送されたのが約2万人、残りの大半も負傷もしくは罹患するなど、莫大な犠牲を払うことになります。

後に「史上最悪の作戦」と呼ばれることになる「インパール作戦」を立案・指揮したのは、第15軍司令官の牟田口廉也(むたぐちれんや)中将です。陸軍内の強硬派である「皇道派」に属し、1937年に起きた「盧溝橋事件」では中央の方針に反して独断で出撃命令を下すなど、自らが正しいと思う道をまい進するタイプの軍人でした。

「インパール作戦」失敗の責任については、第15師団長の山内正文中将が死の床で、「撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓のために戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり」と語るなど、当時から牟田口を非難する声があがっています。それほど、敵を過小評価し、補給を軽視した無謀な作戦だったといえるでしょう。

しかし牟田口の責任が重いものだとしても、それを承認して実行させたのは軍の上層部です。専門家からは、責任をすべて牟田口に背負わされるのは公平ではないという指摘もあります。

「インパール作戦」の真実。なぜ実行されたのか?

 

太平洋戦争が始まると、日本軍は、対立している中華民国を支援するためにアメリカやイギリスが用いていた「援蒋ルート」の遮断を目的に、第15軍をビルマに侵攻させます。

ビルマ独立義勇軍などの協力もあり、イギリス軍を駆逐して3月8日には首都ラングーンを攻略しました。ビルマ攻略が予想以上に順調に進んだため、日本の南方軍は「二十一号作戦」という東部インドへの侵攻を立案するのです。

しかしこれに対し、作戦の主力になると考えられていた第18師団長が反対します。この時師団長を務めていたのが、牟田口でした。反対した理由としては、山岳や河川による交通障害や補給の困難さなど、まさに後の「インパール作戦」が失敗する要因になったものばかりです。

結局「二十一号作戦」は現地部隊の反対に加え、ソロモン諸島にて「ガダルカナル島」が勃発したこともあり、保留となりました。

その後、徐々に戦況が悪化して、ビルマ方面でもイギリス軍による反抗が活発化していきます。そして第15軍司令官に昇格した牟田口は、従来の守勢防御から、イギリス軍の拠点であるインパールの攻略を目指す攻勢防御へと方針を転換することを主張するのです。

彼の提案に反対の声も多くあがりましたが、悪化しつつある戦況を一気に覆したいという大本営上層部の思惑もあり、「インパール作戦」は実行されることになりました。

「インパール作戦」の経過。「白骨街道」とは

 

1944年3月8日、第15軍隷下の第15師団、第31師団、第33師団は、「インパール作戦」を開始しました。

第31師団がインパールと要衝ディマプルの連絡を遮断するため、結節点となるコヒマへ向かいます。残る2個師団がインパールを目指して進撃しました。

牟田口は補給不足に陥ることを打開するため、牛や山羊、羊などの家畜に荷物を運ばせて、必要に応じて家畜そのものも食すという「ジンギスカン作戦」を考案しましたが、実際は渡河時に流されたり、険しい地形に歩を進めることができなかったりして破綻してしまいます。

さらに、3万頭もの家畜を引き連れて進撃する日本軍は、格好の標的となりました。爆撃を受け、家畜は荷物を積んだまま逃げてしまい、貴重な物資をさらに失うこととなったのです。食料、弾薬ともに欠乏し、敵が展開している前線に到着した頃には、すでに各師団とも疲労困憊の様相でした。各師団は後方にいる牟田口に補給を要請したものの、返答は「糧は敵に求めよ」というものだったそうです。

険しい道のりを走破するために軽装備しか携行していなかった日本軍に対し、イギリス軍は円形に構築した陣地の外周を戦車や火砲で防御し、包囲されても空中から補給物資を投下できる円筒陣地を構築していました。日本軍が得意とする夜襲や切込みは通用せず、多くの犠牲を出すこととなります。

第15師団は4月7日にインパールの北15km、第33師団は5月20日にインパールの南15kmの地点まで到達しましたが、イギリス軍の空陸からの攻撃、補給線を断たれたことによる餓死者の増加、感染症の蔓延などで、作戦続行は不可能な状況に追い込まれました。

第31師団は4月5日にコヒマの攻略に成功したものの、「テニスコートの戦い」で敵の駆逐に失敗。前進どころかコヒマの維持も困難になります。師団長の佐藤幸徳は司令部に対し、たびたび撤退を進言しましたが、牟田口はこれを拒絶。双方は対立し、5月末に佐藤は司令部の命令に反して独断で撤退を決断するのです。これは、日本陸軍創設以来初めての抗命事件だといわれています。

牟田口は、佐藤と、彼と同様に撤退を進言した第33師団長の柳田元三、第15師団長の山内正文の3人を更迭。師団長は天皇によって任命される親補職であり、現場の一司令官である牟田口には、本来彼らを更迭する権利はありません。この時点で、第15軍はもはや組織としての体を成していなかったといえるでしょう。

7月3日、「インパール作戦」の中止が決定。日本軍は撤退を開始します。しかしこの間もイギリス軍は容赦なく攻撃を仕掛け、衰弱した者は次々と脱落。道にそって腐乱死体や白骨死体が延々と並んだ悲惨な様子から、日本軍の退却路は「白骨街道」と呼ばれました。

「インパール作戦」の結果は?成功だったのか

 

当初は互角の形勢だった日本軍とイギリス軍。「インパール作戦」の結果、均衡が完全に崩壊したため、同作戦は世界の戦史上まれに見る大失敗だとみなされています。

「インパール作戦」後、日本軍は第15軍司令部およびビルマ方面の軍を刷新。12月からは「ビルマ南部の要域を確保すること」「可能な限りインド・中国間の連絡を封殺すること」を目的に、マンダレー付近とイラワジ湖畔にて積極的に反撃する「イラワジ会戦」を実行しました。

しかしこれもまたイギリス軍に敗北。さらに翌1945年3月、これまで日本軍とともに戦ってきたビルマ国民軍が連合国側に寝返り、日本軍に対して攻撃を開始、日本はビルマを失うことになりました。

当時、日本への反撃を指揮していたのが、「ビルマ建国の父」と呼ばれるアウンサン。後にミャンマーの国家顧問を務めて実質的な国家指導者となる、アウンサンスーチーの父親です。

当事者の証言をもとにした一冊

著者
NHKスペシャル取材班
出版日
2018-07-28

 

「史上最悪の作戦」と呼ばれる「インパール作戦」がどのように立案され、遂行されたのかを紐解いていく一冊。立案・指揮した牟田口の肉声テープや、従軍した元少尉の日誌、生還した兵士たちや、白骨街道を歩む日本兵を目撃した現地の住人らの言葉など、さまざまな証言をもとにしています。

なぜ多くの犠牲を出すことになってしまったのか、計画を立てるプロセスに誤りはなかったか、頓挫した時の対策をたてていたのか……本書を読んでいくと、現代の組織論にも通じる問題提起が多くなされています。

戦争の悲惨さを伝えることはもちろん、ビジネスマンの胸にも響く作品です。

「インパール作戦」から失敗の本質を学ぶ

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

1991年08月01日
["戸部 良一", "寺本 義也", "鎌田 伸一", "杉之尾 孝生", "村井 友秀", "野中 郁次郎"]
中央公論社

 

何かうまくいかないことが起きると、日本人はよく「水に流そう」「切り替えよう」と口にします。しかしこれは日本人特有の考え方で、海外の人からすると理解ができないものなのだそう。彼らは失敗を水に流すのではなく、徹底的に分析し、次の成功へと結びつけようと考えるからです。

本書では、「インパール作戦」をはじめ、太平洋戦争で日本軍が犯した数々の失敗を分析し、日本人が陥りやすい失敗の本質に迫っていきます。過去の教訓を未来にいかすこと、本書を読むことこそが、失敗を水に流さない第一歩なのではないでしょうか。