中国史のなかで最初の戦乱の時代となった春秋戦国時代。周王朝の衰退から秦の始皇帝による統一までのおよそ549年続いた分裂の時代は、「皇帝」による政治の原点を生むことになりました。政治、経済、文化、思想などこの時代に生まれたものの多くが、中国だけでなく、日本にも数々の影響を与えています。今回は、知っておきたい春秋戦国時代の概要を説明し、この戦乱のなかで誰が最強の武将だったのか考察。また秦が統一後にどうなったのか説明したうえで、累計7000万部発刊を突破した大人気漫画などおすすめの関連本もご紹介していきます。
ひと口に「春秋戦国時代」といいますが、実際は春秋時代と戦国時代にそれぞれ分けて考えることが一般的です。
では春秋時代と戦国時代の分岐点はいつなのか。
これについては諸説ありますが、もっとも一般的に使われている説をご紹介しましょう。
春秋時代は、紀元前770年から紀元前403年。中国大陸の政治の中心となっていた周王朝が、都を鎬京(こうけい)から洛邑(らくゆう)に遷都してから、晋が韓、魏、趙の三国に分裂して独立が認められるまでを指します。孔子の記した『春秋』という記録にあった時代から、「春秋時代」と呼ばれています。
一方の戦国時代は、紀元前403年から紀元前221年。
韓、魏、趙が独立してから、秦が中国大陸を統一して乱世が終焉するまでを指します。前漢の劉向(りゅうきょう)が編纂した『戦国策』という記録に由来します。
なお、戦国時代の末期まで周王朝自体は存続していたことから、春秋戦国時代を合わせて東周時代、洛邑に遷都する前を西周時代ともいいます。
周王朝は、商王朝を滅ぼした後、王族や功臣に土地を与えて、自治や世襲を許可する「封建制」を採用しました。周王朝がその宗主として中央を統治するという形をとります。
その後、長い年月をかけてしだいに衰退。紀元前771年に異民族の侵略によって第12代・幽王(ゆうおう)が殺害され没落します。翌年新たに擁立された平王(へいおう)が洛邑に遷都、周王朝を再興しました。
しかし諸侯たちの手を借りねばならぬほど衰退した王朝は、政治的な権力を急速に失います。やがて諸侯は、王朝を補佐する「覇者」と呼ばれる立場を争い、各地で戦争を起こすようになりました。この戦乱がおよそ200年にわたって続きます。
紀元前546年、宋国の仲介で北の大国・晋と南の大国・楚が休戦協定を結ぶことで、一時平和が訪れました。
その後代わって起こったのが、国内での権力争いや下克上です。諸侯国の大臣である卿や大夫が、主君を追い出すもしくは殺害する事態が各国で発生します。
現在の山東省に位置する魯国でも、卿によって国主が国を追い出されてしまいました。これを嘆き、君主による礼を取り戻そうとしたのが、魯国出身の孔子です。彼のほかにも孟子、墨子、荀子など数多くの思想家が現れ、戦乱は諸子百家と呼ばれる思想家たちの隆盛を引き起こしました。
下克上の結果、斉の主君が呂氏(姜氏)から田氏に代わり、晋では本来の主君が韓、魏、趙の三氏に独立を許します。三晋の独立が認められた紀元前403年が、一般的には春秋時代の終焉とみなされています。
戦国時代になると、春秋時代とは異なり各諸侯が独力で天下を掌握しようとします。
かつてのように「覇者」が中心となって周王朝を支えるといったことはもはやなくなり、戦乱で勝ち残った「戦国七雄」と呼ばれる「秦、燕、斉、楚、趙、魏、韓」によって天下が争われるのです。
主君の呼称にも大きな変化が起こります。それまで王は周王のみで、そのほかは公、侯などと名乗っていましたが、楚、呉、越、そして魏や秦、斉なども独自に王を名乗るようになりました。
周王朝はついに名目さえも失い、洛邑付近を治めるに過ぎない小国に成り果てていきました。
戦国七雄はそれぞれ王や大臣が改革をおこない、国力を充実させて周囲の小国を併呑し、勢力を拡大していきます。なかでもとくに台頭したのが、西方の秦、南国の楚、東国の斉です。しだいに楚、斉が衰退していくと、秦の一強時代になりました。
紀元前247年、始皇帝と呼ばれることになる嬴政(えいせい)が王に即位すると、秦はついに統一に向けて動き出します。紀元前221年、最後に残っていた斉を滅ぼし、諸侯はすべて秦の元に統一、ここに長く続いた分裂の時代は終焉を迎えました。
春秋戦国時代には、故事成語やことわざの由来となっている出来事が非常に多く登場します。一部は司馬遷の『史記』に記述のあるものですが、一部は実在を疑われるものも存在します。しかし500年以上にもわたってくり広げられた戦乱の時代は、中国の原型として人々の心に深く刻まれ、現在でも多くの人が研究を進めているのです。
以下の記事では始皇帝について詳しく説明しています。あわせてご覧ください。
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「秦の始皇帝」の名前は世界史の授業で必ず1度は耳にしているのではないでしょうか。中国統一という偉業を成し遂げた人物ですが、皆さんは彼の人生や偉業についてどれくらいご存知でしょうか?今回は秦の始皇帝についての逸話とおすすめの本をまとめました。
500年以上続いた戦乱の時代、軍事面で活躍した人物は数えきれないほどいます。誰が最強なのか、気になる歴史ファンも多いのではないでしょうか。春秋戦国時代に活躍をした戦の名人たちを見てみましょう。
ひと言で強さといっても、「功績」「人徳」「勝利の普遍性」の要素を兼ね備えている人材はそう多くはいません。
まずは春秋時代、紀元前535年頃に生まれた孫武(そんぶ)。元斉の人間ですが、その兵法の巧さを買われて、飛ぶ鳥を落とす勢いの呉王・阖闾(こうりょ)に招聘されます。彼がいた時代、呉は各地を圧迫して大国・楚の都を落とし、斉や晋にも迫り、宿敵である越にも大打撃を与え、春秋末期最強の国になりました
しかし孫武の功績自体は、それほど多くはありません。彼が重んじたのはそもそも戦わないこと、そして戦うなら万全の状態で勝つことでした。
生涯で有名な戦歴はなんといっても楚の都を陥落させた「柏挙(はくきょ)の戦い」です。呉はかねてから楚を撃退しようとしていましたが、そこに楚に圧迫された蔡・唐の君主が呉に亡命してきたため、これを利用して楚に大軍を派遣することを決めました。孫武はこの時、楚の30万の大軍を陽動で攪乱し、楚軍を疲弊させる役割を担います。
これによって呉の主力はほとんど無傷で楚の都に迫り、かつ楚軍はたび重なる呉の進撃で本来の力を発揮できずに連敗、ついに都が陥落するという結果に終わったのです。
それまで実績に乏しかった孫武の名声はこれによって一気に高まりました。ところが彼はそれ以上の地位を求めず、さっさと引退してしまったのです。
戦国時代の最強国はなんといっても秦ですが、秦が一気に強大となった理由として、戦の名人が数多くいたことが挙げられるでしょう。
特に恵文王の時代に、遊説家ながら宰相にまで上り詰めた張儀、恵文王の異母弟である樗里疾(ちょりしつ)、諸子百家の学説を学び上記2名の推薦で恵文王に仕えた甘茂(かんも)に注目です。
彼らは秦の寛容な外国人政策や、厳格な法治国家体制によって生まれた精鋭。特に樗里疾は向かうところ敵なしで、紀元前380年の「函谷関の戦い」では韓・魏・趙・斉・燕の5国8万の軍勢を食い止め撃破、山西省の曲沃(きょくよく)、漢中、蘭を支配下に治めて領土拡大といった活躍をしました。
さらには、友人である張儀に生きる道を与え、戦に限らず人間的にも優れた人物だといえます。しかし同時期には彼以上に活躍した人物が多いことから、その功績は決して有名とはいえません。
戦国時代でもっとも有名な戦略家は、燕の楽毅(がくき)でしょう。彼は趙、魏に仕えていましたが、滅亡に瀕した燕が広く賢者を求めると、これに応じて燕に仕えます。当時盛況だった斉を倒すために趙・楚・魏、さらに秦とも結んで斉を討伐することを進言、宰相兼総帥の地位を燕の昭王からもらい受けて、斉に大軍で侵攻し、あわや滅亡するところまで追い込みました。
しかしこの大きすぎる功績は、新たに即位した恵王からは憎まれることとなり、楽毅は誅殺を恐れて趙に亡命します。通常であればここで功績をもとに独立・反乱というのが定石ですが、彼は昭王から受けた恩を忘れずに恵王に丁寧に接し、燕と趙の両国から優遇されて、双方を行き来するような特別待遇で生涯を終えました。
兵法家からもうひとり、孫武の子孫とされている斉の孫臏(そんびん)も忘れてはいけません。彼は脚を切断されて自由に動けない身体でしたが、「桂陵の戦い」では魏の大軍の隙を突いて都を攻め勝利、自分を両足切断に追い込んだ魏の龐涓(ほうけん)には「馬陵の戦い」で大勝利を治めます。
また、趙では、税務官上がりの趙奢(ちょうしゃ)という人物がいました。王族さえも容赦なく罰するその姿勢を買われて中央へ出世し、やがて軍勢を率いるようになります。紀元前270年の「閼与の戦い」では、秦が韓攻略のために閼与を包囲しようとしたところに参戦しました。
「軍命に逆らう者は死刑にする」と厳命して28日間まったく動かず、秦の間者を欺いてついに閼与に侵攻を開始します。軍士の進言を受けて山頂に陣取り、追いかけてきた秦軍に突撃して大勝利。閼与の包囲を解放しました。こうして彼は、趙で名将軍とされた廉頗(れんぱ)と同格の地位を得ることになります。
最後は秦から2人紹介します。まず白起(はくき)という人物。若い頃から秦に仕える宿将で、およそ37年の間、韓と魏と攻める際に毎何万もの敵兵を撃破、生き埋め、斬首をくり返しました。特に紀元前260年の「長平の戦い」では趙兵40万を生き埋めにします。ところが彼も最終的には戦績がアダとなり、他国から離間の計を受けて自害に追い込まれてしまいました。
王翦(おうせん)も秦に仕える将軍。若い頃の功績は不明ですが、秦の中華統一で頭角を表し、趙や燕の都を落とす際に大きく貢献しました。もっとも有名なのが「楚平定戦」で、失敗した李信の後釜として60万の兵を率いて楚を滅ぼすのです。楚の強大さをよく知ったうえでの60万の兵の要請、そして先人の失敗を鑑みたうえでの戦後の迅速な引退は、戦に限らず処世術でも非常に優れた考え方でしょう。
こうして見てみると、戦そのものと勝利に至るまでのプロセスでは、楽毅がもっとも素晴らしい将軍ではないでしょうか。しかし彼の軍は最後に損傷を被っているので、無傷を考慮すると、一切剣を握らずに大勝利に導いた孫武、孫臏を称えることができます。
彼らは戦で功績を立てた後に、それ以上の成果を追い求めずあっさりと隠居してしまったため、一過性の勝利を維持することにも成功しました。彼らが生きていた頃は他国も侵攻できなかったので、まさに戦わずして勝つです。
ということで、春秋戦国時代も最強の武将は、「孫子」としたいと思います。
長きにわたる戦乱の世を統一した秦は、斬新な方法で国の体制を固めていきました。
まず秦王が考えたのが、王を超える称号です。伝説の三皇五帝の徳を兼ね備えるいう意味で「皇帝」としました。皇帝は二世、三世と永遠に続くものとしたため、その最初である嬴政(えいせい)は後に「始皇帝」と呼ばれるようになります。
また、皇帝をトップに据え政治・軍事・司法の三権分立、その下に9つの専門機関を置いて皇帝がすべてを管理する中央集権体制を築きます。周王朝のような諸侯の自治を廃止して、全国を郡分けて中央から官吏を派遣する「郡県制」を採用しました。
経済面では、首都の咸陽から馳道(ちどう)と呼ばれる高速道路を築き、諸国でバラバラだった文字・貨幣・度量衡(重さ、長さ、体積)、車輪の幅を統一します。これによって交通、経済、商業が便利になり、制度や法律の制定がより迅速におこなわれるようになりました。
実はこうした一連の改革は、秦が戦国七雄と戦っている時から徐々におこなわれていました。しかし性急であったことから反発を生み、諸子百家の書を尽く焼き捨てさせた焚書(ふんしょ)、法による統治に反対する書生を生き埋めにしたといわれる坑儒(こうじゅ)などが起きます。
万里の長城、兵馬俑の建築など、人民を酷使する工事もあったことから、始皇帝には後世悪いイメージがついてしまうのです。
郡県制の施行を議論した際には、反対派が次のように主張していました。
「郡県制の施行は名案ですが、未だ諸侯の国の民や王族が数多くいる中で一挙に実行するのは反発を招くと思います。」
そしてそのとおりに展開していくのです。始皇帝が全国行脚の途中で亡くなると、彼ひとりで支えていたといっていい秦王朝は、急速に反発を受けることになります。打倒秦を目指して立ち上がった勢力の多くは、かつて秦に滅ぼされた王族またはそれに関係の深い一門でした。
そして始皇帝の建国から僅か15年で、秦は咸陽に攻め込んできた劉邦に降伏。皇帝は自ら王に降格し、まもなく攻め込んできた項羽に滅ぼされて滅亡しました。
『キングダム』は古代中国を舞台とした歴史大作長編漫画で、連載を始めて以来、異例ともいえる不動の人気を誇っています。
漫画界だけでなくビジネス界とのコラボレーション、アニメ化、実写特別映像など進展はとどまるところを知りません。
- 著者
- 原 泰久
- 出版日
- 2006-05-19
史実では、秦は確かに最終的に中華統一を果たし、現代まで続く中国の基礎を築きました。しかしそれは急速な改革の結果に過ぎず、実際は秦王政が幼い頃から問題ばかりの国だったのです。
本作は、そうした従来なら統一前の小さな出来事として処理される、秦王前半期についてかなりの割合をさいています。 戦乱をテーマとしていますが、それ以外のひとつひとつの事件に対する描写も非常に細かく、まもなく50巻刊行にも関わらずようやく中華統一へと動き出したばかりなのです。
登場人物のほとんどが、『史記』では何をしたのかわからなほどの記述しかありませんが、作者はわずかな事実からそれが記された意味を深く問い続け、キャラクターに人間味を与えています。
また力を入れているのが、「組織」の描写です。作者は普通のサラリーマンだったらしく、多様な人間と交流してきたことによって「人」を学んできました。本作にはかなり多くの登場人物が出てきますが、実社会をよく見てきた作者ならではの組織感、人間味が現れています。
歴史漫画ですが、少年漫画の王道である「勇気」「友情」「勝利」も感じることができ、壮大すぎる世界観をある種の安心感を持って読むことができるでしょう。
いよいよ天下統一に動き出した秦ですが、劣勢になっても諸国はまだ健在。一筋縄では行きません。この困難に信と嬴政はどう立ち向かっていくのでしょうか?まだまだ目が離せません。
始皇帝は歴史上初めての皇帝であり、改革を急いだゆえに暴君とみなされる……この解釈は果たして本当でしょうか?
彼の人物像および秦代の事跡は『史記』に依拠するところが多いですが、『史記』は元々王朝の命令で書かれたものではないため、真実とは思えない記述や漢王朝を褒めるために意図的に秦を悪く書いている部分も目立ちます。
さらに、これだけ多くの研究がされてきた始皇帝にも、まだまだ新事実が発見されているのです。『人間・始皇帝』では、現在進行形の始皇帝研究について知ることができます。
- 著者
- 鶴間 和幸
- 出版日
- 2015-09-19
1970年代以降、新史料が発見されてから、従来の始皇帝像にかなりの修正がなされてきました。
著者の鶴間和幸は、長年始皇帝や兵馬俑について研究してきた人物ですが、本書は従来から知られている『史記』を基礎とした始皇帝認識と、新史料を踏まえた新解釈との比較をおこないながら始皇帝悪玉説の根本となったものについて説明しています。
プロバガンダ的な解釈に疑いを持ち、始皇帝の人物像と秦代の政治について新たな研究の道を展開しているのです。
歴史は生き物といいますが、歴史研究も決して過去のものではなく、日々更新されていくものです。作者が示した新解釈はまだ道半ばで、これをきっかけにまた多くの人がこの時代の研究に取り組んでいくことでしょう。
覇王と呼ばれ、権力を掌握しながらも敗北した項羽。そして苦しい立場に立たされながらも最後に逆転勝利した劉邦。『史記』はこれを項羽と劉邦の人間性の差と記述していますが、現実はそう簡単に説明しきれるほど単純ではありません。
『項羽と劉邦の時代 秦漢帝国興亡史』では、『史記』の記述を元に楚と漢の違いを国のシステムから考察し、『史記』に描かれたイメージに隠された意図と、東西地域の差とその統合を目指した漢王朝の成功について論じます。
- 著者
- 藤田 勝久
- 出版日
- 2006-09-09
本書は『史記』の記述を一概に否定せず、最大限尊重しながら、新史料の記述も鑑みて科学的に項羽と劉邦の時代について分析しています。地図や写真も活用され、一般の読者が理解しやすいよう工夫がされているので、頭にスッと入ってくる読みやすさもクセになるでしょう。
「定説を覆す」「新発見!」というような大胆さや誇張はなく、あくまで忠実にシステマチックに事実を探るスタンスで、研究はこうした地味な積み重ねから成り立つものだということを実感させられます。
21世紀になっても、昔の人の営みに胸を躍らせる気持ちは変わっていません。多くの国の人が中国から文化を学んでいったように、「近くて遠い国」は「遠いけど近かった国」なのかもしれませんね。これからもますます新しいことが分かっていく春秋戦国時代とそれを取り上げた3冊は、どれも見て損はありません。