古典派音楽の代表とされる三大巨匠の1人、モーツァルト。彼の創った「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」などは聞けば誰でもわかる名曲でしょう。今回はそんな彼について知ることのできる本を、5冊紹介します。
1756年に、オーストラリア州の小さな街で彼は生まれました。父親はヴァイオリン奏者で、幼少期から彼に音楽の才能を見出し、教育を始めます。その結果、彼は3歳でチェンバロを弾き始め、5歳で初の作曲を行うなど、順調にその才能を発揮するのでした。その技量は、7歳の時、フランクフルトでの演奏でゲーテ(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、ドイツの作家)に絵画でのラファエロ、文学でのシェイクスピアに並ぶほどだとのちに称されるほどのものだったそうです。
青年になってからは、各地での音楽活動に精を出す日々が続きます。特に1769年から1771年にかけては、父と共にミラノ、ボローニャといったイタリアの地を巡回していき、やがて黄金拍車勲章を授与されるなどの功績を残しているのです。1781年にはウィーンに定住し、フリーの音楽家としての活動を始めます。モーツァルトが25歳の時の事で、その翌年、彼は父の反対を押し切りコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚するのでした。
1:かなわなかった6歳のプロポーズ
6歳の時、オーストリアの音楽の都ウィーン宮廷で女帝マリア・テレジアの前で御前演奏をします。
御前演奏を終えて下がる時、宮殿の床で転んでしまいました。その時皇女であったマリー・アントワネットが即座に駆け寄って起きるのを手伝ってくれました。アントワネットはモーツァルトより1歳上、可愛らしく優しい彼女に彼はのぼせ上がってしまい、「大きくなったら、僕のお嫁さんにしてあげる」とプロポーズしてしまいました。それが叶っていないのは誰もが承知のことです。
2:上演禁止作品を上演
彼が作曲したオペラ「フィガロの結婚」です。前作「セビリアの理髪師」の続編であり、前作はロッシーニ(1792〜1868年、イタリアの作曲家)が作曲。共にフランス人脚本家ボーマルシェの芝居です。オペラは芝居の台本を元に作られました。
芝居は、貴族社会、封建制度を風刺しているといわれています。本作は、ところどころに貴族の横柄さが見え隠れする作品とされました。そのため、上演禁止になってしまったのです。しかし、実際には上演されて、禁止命令が出たせいでしょうか、庶民ならぬ貴族も押しかけるほどの作品となったのです。
実際、事情を知っているはずのオーストリア皇帝フランツ1世が上演を許可しました。モーツァルトの上演への熱意が強かったのです。彼自身は風刺と捉えず、作品の面白さを強調しました。
3:妻以上に愛した女性 がいた
彼は1782年にコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚。当初はコンスタンツェの姉のアロイジアに演奏旅行中に出会い惚れこみました。その惚れこみ具合は、アロイジアを追ってウィーンに来たほど。
しかし振られた挙句、妹のコンスタンツェと結婚しました。コンスタンツェたちは3人姉妹で、ともに歌手でした。美しく才能溢れるアロイジアに彼は何曲かアリアを作曲し後押しもしていました。恋に破れたせいでしょうか、アロイジアのことを父親への手紙の中で良く書いていません。
それでも、彼自身は最後まで忘れ切れなかったようでした。アロイジアは彼の葬列で墓地まで歩いたと言われています。
4:いささか品を欠いていた
彼といえば誰もが天才、大作曲家と認めていますが、どうも品が悪いようでした。
下品さが表れている曲に、「おれの尻を舐めろ」という声を出して言いたくないような歌もあります。どうも彼は尻の話が好きだったようです。
彼が下品である、と知られるようになったのは「ベーズレ書簡」と呼ばれる手紙が見つかっているからでしょう。ベーズレ書簡は彼が従姉妹(父親の弟の娘)に宛てて書いた手紙でした。ベーズレとは従姉妹という意味があります。彼女もふざけ好きで、彼とは気があったそうです。書簡の内容も排泄物と下半身の話題が主だったようです。
彼がモデルとなった映画「アマデウス」で下品な言動をするのもこういう文書があるからでしょう。
5:レクイエムは死への行進
彼のレクイエム、通称モツレクにまつわるエピソードは最大の謎ではないでしょうか。
彼の晩年、35歳の時です。ある日、全身灰色づくめの服に身を包んだ正体不明の男がモーツァルトの家を訪れます。灰色の男は、彼に「死者のための鎮魂曲」つまり「レクイエム」の作曲を依頼します。来訪者はかなりの報酬を出したので、当時生活が困窮していた彼はその仕事を受けました。
ところがその仕事を受けてから、どんどん健康を損ねていってしまうのです。取り憑かれてようにレクイエムの作曲に励んだとも、曲が曲だけに呪われた曲、とも噂されています。1791年8月に依頼を受け、9月30日の「魔笛」初演の後に書き始め、11月20日から病床に伏しました。曲は未完のまま12月5日に帰らぬ人となります。
彼の死後、「のろわれた曲」といわれたのも無理からぬことです。 それでも、弟子ジェスマイヤーの手により完成の目を見ています。
6:葬儀の謎
彼の命日は12月5日。葬儀は、翌12月6日のようでした。その日は風雨が強い寒い日だった、といわれています。そのため、妻のコンスタンツェは葬列に入らず、墓地までついていくこともしなかったという話はCDのジャケットなどで目にするエピソードです。コンスタンツェ悪妻説はここにもある、と思われせる事件です。
しかし、最近違う説も出てきました。ウィーン気象台の記録を調べた人によると、1791年12月6日の天候は比較的穏やかであった、ということでした。そして天候が悪かったのは12月7日のようです。
となると、葬儀の記録を間違えたか、あるいは意図的に葬列に参列しない理由を作り上げたか?と謎が浮かびあがってきます。
幼少期から天才と謳われたモーツァルト。彼が音楽史にどのような影響を与え、貢献したのかをを主眼に彼について多角的方向から探る一冊です。
たとえば当時の政治事情、流通事情などの社会的な側面や、彼の人としての関係や作曲のプロセスなどにも触れられています。年代順ではなくジャンル別に章分けされているのも珍しい点でしょう。
- 著者
- H.C.ロビンズ ランドン
- 出版日
新書200ページほどの中に、モーツァルトの生涯と彼の楽曲の解説をすべて詰め込んだ、彼を知るための一冊です。著者の深い愛情が感じられ、彼の魅力が余すところなく実感できることでしょう。人物像と楽曲、双方についての理解を高められるため、入門としてまず外すことのできない本です。作曲の解説と共に、実際に曲を聴くとより曲への理解が深まり、音楽を楽しめることでしょう。
モーツァルトは自身が死ぬ3年ほど前に、自分のことについて手紙で語っています。曰く、自分ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人は他に1人もいない、と彼は語ります。そんな天才であり、作曲に多くのことをつぎ込んだ彼の音楽は、生涯の中で起きた3つの事件によって変化したのだ、とこの本では述べられています。
- 著者
- 中野 雄
- 出版日
この本では、モーツァルトを天才であるという点をことさらに強調することはありません。むしろ、より身近に彼もまた1人の人間であるということを主眼に彼の楽曲について述べています。
たとえば、初期の楽曲に対しては彼の年齢を考慮しての評価であるですとか、世間の波に飲まれ、厳しい現実に苦労したですとか、ただの音楽家として何をしていたかが分かるように語られています。
そんな彼の音楽性がどのように育まれ開花していったのか。幼少期の父親の教育、父と行った旅の道中、そして時代を代表する音楽家たちの指導、そのすべてがそろってモーツァルトの天才性が発揮されたのだと主張する一冊です。彼を形作った軌跡をたどることができるものとなっています。
演劇と音楽によって表現される舞台芸術、オペラ。もちろん、モーツァルトもオペラの作曲を行っています。彼の五大オペラとされる「フィガロの結婚」や「魔笛」などを含めた、数にして22作もあるそれらを、彼はどのように考えて作曲したのでしょうか。
- 著者
- 堀内 修
- 出版日
- 2006-03-15
この本では、彼が作ったオペラ作品のあらすじと見所を紹介した一冊です。彼のオペラ作品の全てに注目したのはこれが初めてであり、モーツァルトのオペラへの入門書としては最良といえるでしょう。
彼のオペラ作品の紹介だけではなく、オペラ自体の演出や歴史上の扱いなども含めた一冊です。彼がオペラを作曲する過程も含めて詳しく解説がなされています。当時の演出だけではなく、時代によって変化していく演出、要素などにも触れられているので多角的なオペラの知識が身につけることができるのです。これをガイドブック替わりに、モーツァルトオペラに触れればさらに面白さが増すことでしょう。
モーツァルトの作品にはK000やKV000というような番号が振られていることはご存じでしょうか。これはケッヘル番号と称されるものです。たとえば「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」ならばK.525、「魔笛」であればK.620というような形で番号が与えられているのです。この番号は、ルートヴィヒ・フォン・ケッヘルという学者によってつけられました。
- 著者
- 小宮 正安
- 出版日
- 2011-03-18
もともとは彼が作ったケッヘル目録中で付与された番号であるケッヘル番号。長年人々に親しまれた結果、今でも作品解説やCDなどで広く使用されています。しかし、なぜケッヘルはこのような番号を作ったのでしょうか。
ケッヘル番号はK.1にあたる「クラヴィーアのためのアンダンテ」から、未完であるK.626「レクイエム」まであり、その数は非常に膨大です。そもそもケッヘルはどういう人物で、どのようにして番号を決めていったのか。天才モーツァルトを、彼とは直接関わりのない学者視点からとらえる一冊です。
モーツァルトは日本人に最も人気がある作曲家の一人と言われています。なぜ、こんなにも彼は日本で受け入れられたのでしょうか。この本ではその「なぜ」に答えるため、日本でどのようにしてモーツァルトの音楽が受け入れられていったのかを江戸時代から遡って考察されています。
- 著者
- 井上 太郎
- 出版日
- 2009-06-02
日本における洋楽が受容されていく過程に沿って解説されているため、モーツァルトのみならず、日本全体での西洋音楽が受け入れられていった過程の話も楽しめる一冊です。
著者はモーツァルトを愛してやまない気持ちから、自身が彼にのめり込んでいった時の体験も織り交ぜて語っています。そのため解説書というよりはエッセイの側面のほうが強いのも特徴です。当時の日本での西洋音楽の成り立ちから、それがどのように変化してきたかまで触れられた、日本のモーツァルトを知るのに適した本でしょう。
いかがでしたでしょうか。天才と称されるだけあって、モーツァルトは多くの人を魅了し、動かしてきたのだということがよくわかります。本をきっかけに、彼の音楽に触れながら、そのことを深く考える機会にしてみてはどうでしょうか。