【#19】※この岡山天音はフィクションです。/君が俺を知ったとて

更新:2025.2.27

***

俳優。1994年6月17日生まれ。東京都出身。

真昼と夕方の中間の時間になると、いつも背後に誰かの気配を感じる。

外にいる時も、自分しか居ない部屋に一人で居る時ですら。いつも咄嗟に振り向くけど、当然そこには誰も居ない。誰も居ないから適当にそのままにして過ごすけど、その間も俺の背中にはピタリと誰かの視線が張り付いている。

気がする。

気になって目の前のことに集中ができない。何度も振り返る。

気を削がれ貧乏ゆすりをしながらもそのままにしていると、その気配はぱったりと消える。それは決まっていつも、デジタル時計が夕方の五時を示す頃だった。

 

これは十年以上も前の話で、当時の俺はというと毎日実体の掴めない何かに怯えているのが常であった。何に怯えているのか、何を癒せばこの震えが治まるのか、俺自身にも皆目見当がつかなかった。

その頃俺はまだ実家暮らしで、よく近所の公園の中をオーディション用の台本片手にぐるぐると歩き回っていた。止まっているよりも歩いている方が台詞を覚えやすい気がしていた。

そこは小さな公園で、置かれているのはベンチと犬をモチーフにしたスプリング遊具だけ。そこからもう少し歩けばもっと大きくて綺麗な公園が他にいくつかあって、子供達や家族連れはみなそちらに足を運ぶ。だからその日も俺だけがその小さな公園に赴き、埒の明かない台詞との取っ組み合いを繰り広げていた。

いつ行っても公園とその周辺は静まり返り、不自然なほど人の姿を見かけない。多分この公園の外で世界はその活動の循環を完結させていて、その循環に関連のあるもの達は、この公園には用事がない。

 

一週間後に控えるオーディションの台本は、前日の夜にFAXで送られてきていた。

公園内をぐるぐると歩き回りながら、頭の中で台詞を繰り返し読み上げる。時々実際口にも出す。

だけど、ある時唐突に誰かの視線を感じて、俺は咄嗟に台本から顔をあげた。昼と夕のあいのこの光を受ける公園は、しかし相変わらず俺以外の人間の姿を消し去っていた。

でも確かに傍に、俺以外の誰かの気配がある。

人の姿は欠片も見当たらないが、どこかから、誰かが、俺を見ている。

しばらく辺りを見回す。公園に隣接する団地の窓も一通り見渡してみたものの、やっぱりそこに人影は認められなかった。

台本を読んでいる最中は神経が過敏になってしまう節がある。だから居心地の悪さを感じながらも、あるいは気のせいかも知れないと思い直す。

台本に視線を落として集中を再開させた。

でも台本へ注がれる俺の視線は何度繰り返しても文字の手前を滑っていく。誰かの気配が俺の集中を遮っている。確信を得る。

それでその日は消化不良のまま、予定よりも少し早めに自宅に引き揚げる事にした。でも視線の気配は家に向かう道中も、どころか自宅のドアをくぐりそのドアを閉じた後も、俺の背中に突き刺さったままだった。途中何度も振り返る羽目になったが、相変わらずそこに人の姿は無かった。奇妙な居心地の悪さに戸惑いながらもリビングで台本に視線を落としていると、ある時ふっと、その気配が消え失せた。窓を見やると外はもう夕方で、時刻はちょうど五時を指していた。

 

それからの数日間は、公園に赴く事もあったがほとんどの時間を部屋の中で過ごした。

しかし部屋にいても、夕方前の時間になると決まって誰かに見張られている例の感覚に見舞われた。自分しか居ない部屋の中ですらそんな思いに駆られているなんて、やはり全ては俺自身が呼び起こしている錯覚なのではと改めて自分自身に疑いの目を向けるが、その発想には自分でも思い当たる節があった。

 

このままオーディションに落ち続ければ、オーディションの当落だけじゃない、人間としての枠組みみたいなものからも自分が落っことされてしまう様な気がしていた。近頃は特に冷静さを欠き、自分を怯えさせる為の幻覚を、自分で自分に見せてしまえる場所へ自分を追いやっていたとしてもおかしくはないのだった。

 

オーディション前日になると台本にはすでに深い折れや破れが入っていて、俺自身の心も明日への緊張でしわくちゃになっていて、そしてまたやってくる昼過ぎ三時ごろからの厄介な感覚。だからその日は、どうせなら、とその時間を割り切って捨ててしまう事にした。なぜこの時間帯にだけこの錯覚が訪れるのか、疑問や不安で据わりの悪い心を、録画していたもののけ姫を再生する事で打ち消そうとした。

ただ、その日だけは様子が少し違っていた。

物言わぬ視線の気配だけじゃなく、ドアの外から、微かな物音が聞こえて、しばらくしても、鳴り続けている。

 

誰かが、いる。

 

ドア一枚隔てた廊下に誰かが居る。そこからの物音が部屋の中へ入り込んできているのだ。

俺は息を潜め、静かに玄関のドアまで忍び寄り、そこに埋め込まれる覗き穴を覗き込んだ。人の姿は無い。見当たらない。

音の正体は、どうやら人の声の様だった。そう気付くのに少しだけ時間を要したのは、その声が人の肉声では無く何らかの機器によって加工されたみたいな声で、その上ほとんどが囁く様な、小さな音だったからだ。

ドアに耳を近付けてみると、声の正体は何か不明瞭な言葉を羅列している様子だった。

気色が悪い。鼓動が速まる。

これも俺が自分に見せている幻覚の一部だったりするのだろうか。俺は、少しずつ狂っていく自分でも触れない自分のその部分に恐れを抱いた。俺はこのまま、どこへ行き着いてしまうのだろうか。

 

耳をそばだてていると、意味不明な言葉の羅列はやがて止んで、俺は少し間をおいてから玄関のドアをゆっくりと開くが、当然そこに人の姿はない。

ドアを閉め鍵をして呆然としたまま、何気なく部屋の方を振り返ってしまう。

テレビの中ではアシタカがぐにょぐにょとうごめく自身の腕をもう一方の手で必死に押さえ付けていた。

ただ、それだけだった。

 

駅前の書店が新しくなっていて、リニューアルされる前の店舗に最後にもう一度足を運びたかったな、などと思った。

少し前からそこの書店はリニューアルされていたはずなのに、『それを見て何かを感じる事』を忘れていたらしい。

駅からの帰り道の足取りが久しぶりに軽かった。

オーディションには、悪く無い手応えがあった。ビルの会議室に呼び込まれた五人の内、自分だけがもう一度演技する事を要求されたのだ。

合否はまだわからない。でもそれでも少しだけ、自分がまともな人間になれた気がしていた。

 

例の公園の前を通りがかると、公園の中には珍しく人の姿があった。というより自分以外の誰かがその公園に居る所を見たのは、もしかしたらそれが初めてだったかも知れない。

男の子が一人、公園の中心にしゃがみ込んでつぶさに地面を睨んでいた。

一体何を見つめているのだろう。しばらく地面を見やった彼は、それから太ももと上半身の間に挟み込んでいたノートに何かを書き込み始めた。

その姿を横目に公園を通り過ぎようとした時、突然その男の子が俺の方へ顔を向け、途端、顔中を見開き何かに恐れおののく表情を見せた。その豹変ぶりにこちらの方がギョッとさせられ、思わず俺も彼から目が離せなくなってしまう。

見覚えのない子供、向こうはこちらを知っている?

俺が自宅への歩みを進めながらもまじまじと彼を見つめ返していると、その顔からじわじわと既視感みたいなものが滲み出してくる気がした。あれ?俺も、彼を知っている…?俺の過去のどこかに、彼が居た気がする。

キュウ…?

それは俺があの子供くらいの年齢だった頃、よく一緒に怪談話を創作していた同級生のキュウの面影だった。

記憶が一度噛み合うと、もうそうとしか思えなくなる。なぜすぐに気づかなかったのか。無理もない。公園の中に居る彼があの頃の、子供の頃の姿のままだからだ。

一体何が起こっているんだ。

俺はようやく歩みを止め、今度はゆっくりと公園に向かって歩き始める。

キュウだ。近付いて行くごとに、疑いはより確信に変わって行く。キュウだ。

彼と合作した怪談の代表作、「魂と書かれたタオル」は、当時学年を跨ぎ瞬く間に学校中に広まった。

「魂と書かれたタオル」は俺とキュウの実体験として語られる形の怪談話で、学校という小さな社会を丸ごと飲み込み震え上がらせ、そこから派生したチェーンメールなどが他の生徒の手によって生み出されては、ばら撒かれたりした。やがてそれは学校全体の問題となって、全校集会で校長直々に「怪談禁止令」が発令される程だった。

あの頃は、良かった。ただ生きているだけで全てが刺激的で、パチパチと目の前で火花が舞い散る様な日々だった。その火の確かな激しさが、今その公園でキュウと再会した、大人になってしまった俺の目の前にもこれから弾け出す気配がしていた。そうだった。思い出した。そうだった。全部が眩しかったんだ。

俺はキュウの前まで行って立ち止まると、公園には俺と俺の鳩尾辺りまでの背丈しかないあの頃のキュウと二人きり、奇妙な状況に早鐘を打つ胸で、俺はひとつだけ息を吸い込んだ。

「キュウ…」

「…え?」

キュウは相変わらずはち切れんばかりに見開かれた顔で俺を見上げていた。

「…キュウ…久しぶり」

こんなにも目線の違う再会を果たすなんて。何があったのかはわからない旧友に、それでも湧いてくる感慨が俺を包んだ。

「キュウ……何」

「全然違います…!沢田です…」

全然違った。全然知らない子供だった。

小学生の頃の同級生が大人になってから、子供の頃の姿のままで目の前に現れるなんてあり得ないしそれこそ怪談として語られるべき出来事だし、言われてみれば目の前の子供は全くキュウでは無かった。キュウは坊主だったけど目の前の子供はテクノカットだった。

肌を刺す妙な沈黙。今こそ火花が舞い散って、この沈黙に点火、焼き払ってくれる事を、俺は切に願うのだった。

 

少年の名は沢田カンジ。名前部分の漢字についてはまだ学校で習っていないため、本人も上手く説明出来ないらしい。小4。好きな食べ物はオクラと鰻。

公園の沢田カンジが俺を見つけたあの瞬間、それは深淵をのぞいていた少年が、深淵である俺にのぞかれた瞬間だったらしい。

ここ数日俺の気を塞いでいた誰かの視線の気配は、俺が俺に見せていた幻覚の類いではなく、この少年・沢田カンジが実際に俺を監視・尾行していたが故に生じた違和感だった。

少年は俺の問いに全てを素直に白状していく。

誰もいない公園のベンチで少年から聞く話には、俺が自分へ向けていた疑いの気持ちが晴れていく安堵と、勝手につけ回されていた事への戸惑いが同時に湧き上がってくる。

「なんで…俺の事なんかつけ回すの?ここしばらくずっと気持ち悪かったんだけど」

少年は一度唾を飲み込んで、それから口を開く。

「すごい…気付いてたんですね…」

は?

「でもそれってやっぱり……魔法の力だったりします…?」

わからない。出会った直後はあんなに萎んでいた少年の体から、静かな生命力が放たれ始める。わからない。

「…魔法?……魔法……?」

文脈が読めず、置いていかれる。

「マジヤバイ……これ僕ヤバイか……?でもマジヤバイよな……あの、これからマジヤバイこと訊いて良いですか…?」

俺が何か言葉を返そうとしている間にも、少年は俺の方を見ながら「マジヤバイ」を繰り返している。何が何だかわからない俺を一人置いて、少年は何が何だかわからないを進行させていく。

「ズバリ訊いちまえ……!…あなたって…ま…法使い…ですよね?」

「え……違うけど………違う……多分……え…?」

「えっ!?…でもあなた……邪悪ですよね……?」

少年の表情にふざけている様子は見当たらなかった。ふざけていて欲しかった。

「嘘だろ……?あ…でもフツーに嘘の可能性もあるかそれは流石に……」

この少年は思った事全てを口にするという取り決めでも己に課しているのだろうか。

「でも少なくとも、これやったのは…あなた………ですよね?」

少年は自分の足元を指差して、こちらの顔色を伺う様に訊いてくる。これ、とはどれの事だろう。

「これです…この…魔法陣…」

少年が指す地面を見つめてみると、足元の砂地には確かに何か、砂地を削り取った様に溝が浮かんで延びていた。溝を目で追って行く。それは園内に不気味な模様を描く様に広がっており、最終的にはそれらの模様の周りをも、溝で象られた大きな円がぐるりと囲っている。サークル状に囲われたそれらはまるで何かのシンボルマークの様にも見えた。

 

少年にとってこの辺りは普段の生活圏の外らしい。だがふとこの公園の前を通りがかったとき地面にこの紋様を発見し、囚われ魅了された。これは何なのだろう。なぜこれは、こんな形でこの場所に存在しているのだろう。そして少年がこれまで生きてきた十年間を総動員して導き出した答えは「ミステリーサークル」だった。

要するに、これは宇宙人の仕業だ、と少年は合点したのだ。宇宙人が過疎化したこの小さな公園の地面に、何らかのメッセージを込めて書き遺したもの。それから少年は、学校が終わってから塾が始まるまでの数時間を、毎日このミステリーサークルを見つめる事に費やした。

そしてある日いつもの様にこの公園にやって来ると、そこには先客としての俺が居た。

この公園に初めて人の姿を認めた少年は揺らぎ、即座に物陰に隠れて俺の様子を伺う。俺はミステリーサークルの線上だけを何度も何度もゆっくりと踏みしだいていた。一度もその線上を踏み外す事なく歩き続けて、その度に足元のミステリーサークルはより一層濃く地面に刻まれ、そのミステリーサークル然とした様を更に具体的に浮かび上がらせていくのだった。

少年は確信した。この人物こそが、このミステリーサークルをここに出現させたミステリーサークラーである、と。少年は息を呑み、鋭い目で俺を睨み続けた。

その時の俺は片手にコピー用紙を持ち、それを見つめながら口元では何かをぶつぶつと囁いていたらしい。

いや、それは台本を覚える為に台詞を唱えてしまう俺のクセなのだけれど、少年はまた自分のそれまでの十年間を総動員させてしまう。

少年の瞼の裏に濡れ髪で青白い、ぼうっとした顔が浮かび上がってくる。それは、とある映画の主人公である魔法使いに呪いを掛ける魔法学校の教員の顔だった。主人公の死角から囁くように口元だけを動かして呪いをかける。

酷似している。公園の俺もそれ的なそれをしているに違いない。少年は合点した。

つまりこれはミステリーサークルでは無く、魔法陣。そして俺は、ミステリーサークラーではなく、何かのまじないをこの公園に、ひいてはこの町全体にかけようとしている邪悪な魔法使い。

でも劇中のその教員は結局、主人公を守る為にまじないを囁いていたと後からわかるんじゃなかったか。

 

少年は息を呑み、「マジヤバイ…」の思いのもと、俺の邪悪を解き明かす使命を自己中心的にその胸に宿した。

その日その視線に勘づいた俺はそのまま帰宅。少年もそれに追従し、俺が自宅に入った後もうちの中を覗き見できる場所を何とか割り出し、向かいの団地の踊り場から部屋にいる俺の後ろ姿を監視し続けたらしい。毎日。

 

これが俺をここ数日悩ませた視線の気配の正体だった。いつも五時ぴったりに視線の気配が消えるのは少年が塾に通っていて、五時には俺の自宅のある場所から離れなければ塾の始業時間に間に合わないからだった。

ちなみに昨日、ドアの外から聞こえてきた異音も、勇気を振り絞り俺の部屋への突入を試みた少年だったがしかし踏み出せず、ドアの前で最近買ってもらったボイスチェンジャーを弄ったりして自分の意気地のなさをぐずぐずと誤魔化していたために生じた音だったらしい。ドアの覗き穴から見えなかったのは、しゃがんだ犯人の背丈。

子供という生き物の歪な探究心に俺は唖然としていた。何だこの状況は。何か底知れぬ恐ろしさを感じる。

「全くの誤解だよ。俺は魔法使いでも何でも無くて…ただ暗記しなきゃならない事があったから、公園を歩きながら覚えようとしてただけ…」

途端、少年は自分の夢を打ち砕かれたみたいに口を開いたまま固った。

「魔法陣は…自分でも驚いたけど無意識だよ。こんなに、地面を削るほど自分が園内を彷徨ってたなんて知らなかった……公園の中だけをぐるぐる歩き続けてたから、何か自分の中で無意識に導線めいたものが出来上がってたんだろうね……そしたらそれが魔法陣になってただけで、魔法使えたら俺いま実家に暮らしてないだろうし、だから、そこは……そうだから」

次に少年は視線を落とした。言葉なくともその落胆が静かに伝わってきて、何故だか俺の方が謝りたい気持ちにさせられる。でもそうなる前に、俺は別の言葉でそれをせき止めた。

「てか俺の生態を調べてさ、そんな……どうするつもりだったの?」

少年は俯いたまま、消え入りそうな声で「新聞…」とだけ唱えた。

「新聞……?てなに?」

「色んな情報が載っている紙です」

「新聞は知ってるよ俺。新聞…がなに……?」

「書きます。自分の新聞に」

「俺のことを…?そんな…書かないでよ新聞……俺のこと……」

弱った羽虫みたいな俺の声。

「なに……新聞って…君、書いてるの?」

少年は俯いたまま顎を更に自分の胸に引き寄せて、多分うなずいた。

「新聞部です、僕。野良の。すみません」

「野良の……。学校の、部活動ってこと?あの〜…学校で起こったこととかをまとめて、それを廊下に貼り出す、みたいな?」

「おおむね合ってます。でも、僕のはクラブじゃなくて、自発的な活動です。NPOです」

「NPOは関係ないと思うけど……一人で、自分で勝手にやってるって事?」

少年は微かに顔を上げた。喋る事に意識が向き、少しだけ気を持ち直したのかも知れなかった。

「毎週発行してるんです。その週にこの町や学校で起こったこととか、あとは全然関係ないけど僕の日常で起きた出来事で、シェアした方が良い事。例えば長持ちするしゃぼん玉の膨らまし方とか、誰かを好きになるという事はその人自身も知らないその人の事を知っていく事だとか、そういう発見をまとめてるんです」

話をする少年の口調には勢いが伴っていた。

もしかしたら自分が作った新聞についての話を、自分の口から誰かに聞いてもらったことが、これまでに無かったのかも知れない。

「新聞……書くの、楽しい?」

俺が追求すべきはそこではない気もしたが、隣の少年が初めて見せた小さな明るさに、思わず口をついて出たのはそれだった。

「楽しいです」

その声が、新品のゴムボールみたいに弾む。そこから彼が新聞を書くという行為に何がしかの喜びを見出している事が、横にいて伝わってきた。

「学校に居ても、塾に居ても、新聞に書きたい事が溜まっていってそれで………本当は勉強しなきゃなんですけど……あぁ〜〜〜……とか思いながらも新聞書いちゃって。でも、それでもその週の新聞が出来上がった時には本当に嬉しくなってます。コンビニでコピー取ってる時間も、廊下の壁にそれを貼っていく時間も、なんだか心がスッキリして、目が良く見えるようになったみたいな感覚になります」

少年の声は柔らかく、公園の空気に溶けていく。少年は話しながらの勢いでつま先を砂の地面に当て、そして弾ませた。

「新聞…かぁ…俺の時は部活でも無かったな…新聞部とか…あったのかな…」

その輝きによって陰みたいになった自分の過去の薄暗さを、俺は顧みた。

「あ!あれなに!?」

唐突に少年が声を荒げ、その波動に俺の体も揺さぶられて、反射的に『それ』を探さなければならない体になる。

「なに……!どれ?」

「あれ!あの駐輪場の下の!」

「どれ?」

「下の!てか裏の!」

「え?」

「あ、居なくなった」

少年の視線は公園から見える団地の駐輪場を捉え続ける。

「なにか居たの?」

「猫だけど猫じゃないみたいな……猫だけど…猫じゃなかった…」

元気の無いさつきとメイちゃんみたいな言い方をして、少年は自分の背中を丸めた。少年を励ます様な気にもなりながら、俺は何となく投げかける。

「白かった?」

「白かった!」

「ハクビシンじゃない?」

「ハクビシン?」

「なんかたまに出るんだよ。駐輪場にたまに居る」

「ハクビシンのシンは神?」

「いやわかんない。でも違うんじゃない?多分本当は山とかに住んでるんだけど、この辺はどっかから降りて来ちゃうんだろうね」

「山か…」

少年はハクビシンの残像に焦がれる様にまた駐輪場に視線を戻した。

「山なら神の可能性、ありますよね…」

俺には理解できない文脈に則って少年がまた、何か空想の世界に拐われて行ってしまうような気がした。

「新聞に書く?」

「………今後の進捗次第では」

「難しい言葉知ってるね」

俺がそう言ってしばらく、少年は何も答えなかった。その言葉が届いたのか届いていないのか、少ししてから少年は正面に向き直って、それで見えた少年の横顔は、どこか虚ろに見えた。

「でも……もう辞めます…新聞」

「え?………」

またもついて行けない。

「なんで?」

俺の問いを少年は無視する、というより、自分の内の何かのうねりに体の外側が置いていかれて反応出来ていない、みたいな感じだった。

「ハクビシン、見逃しちゃったから?」

少年は鼻で笑って俺の言葉をいなすと、その笑みはそのまま苦笑いに変わった。

「え〜〜〜…………っと…」

また逡巡する様に言葉を切ったが、それでいて、今度は滑らかに喋り出す。

「意味ないから。今日も実際、あなたとか…に、迷惑かけちゃったし。ためにならない事はしない方が良い。今は勉強をしなきゃいけないから。僕のはクラブとかじゃないし、野良だから………。中学受験するし、塾も毎日ある」

首から下げられていた太い紐を、彼は着ていたトレーナーの襟から引っ張り出しながら喋った。色褪せた紐の先には、銀色の鍵が括り付けられていて、少年は十字架に祈るシスターの様にそれを右手で握りしめる。自分が何を口にすべきなのか、ここには居ない誰かの指示を仰いでいるみたいにも見えた。

「それは……誰か…お母さんとかが…言ってたの?意味ないって?……新聞書くことは」

俺はいつの間にか彼の抱えている景色に、思いを馳せていた。

「だってそんな事してたら、その分勉強する時間は減ってくし。それに僕が書いた新聞って、誰も読まないんです、正味。実際の新聞って大人たちみんな読むじゃないですか、でも僕のは読まないんです。廊下の壁に貼り出すんですけど、そこに無いみたいに誰も気づかない。そこに無い物は受験の役には立ちません」

聞きながらふと見やった公園の向こうの空に、太陽の断末魔みたいな赤い夕方が見えた。

「だから…もうやめます」

いつかこっち側にもあの夕日はやってきて、そうしたら、あっという間に夜になる。

「なんでさ、新聞を書き始めたの?勉強もあるのに。学校の決まりでもなくて野良で、主体的にそんなオリジナルな活動を。やってる子いないよね?…いるの?みんなが主体的でオリジナルな学校なの?」

「僕以外にそんな事してる人は、いません」

まるで自分を責めるみたいに、彼は手短に言った。

「じゃあ、なにがきっかけで、始めたの?」

「………………わかりません」

彼は視線を公園の宙に泳がせた。

「もう子供のころから書いてて……………だから……覚えてません」

今も子供だろうと心の内だけで唱えると、それに同調するみたいにして公園前の街灯が数回だけ点滅、白くて清潔な光を灯らせた。

頭の片隅で、多分もう五時だ、とかをぼんやりと思った。俺は街灯を見つめながらもほんの少しだけ、あこがれた。街灯にじゃない。

俺は彼に、憧憬の意識を見た。

「そっか」

夢中になってしまう事、なぜそれをするのかを自分に問う暇も無い程に、人生になくてはならないものと出会ってしまっている事。そういう人のことを、天才だと、俺はそう思っていた。

「あ、もう五時かもね。時間大丈夫?」

俺が憧れた人生の時間の中に、彼は居るんだな。

「あ………あ〜そろそろ行かないとです……」

そんな事を知る由も無い彼は、自分の携帯の液晶を確認して言った。

「そっか。じゃあ、そろそろ行こうか。もう…やめてね…監視しないでね。俺、公園に呪いかけたりしてないからさ…ごめんね」

誰に指示された訳でもなく、また誰かを真似た訳でもない、『新聞を書く』という行為に取り憑かれた男の子。取り憑かれたように何かに時間を奪われてしまえる人は、多くは居ない。俺がそうではないように。

「はい……すみません…もう…辞めます」

一層縮こまる彼はそうして頭を下げた。

その時俺は自分の奥の方で何かが痛むのを感じた。確かにそれは『痛み』だった。でもそれは奥の奥での知覚で、そんな部分と手前の自分との接続の仕方もわからないし、取り敢えず一度頷いて、それでそれからもう一つ最後に何か、とか思って、でもそれがなかなか見つからなかった。

針で刺されたような、自分の奥の痛みが気にかかっていた。

彼はベンチから立ち上がって、俺の方を見ながら何か許しをこうみたいにしてそのままそこに居続けたが、俺が何も言わない様子を見て、もう一度控えめに頭を下げて踵を返し、後ろを向いた。

もうすぐ夜が来る。

「あの………」

一瞬間があった。それが自分の発した声なんだと、俺は後から自覚する。

「やめないで」

そう口走って、口走ってからまた気がついて、それで彼は振り向いた。

「え?」

「それって多分、『好きなこと』だよ」

何を喋り始めているのだろう。そう思いながらも、体の奥の方から押し出されるみたいにして、言葉が出る。

「何の役にも立たないかも知れない。自分が見つけた発見を形にして、外に向けて表現すること」

首から顔に向けて熱の塊がせり上がって来る。重たい熱の塊が、俺から出てくる言葉をも包み込んで重たくしていく。

「それだったらさ、塾で勉強した方が良い。塾で勉強した方が受験に受かる可能性は高くなるしさ。そしたらお金を稼げる仕事に就いてちょっとやそっとじゃ崩れない、安定した生活を送って誰か、大切な人も一緒にその船に乗せて、穏やかで幸せな人生を完成させられるのかも知れない。でもそれって何か、何かの役に立つのかな?ていうか何の役にも立たないのに、自分がしたいと思うこと、してしまうこと、そんなことがさ、それはさ、というかそれだけがさ、君にとって、君の人生とって、本当の役に立つこと……」

言いかけて、何を言いたいのか、自分でも上手く掴めない。体の内側で動く何かを、言葉に換えることがこんなにも難しいなんて知らなかった。口にしながら、言い切れなくなる。口から言葉が出て空気に触れた途端、言葉がその死骸に成り果てていくような感じがした。それでも体の内側の俺に言葉を作らせる何かは、俺にとっての『本物』である事だけはわかっていた。わかって、俺は喋った。

「外の世界が君の体を通って、自分だけの形の世界みたいになって、それをみんなに見せる事。色んな形があって、それが素晴らしいってみんなに教えてあげる事。君にとって新聞を書くってそういう事、みたいな感じがするんだけど、違ったらごめん。それがじゃあ勉強よりそっちを取って、じゃあ良い学校に入れなくて良い仕事を選べなくなって、その頃に野良の新聞が何か経歴や仕事になってくれるのか、とかはわからない。いや、作家になるとか……いや……いや、もしかしたら作家になる方が、受験よりももっと難しいか……いやわからない。でも、っていうか、ていうか仕事になんかならなくても、仕事よりもそれはきっと、もっと大きな何かを君に気付かせる。君をどこかに運び込む。思いもしなかった誰かを振り向かせたり、思いもしなかった出来事と対面させたり、思いもしなかった時間の中に君を連れ出してくれる。君の新聞はそういうものなんだと思う」

彼の背後から、太陽が今日の最後を振り絞るみたいにして陽光を射してきて、眩しい。目が開けられないくらい、眩しい。

「それが、みんなが出会いたくても出会えない、『好きなこと』。そういうものなんだと、俺は思った」

俺が喋るのをやめると誰も喋らなくなって、そうだった。この公園が持ちうるのは、静けさだけだった。

その事にふと気づく。

俺は彼に放った言葉の、放ったは良いがその後の収めどころを思いつけない。もちろん彼もその言葉の収めどころなんて知らない。

俺たちは、少なくとも俺の方は、何も知らなかった。

二人ででっち上げた魔法陣の手前で、呪いにかかったみたいに二人とも動けなくなって、困る。

夜はもう俺の背後まで迫って来ているのだろうか、というか今日はもう夜は来ないんじゃないかって気もしているし。それぐらい、それぐらい二人はただ黙って、夜だか夕方だかわからない、未完成な空の下にただ、居た。

 

それから俺たちがどうやってそれぞれの道を、俺は自宅へ、彼は塾へ、その気だるい道のりに取り掛かったのかを、俺は今では綺麗さっぱり忘れている。

気まずさに打ち負けた俺が不器用にその場を切り上げた気もするし、彼の方が塾を言い訳にそそくさと逃げ帰って行った気もする。

 

あれから十年以上が経つ。だけど未だにあの日の記憶は、時おり俺の内側をこっそりと撫でてゆく。

ちなみにあの日に受けていたオーディションの結果は、落選だった。

オーディションの日から数日後に連絡を受けたのは、確かどこかの駅のホームに居た時でその直後はショックで気を失って誤り線路に転落、そのまま線路に空いた穴に落ちて落ち続けて反対のブラジルの穴から逆にブラジルの空の彼方まで上昇して行った記憶があるのだけれど、今の生活から推測するにあれは自分の精神の中だけで起きていた事象なのだろう。

今でもただ佇む他ない場所に気持ちが入り込むと、少年とのあの日の無言の佇み合いが連想されて、それで少し自嘲する。

元気だろうか。

 

実はあれから、沢田カンジの名前の部分に充てる漢字の書きに思い当たる機会があった。

それはあの日から数年経って、その頃、俺は小忙しかった。

ある日曜日、俺は次にやってくる仕事に向けて、知り合いの息子さんが通っている中学校にお邪魔させてもらう事になった。

中学校にまつわる直接に見聞きしておきたい事がいくつかあり、突飛な俺の申し出をその学校は受け入れてくれて、それで校内を見て回ったり、案内してくれた先生への聞き取りなどを行った。

その中学校は都内屈指の進学校で、校内には目に見えない知性の粒子が漂い、校舎にはそれ自体にすら何か高貴な意思が宿っている様に感じられた。

途中お手洗いに立ち、その間も校内をくまなく観察。それで、一所の掲示物に目が止まる。

それは廊下の掲示板に紐で吊るされた小冊子で、手に取りパラパラと捲ればそれがいわゆるZINと呼ばれる代物である事が伺えた。写真がコラージュ的に貼り合わされていたり、文章が並ぶページがあったりで非常に興味を惹かれる。

 

・学校の七不思議という「希望」

・外でゲームをする子供たち10人に訊いた「僕が外でゲームをする理由」

・プリキュアの絵を小さな紙に描いて、それを窓から捨てるという「魔除け」

・田城先生の今日のグミ vol.12

・虚構肉 第八回

 

これは学校の公式な行いの一部なのか、とすればなかなか洒落ているな、とか偉そうに思いながらななめ読みを続けていると、最後の奥付部分に発行者の名前があった。

『沢田莞爾』

間を置いて、思い当たった。

確かに小学生に、この漢字の説明は難しい。

表紙に戻って眺めてみると、そのZINは『野良』と題されていた。

実際のところの確証は何も無いし、それがどうってことではないのだけれど。

その時の俺は、その辺に散らばっていた石コロが一つの線で結ばれて、それらの本来が星であった事を知らされたような気持ちの中に居た。

あの日出会った少年は、やっぱりそこらで生きている。自分の目で世界をくまなく見つめては、編み直して書き出している。

「ほ・ほ」

自分の口から気色の悪い笑いが小さく漏れた。

元気かな。元気そうだな。

知らんけど。

明るいとこに。いてよ。

 

※この岡山天音はフィクションです。

てか長ない?

 

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